第54話 どうやら元気にしていたようです
マリーと学園の敷地内で別れてから、およそ三週間が経ったある日の午後。
練習用の剣を片手に学園のすみへと向かい、ここ数日で見慣れた場所になった、ベンチが一つ置いてあるだけの小さな無人の庭園に足を踏み入れた俺は、そこで目の保養をするでもなく、またいつものように黙々と素振りを始めた。
もちろん自主的にではない。模擬試合に負けに負け続けた結果、ようやくというべきか、教官に練習をしておくよう勧められたからだ。
そう、俺は剣盾祭以降、不当に高いとされてきた評価を返上して、ついに正当な低い評価を教官から獲得したのだった――なんて言うと喜ぶべきことのように聞こえるのだが、妙に釈然としないのはどうしてだろうか。
いや、俺はまだいい。本来であれば、やれと命令すればいいところをやってみたらどうだと、それも人目を避けてほしいという妙な条件付きでこそっと提案せざるを得なかった教官の胸中は、きっと俺の比ではないぐらいに複雑で屈辱的で、釈然としない思いでいっぱいだったことだろう。それは俺が平民であり、教官が貴族であることを考えれば想像にかたくない。
ただそんな思いをしなければならなくなった主な原因は、俺の評価が下げづらいという点に尽きるだろう。たとえばだが、俺の評価を急激にであったり、大っぴらにであったり、とにかくその下げ方を誤ると、同時に王子の評価まで下げかねないのだ。
まったく、誰がこんなややこしい立場に俺を立たせたのやら。あ、俺たち学園関係者でした。と、きっと教官もその周りも頭を抱えたか、今も抱えているに違いない。
そもそも俺は王子の評価を上げるだけあげといて下げられなくなったから、そのまま高いことにしてしまおうという身勝手な保身に巻き込まれた身であるからにして、ここはひとつざまあみろと言ってやりたいところなのだが、コンのときにはその保身の副産物として生まれた虚像に助けられたため、思うだけにとどめるのもやぶさかではなかったりする。
――などと余計なことばかり考えながら剣を振っていると、
「ここ、空いてますか?」
不意に音もなく背後から現れたリゼットにベンチを指さされて、
「ああ」
と思わずなれなれしく声を返してしまった。
「あ、」
俺は聞かれてないよなととっさに周囲を見回し、すぐに大声で話せばさすがに聞こえるかなぐらいの距離に人影を二つ見つけて、内心で冷や汗をかく。どう見ても学園の関係者という風貌ではない。
となるとあれは監視か。というかこいつ監視を引き連れてきやがった。いったいどういうつもりなんだ? と俺が身構えていると、
「彼女たちは私の身の潔白を証明するいわば証人です。気にしなくていいですよ」
物は言いようのお手本のようなことを言いながら、リゼットがゆったりとベンチに腰を下ろして、
「お久しぶりです。あ、素振りはさぼっちゃだめですよ?」
証人と呼んだ者たちに背中を向けているのをいいことに、茶目っ気たっぷりにほほえんで見せた。
やれやれ、リゼットに会うのは夜の薔薇園以来だが、どうやららしさを取り戻したらしい。まあ俺の心配などリゼットは必要とはしていなかっただろうし、俺も特に心配はしていなかったのだが。
とりあえず元気そうで何よりとリゼットを横目に、俺は素振りを再開し、
「なんだ、おとさたないから何人かぶった斬って檻の中にでも入ったのかと思ってましたよ」
「そこまではしていませんよ」
そこまでね。と俺はさすがはリゼット、期待を裏切らないなとふっと笑みをこぼした。するとリゼットが胸をなでおろすように、深く長いため息を吐いて、
「こんなに安心したのは久しぶりです。本当に」
立ち直ったように見えたのに、甘えるような視線を向けてきたので、
「たまたま会ったわけでもなし。ここにわざわざ顔を出したってことは、何か用があって来たんじゃないんですか?」
俺のほうからこっちに来いと手を引くように言葉で道筋を引き直すと、リゼットが不満そうにぷくっとそのほおをかすかにふくらませた。ただそれもほんの一、二秒のこと。すぐにつんとしながらも氷のように冷たくはない、と俺には感じるいつもの落ち着いた表情に変わると、
「そうですね。今日は長くなりそうですから」
俺にいつまで素振りをさせる気なんだと、一言物申したくなるようなことを言った。ただそれを声にしてしまうと次はほおをふくらませるだけではすまないような気がして、口をはさめずに黙っていると、
「こほん」
とリゼットが仕切りなおすように、せきばらいの真似事のようなことをして、
「ではまず初めに、同じ学園に籍を置いているということで、ハンプトン伯爵から預かった言葉を貴方にお伝えします。と言いますか、今日はこのために貴方のもとを訪れた、ということになっています。建前は大事ですからね」
気のせいではなく、声をかすかに弾ませ、機嫌よさそうに語り始めた。しかし伯爵が俺にいったい何の用だろうか。ハンプトンという名前に聞き覚えはないが。
「西に来たら寄れ。だそうです」
みじかっ。というか、
「なんでまたそんなことになったんですかね」
「ハンプトン家の者を貴方が助けたからですよ。夜会の際に斬られそうになった給仕がそうです。伯爵も給仕もとても感謝していましたよ」
「感謝、ですか」
そう言われると悪い気はしないが、今のところ西に行くような予定もなければ、今後もその予定ができるかはあやしいところだ。それに一言で西といっても広いのだ。いざ向かうことになってもハンプトンの家から離れていればわざわざ寄ることもないだろうし、何ならそれまで覚えていられるかもあやしいところだ。
こんなときリゼットなら難なく覚えて、必要な時に思い出せるのだろうが――俺はリゼットではないので早々に覚えることをあきらめて、運が良ければ思い出せるだろうと、伯爵の名前ごと聞いた内容も意識のすみに追いやった。
「そういえば感謝で思い出したんですけど、ソフィア様は無事なんですよね? 無事を確かめたうえで礼を言っておきたい相手が一人いるんですけど」




