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オイルが川となって流れる道路はただでさえ歩きにくくて、フォウは何度も足をとられて転びかけた。
そのたびに腕を抱えてやる和彦も、油断すると滑りそうになるというのは同じ状況である。
「ええい、これでは埒が明かない」
さすがの和彦も堪忍袋の緒を切った。
今しも足もとでびちゃびちゃと音を立てて押し寄せるオイルに向けて、リューンの腕輪をかざす。
オイルを水として操るのではなく、周囲のものを凍らせるようにと念じてみた。
腕輪がまばゆく輝き、その光がじわりと足もとから広がっていった。
それにつれて、べたべたと虹色にきらめいていたオイルの表面が白く曇り、それが広がっていく。ゆらめく波の形のまま、動きを止める。
「和彦さんったら!」
ホッとしたのも束の間、小脇に抱えたフォウに叱られてしまった。
「凍らせたら凍らせたで、やっぱり表面はツルツル滑っちゃうじゃねえか!」
「あ、そうか」
「くそっ。スケート靴かなんか準備してくりゃよかったぜ!」
凍らせてから炎で燃やすにしても、できるだけ被害のおよばない一か所へオイルを集めてからでなければならない。
本来はそのあたりの行程をゆっくり確実に行えばよかったわけだが、なにしろ目の前にはオイルを吐き散らす巨大な虫が何匹もいるのである。
これが落ち着いていられるものか。
カブト虫と違ってこの虫には角がなく、代わりに口の部分がストローのように突き出していた。その口を地面につけて、すでに街じゅうを覆っているオイルを新たに吸おうとしている虫も多かった。
しかし、ビルの陰からしばらく虫を観察していた和彦は気が付いた。
オイルを吸い上げようとするたび、虫は急に苦し気に身を震わせて口吻をひっこめる。そうして、いらただしげに羽根を震わせては新たなオイルをまき散らす。
「なんか、えらく不自然な動きだな」
フォウもすぐそのことに気付いた。
「ご馳走を前にしておあずけを食らった挙げ句、せっかくため込んだオイルを無理に提出させられてるって感じだ。まるで鵜飼いに首をしめられて鮎を吐き出してる鵜みたいだな」
「なんだい、その鵜飼というのは」
「和彦さん、日本の観光名所とかについてぜんぜん知らないもんなあ。香港人の俺でさえ知ってる、有名な日本の鳥を使った民俗パフォーマンスだぜ?」
呆れたようにフォウが言っている間にも、甲虫はいかにも不満げに体内からオイルを噴き出し続けていた。
もっとも、別の虫が吐いたオイルを啜ろうあがいている虫もいる。
もちろんその寸前で口吻の動きは止まるのだが、虫の中には腹立ちのあまり周囲のビルに頭突きをくらわせるものもいた。
それはそれなりに阿鼻叫喚の地獄のような光景ではあったが。
和彦もフォウも虫たちのそのふるまいを観察することで、正しい答えを導きだした。
「虫笛だよ」
フォウがパチンと指を鳴らした。
「前にも見たことがある。ヒューバットは笛の音で虫を操るんだ。犬笛と同じで俺たちの耳には聞こえない音域の音色だけど、超音波は遠くまでは届かないし、建物みたいな遮蔽物があったら、それを迂回することもできない。どっかこの近くで吹いてるんでなければ、この虫たちを操ることは無理だ」
フォウが忙しく周囲に目をやる。
和彦もまた同じように、ヒューバットの姿を求めて視線を巡らした。
「いた! あそこだ!」
少し離れた高層ビルの中ほどにある張り出し。
そこにうずくまっていた黒い影が、フォウに指さされてびくりと動いた。
目を凝らして和彦もそちらを仰ぎ見た。
マントに身を包んだ、ちょっと見には子供かと思うような体つき。その体形に見合わぬ、全身を覆う無数の深い皺。
距離が遠すぎて特徴的なそのひねこびた表情は見えなかったが、あれは間違いない。
ジャメリンに影のように突き従い、その邪悪さを共有する一の子分、ヒューバットだ。
「てめえ、この野郎!」
フォウはそちらへ拳を振り回し、罵声をとばした。
「またぞろロクでもねえ真似しやがって! やっぱりこのでっけえ虫どもはお前のしわざかよ。こっちへ下りてきやがれ、コテンパンにしてやらあ!」
もちろんヒューバットはそんな誘いには乗らない。甲高いせせら笑いを投げおろしてくるばかりだ。
その合間には忙しく虫笛を吹き、虫たちをさらに暴れさせようとする。
があんと一匹がぶつかったビルの根元に大きな穴が開き、ガラスやコンクリートの破片が派手に飛び散った。
間一髪、和彦がフォウを物陰にひっぱりこみ、頭をつかんで自分の体ごと地面に押し倒す。
もちろん二人ともオイルの中へ突っ伏す羽目になったのだが、かろうじて、鋭い破片による怪我は免れた。
「フォウくん、無意味な煽りはやめるんだ」
「無意味ったって!」
フォウがオイルまみれで反論する。
「この状況で、意味のある煽りなんか……」
しかし彼は、途中でアッと言って顔を輝かせた。
「意味のある煽り……! それだよ和彦さん!」
今度は和彦のほうが面食らった。
何がそれなのかわからず戸惑っている間に、フォウは身をひるがえしてその場に立ち上がった。
とたんにオイルに脚を滑らせ和彦に支えられつつ、忙しくあたりを見渡し、そうだよこれだよと自分一人で納得している。
「和彦さん、あれをもう一度やってくれよ」
「あれ? って、なんのことだい」
「凍らせて地面を白く濁った感じにするやつ。あまり面積はいらないけど、ヒューバットの眼につくような場所を。あっでもそれを和彦さんがやったとはわからないようにしてほしいんだ。できるか?」
何がなんだかわからないが、そう要求するフォウの顔つきがあまりに真剣かつ自信に満ちていたので、和彦は彼の脳内にある謎の作戦に乗ることにした。
再びリューンの腕輪に意識を集中させる。
指向性を持たせるため、物陰からこっそりと、その部分の地面に指先を向けた。
ひとさし指からほとばしったリューンの力は、目には見えないよう調節を心がけた。ゆえに上空のヒューバットには、急に地面が変化を起こしたと見えたはずだ。現に当のヒューバットは、張り出しから大きく身を乗り出し、地上の様子をうかがっている。急な変化に警戒し、訝っている証拠だ。
「どうだ、地球人の開発した虫の力は!」
すかさずフォウが大声で、ヒューバットに向かって叫んだ。
「そうだよ、これは地球の虫の仕業なんだよ! 石油を食って無害なものに変える力をもった虫だ! 地球の科学者が、公害対策のために作り出したんだぜ!」
ええっと驚きそうになって、和彦もフォウの素早い目くばせで理解した。
これはさっき耳にしたばかりのバイオレメディエーションというやつを、過大に誇示しているのだ。
生物の力を借りて環境を回復させる技術、バイオレメディエーション。
石油を分解する役目をするのは主に微生物だという話だったが、微生物を虫だと強弁すれば、完全な嘘を言っているわけでもない。
ましてや、そんな技術とは無縁だが虫の多種多様な可能性を誰より知っているヒューバットだ。
オイルの色や形が変化していくのを目の当たりにしながら、これは虫の仕業だと言われれば、もしやそうかもと考えるのも無理はない。
「ど、どこだ! その虫はどこにいる?」
焦った顔をして、白く濁った地面を必死で見回している。
「ばあか! てめえなんかの目にとまらねえくらいちっちぇえんだよ、地球人の開発した利口な虫はな! どうだい、この調子で俺たちの虫は、てめえらのまき散らしたオイルを全部、無害な白い泥に変えちまうんだからな。てめえのお大事の虫がせっせと働いた結果は、なんの意味もなかったってことになる!」
「くっ、くそう!」
歯噛みして、ヒューバットは虫笛を振り回した。
「わしの可愛い甲虫たちよ! やつらに無害化される前に、街じゅうのオイルを吸いつくせ!」
たちまち甲虫たちが勇み立った。
嬉し気に口吻を震わせ、ぐいぐいとそこから地面のオイルを吸い上げていく。
それにつれて虫の体も膨らんでいった。
巨大な黒い甲虫が、パンパンになった体をきらめかせながら、街の通りという通りを這いまわり、オイルを食らう。
「ど、どうするんだフォウくん。あれではかえって彼らを手ごわくするだけでは……」
「しっ、和彦さん」
甲虫の大行進に巻き込まれぬよう、壁の隙間に小さくなってて身を伏せながら、フォウが和彦に低い声で囁いた。
「つまりは今のこの状況ってのはさ、ブラフマンの言ってたオイルの囲い込みと同じことだろ? 街じゅうに広がってたオイルが、十数匹の虫の体内に集まってきてるんだから」
なるほど、と和彦も合点した。
確かにそのとおりだ。
「しかし、虫たちがオイルを吸って力を増していることもまた、事実なのでは……」
「そこはほら、和彦さんにお任せってことで」
「えええ? 僕かい?」
和彦は閉口した。
それでも、フォウの意図を和彦も理解した。デタラメな虫自慢でヒューバットを煽りたて、彼の甲虫にオイルを回収させる。街のオイルが虫の体内に納められたところで、暴れだす前に彼らを一か所に集めて、動きを止める。
つまり、囲い込む。
「よしっ、わかった!」
和彦は素早く周囲を見回した。
中東の街では水が貴重だ。それゆえに、贅を凝らしたビルはたいてい、エントランスなどに人工滝や泉を作ることで、その威容を誇示している。
どの泉も表面にはオイルが張って汚れてはいたが、その下にある水の気配を和彦はすぐに感じ取ることができた。
「来い、水よ!」
呼び集め、手の中で氷の剣を形作る。
不純物の交った氷はいつものように透き通った綺麗な色にはならなかったが、大事なのはその強度であり、オイル混じりでもその点は問題ない。
加えて和彦は、いつもより大振りの、ハンマーのように使われる大剣の形にした。
両手でそれを握りしめ、虫たちの前へ躍り出てふりかぶる。
「うおおおおっ!」
気合をこめて、そのうちの一匹の背に剣を叩きつけた。
続けて二度、三度。
虫はいきなりの攻撃に驚き、後ろ脚で立ち上がった。
そのために、甲羅で覆われていない腹の部分が剥き出しになった。
そのチャンスを逃す和彦ではない。
「やあっ!」
横一文字に薙ぎ払った。
虫の胴体に亀裂が走った。
しばらくはそのままでぶるぶるふと震えていたが、やがて、ずでんどうと横ざまに倒れる。
ゆっくりと亀裂が広がり、真っ二つに割れた。
中からすごい量のオイルがあふれだした。
たちまち他の虫たちが目の色を変えた。
仲間が殺されたことよりも、新たな大量の餌を前にして大喜び。争うようにして、死骸に群がり始める。
「まっ、待て、虫ども!」
さすがに事の異変を察知したのだろう。慌ててヒューバットが虫笛を吹こうとした。
だが、彼が笛に息を吹き込むより先に、和彦は手にした剣を逆手に持ち換えた。
槍投げの要領で、ヒューバットに向けて大剣を投げつける。
「わっ、わ!」
元より当たることは期待していない。ヒューバットの動きを制止することが目的だ。
効果はてきめんで、自分に向かってきた大剣にたまげたヒューバットが、たたらを踏んで危うく虫笛を落としかけた。
「今だ、フォウくん!」
「合点承知ィ!」
すでに両手に炎を構えたフォウが、和彦の背後から躍り出た。
虫は相変らず仲間の死骸に群がっている。
「一気に行くぜえ!」
フォウが二つの炎をぶつけ、ぐいと両側へ引いた。たちまち炎は棒状に広がる。その炎の中央をつかんだフォウが、勢いをつけてそれを回転させる。
「うりゃああ!」
まばゆく回転する炎の輪を、手首にスナップをきかせたフォウが、虫たちに向かって勢いよく投げ付けた。
炎は火の粉を散らしながら宙を跳び、たちまち何匹かの甲羅を切り裂いた。
一瞬遅れて、火柱が立った。
悲鳴のような鳴き声をあげて、虫たちが逃げ惑った。
しかし、動けば動くほど自らの体に炎を浴びてしまう。
炎は貪欲に虫ごとその体内外のオイルを呑みこみ、爆発的に燃え上がった。
「もう一丁!」
二つ目の炎の輪が、逆方向から虫たちを襲った。
炎上。
そして、爆発する。
「おっと!」
周囲に燃え広がろうとした炎を、和彦の作った氷の壁が包み込んだ。
オイルの処理は、囲って焼く。図らずもブラフマンの言ったとおりの処置である。
氷の壁の隙間から流れ出してくる余分のオイルはもリューンの腕輪の力が容赦なく凍らせて固形にする。
塊になったそれらのオイルを、フォウの新たな炎が次々と薙ぎ払う。すさまじい高温で焼きつくし、灰にする。
「お……おのれ、おのれえええ!」
ヒューバットは赤くなったり青くなったり。
「覚えていろ!」
挙げ句、聞き飽きた捨て台詞を残してマントをひるがえし、空間の歪みの中へ跳びこんでいった。
「あ、くそ」
それを横目で見て舌打ちをしながらも、フォウもオイルを焼きつくす仕事が忙しくて後追いはできない。
「しょうがねえ、和彦さん。せめてこの街の大掃除を、きちんと最後まで終わらせようぜ!」
炎と氷が交互に街を覆い、きらきらと輝きを放ちながら次第に浄化していった。




