第38話 どうやら深い青のようです
「夜会の正装を薄着ってはっきり言ったの、もしかしなくてもアンタが初めてかもね。私も動きづらいから好きじゃないし」
「ふーん」
好きじゃないのに着るのか。貴族も大変だなと俺が待たせているハムのもとへと戻り始めると、すぐにコンもその纏った漆黒をなびかせて横へと並んでくる。
にしてもこのこけたら大けがしそうな薄着が正装、か。確かに周りを見れば女性はみなコンと同じように、肩と胸元が開いた服を着用しているが、目のやり場ならぬ手の置き場に困るので、できればもう少し肌の露出をおさえてほしいところだ。
「そういえばお前――じゃなくてコンスタンツェ様、俺の靴を踏んだでしょ。言っておきますけど、これ、ガナッシュに無理を言って借りたものなんですからね?」
そう俺が言うと、コンはへー、と興味あるのかないのかよくわからない声を漏らして、
「だから丈が合ってないんだ。呼んだのは私だし、言ってくれれば作らせたのに」
そで口をつまみあげて妙な言い回しをした。作らせた? 俺は頭のなかで繰り返す。まさかコンは今回に限らず、これからもこんな貴族の社交場に引っ張り出すつもりなのか? どうせもう一生こんな華やかな場所に来ることはないだろうと、こんな美味い料理にありつけることはないだろうと最初から全力で思いでづくにいそしんでいたわけだが、思いっきり間違いだったかもしれない。
次の機会があるのかはわからないが、仮にあるなら、俺がよくても主催者側が出禁にしかねない、いや俺ならこんな場違いなやつが会場にいたら、ほかの客のために絶対にそうする。
今からでも取り返しがつくか? 答えは言うまでもなく、頭を抱えたくなる気持ちを抑えて、ハムの前で足を止めると、
「三枚でいいわよね?」
コンに聞かれて俺はうなずいた。そしてしばしの待ち時間。俺の予想を大きく超える形で、焼き立てのパンにはさまれて出てきた分厚いハムの姿に感動しながら、コンの分を一つ残してそれ以外を手に取ろうとすると、
「ちょっとっ」
コンに横から手をたたかれた。それに俺がなぜ? と眉をつり上げると、
「アメリアがいるでしょ」
今の今まで視界に入ってきても見えていないことにしていたメイドの存在に、ついにコンが言及した。否、メイドというには少し無理があるだろう。アメリアの着ているそれは、メイド服の形をしているだけで、さすがに華やかさでは負けるが、漂う気品と高級感は貴族たちのドレスにも引けを取らないほどだ。というか言ってしまえば作業着とも言えるメイド服でコンがここに連れてくるわけがない。
ただ付き従っている姿はメイドそのものだ。ややこしい。いや、俺が詳しく知らないだけで、これがいわゆる侍女というやつなのか? よくはわからないがアメリアはいま、ラットボーンがいた位置におさまっているようだった。
「コンスタンツェ様、どうか私のことはお気になさらないでください。私はどちらかといえばすじ張ったものより、ほどよく脂の乗った肉のほうが好きですので」
「ちょ、ちょっとアメリアっ」
コンがアメリアの手をつかんで、俺にそうしたように会場の隅へと引っ張っていく。その一連のやり取りを見ても給仕はなんのことやらという感じだが、コンというか、アポロニアもうまいこと隠したものだ。
まあ俺が勝手にそう思っているだけで、アポロニアにそのつもりはないのかもしれないが――もともと切られて短くはなっていたが、それでもまだ長いしっぽを隠すためにスカートのすそをひきずっていることに目をつむれば――アメリアに人間のふりをさせているのは賢明な判断だと言わざるを得ないだろう。
領地の一件で貴族たちはアメリアのことを知っているとしても、誰もが受け入れたわけではないだろうし、余計な軋轢を生まないためにも、具体的には次の誘拐を生まないためにも、何よりそれ以外の者たちに配慮するならそれが一番だ。
しかし地下で会ったときには立ち上がることもできなかったというのに、今では一人で歩けるまでに回復したのか。
別にそれについて思うところはないが、通す腕がなく所在なさげにだらりと垂れた服の右そでと、前に見た時と変わらず目元を覆い隠すように巻かれた包帯に、さすがにそこまで都合よくとはいかなかったかと妙な親近感を覚えた。
……この調子だとまた近いうちにリゼットにしかられそうだな。
俺はコンとアメリアが離れたのをいいことに、差し出されたパンを三つすべて平らげて、こいつマジかと愛想笑いを引きつらせる給仕の前を離れた。
さて、次は何を食べたものか。焼いた生地の上に苺とブルーベリーと無駄に金粉が乗っていたやつなんかうまそうだったよな。などと考えていると、それまで流れていた音楽がひときわ激しくなったのち、鳴りやんだ。
足を止めて会場の中央を見やれば、それまでの華やかな熱気が落ち着いて、競い合うように衣擦れの音と扇を広げる音が重なる。そうして踊り終えたばかりの余韻を楽しむように談笑が始まったかと思うと、押し殺したような、しかし思わず漏れ出てしまったかのようなざわめきが会場の入り口のほうから伝わってきた。
目を向けると、ちょうど人の壁が割れたところだった。
「アルフレッド第一王子殿下……」
誰かがそう言った。
「ルミエ公爵家のソフィアお嬢様までご一緒だなんて……」
名前も知らない女性など視界の中にいくらでもいたが、ソフィアと呼ばれたのは金ぴかな王子の腕に手を添えてそこが私の定位置だと言わんばかりに堂々と歩く、はちみつ色の長い髪を後ろで結い上げ、真紅のドレスに身を包んだ女性のことだと俺は自然と理解した。そして二人の背後で、周りを固める護衛の一人かのような扱いを受けながらも、凛然と深夜の空色のような青をまとって歩く彼女の姿を見て、俺はわけもわからず一歩だけ前に踏み出していた。
「リゼット……様……」
そう口にしていたのはほかでもない俺だった。




