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某国においても、空間からオイルが流れ出した瞬間を間違いなく目撃したり、動画に収めたりした者は一人もいないという話だった。
仮にいたとしても、深夜に黒々とした粘質のものが夜空から流れ出ている光景を目にすれば、それを事実と認定するよりは自分の目の機能を疑ったことだろう。
とはいっとても、街がオイルびたしになった日付はハッキリしているので、データの再点検は最小限の手間ですんだ。
「うーむ」
フォウが数値を入力して転送したデータの映し出された画面を前に、氷浦教授は腕組みをした。
空間波動計は氷浦教授の発明品だ。空間のわずかなゆらぎを捉えることによって、この世界と異世界との干渉を数値で表そうという大胆な試みである。
もちろん異端の科学としてアカデミックな世界からは総スカンを食らっているが、彼のその計器がリューンからやってきた王子の存在を弾きだしたこともまた事実である。
それでも、自説の強力な証拠として異世界の王子を世に出さなかったのは、氷浦教授の優しさだ。
おかげでリューンの王子は命を救われ、心を救われた。
それはともあれ。
「クロといえばクロ、シロといえばシロという感じだなあ」
「まあ、今回のは場所が遠いですからねえ」
氷浦教授の渋面に、フォウが言葉を添えた。
「数値でいっても、小数点がついた後の五ケタくらいまで出さないといけませんでしたから。普段だったら誤差ですましている領域ですよ」
「確かになあ」
空間波動計は各国の人工衛星にアクセスすることによって、理論上は全地球をカバーしていることになっている。
しかしそれはあくまで、たった一人の研究者による独自研究であって、国家プロジェクトでもなんでもない。遠く離れた異国で空間が揺らいだとしても、よほど大きな動きでなければ捕捉は難しいのだ。
もちろん先方もそれは承知している。
氷浦教授に連絡を取ったのは、空間ゆらぎの証拠がほしかったわけではない。
これが超常現象であるかどうかを、現地に来て調査してほしいという依頼なのである。
「まさか、この波動計をえっちらおっちら背負って出向いてこいと言ってるわけじゃないんでしょう?」
部屋いっぱいを覆いつくしている膨大な計器の数々を見回して、フォウが呆れたふうに言った。
「それはもちろん、そのとおりだ。我々が持っていけるのはデータだけだよ。それでも、確かに怪しい兆候があるというのは説明できる」
「それにしても、なんかおかしいよなあ和彦さん」
フォウが、部屋の隅にいた和彦を振り返って話しかけた。
「ジャメリンなら奇形植物、その部下のヒューバットが得意とするのは巨大毒虫じゃないか。ましてやアイザスたちなら自分たちが乗り込んできてちゃんちゃんバラバラってのがいつものやり口だぜ。それが、俺たちには遠い国の空間にこっそり穴を開けてオイルを流すなんて、全然あいつららしくない」
「それは確かに、そうだね」
和彦も腕をこまぬいた。
アイザス・ダナが狙っているのは地球の破壊というより、リューンの腕輪である。
一方のジャメリンたちはといえば、これはもう和彦たちへの私怨というしかない。人々に危害を加えるのも、そうすれば和彦たちに有形無形のダメージを与えられると思っているからだ。
そういった彼らの攻撃にしては、いかにも不思議なふるまいであった。
空間のゆらぎ指数はかろうじて異空間からの侵入を示唆しているとはいえ、眉に唾をつけたくなる程度の数値でしかない。
「オイルといえば機械関連だから……シラドが何か企んでいるという可能性はどうだろう」
「ええー。ロボット工学とオイルかよ」
和彦の考えはたちまちフォウに却下された。
「それって、タヌキは実はイヌ科です、という程度の関連性しかないんじゃねえの? それに相手がシラドなら、ご自慢のロボット兵士の一台や二台は送り込んでくるんじゃねえか? 俺たちと縁もゆかりもない国に黙ってこっそりオイルを流して油びたしにするなんて、全然あいつらしくないぜ」
「確かになあ」
シラドは自己顕示欲の塊だ。また、そこを買われてジャメリンに拾われた身の上でもある。
ロボットを使わない作戦への従事を命じられて、黙って従うとも思えない。
「だからって、ジャメリンとオイルっていうのも食い合わせが悪そうだしなあ。教授、もしかしたら本当に空間のゆらぎっていうのは本当に、ただの誤差なのかもしれませんよ」
「しかし、先方もそれを確かめるために、父さんと君に来てくれと言っているわけだろう」
「いやでも、いくら俺が有能な助手だからといって、空間波動計をかついでついていくわけにはいかないんだしさ」
「いや、担がなくても、携帯測定器があるじゃないか」
「どこに?」
問い返したフォウは、和彦に正面から指さされてぴしゃりと自分の額を叩いた。
「あー。要するに、そういうことか。教授、それでわかりましたよ。だから氷浦教授一人だけじゃなく、俺も一緒に行かなくちゃいけないってわけですね。なーんだ、俺の火がいるんじゃなくて、天然の携帯測定器あつかいってわけか」
「それはそれで君だけの得難い能力だよ。何も腐ることはないじゃないか」
そこで急に和彦が口を挟んだ。
「父さん、僕も連れて行ってください」
「えっ」
常になく積極的な息子の態度に、氷浦教授も驚いた様子で椅子から腰を浮かした。
フォウもびっくりして、まん丸な目で和彦を見上げた。
「行くって、和彦さん。俺の火も和彦さんの水もオイルには通用しないっていう話になってたじゃないか」
「けれど父さんが君を連れて行くというのなら」
和彦は大真面目な顔で言い募った。
「僕も、君を一人で行かせるわけにはいかないよ。可能性がどんなに小さかろうと、もしそれが本当にデュアルの軍団の仕業だったとしたら、フォウくんはきっと闘いに出てしまうだろうし、僕はフォウくんを一人で闘わせるわけにはいかない。
父さん、お願いです。役立たずで終わるかもしれませんが、どうか僕も一緒に……」
フォウと同じくまん丸になっていた氷浦教授の目が、ゆっくりと細められ、穏やかな笑顔となった。
椅子から立ち上がり、義理の息子の肩をしっかりと両手でつかむ。
「和彦、私は嬉しいよ。あれほど外界のものに興味も関心もなくしていたお前が、友達のためにそこまで熱く語れるようになったとは」
思いもかけぬ褒められ方をして、今度は和彦の目が丸くなった。
目だけでなく、頬まで真っ赤になった。
「と、父さん。やだなあ、やめてくださいよ」
「いやあ、息子の成長を目の当たりにするというのは、こんなに良い気分になれるものなんだな。貴重な体験をさせてもらえて、私は幸せものだ」
どぎまぎする和彦と、喜色満面な氷浦教授を等分にみくらべていたフォウが、ついに我慢できなくなって噴き出した。
「あはははは。この親にしてこの子ありっていう言葉は、こういうときに使うべきなんですね。俺も見識が広がりましたよ」
「よ、よしてくれよフォウくん」
「いいじゃないか。仲良し親子のお邪魔虫として、俺もちゃんとくっついていくんだからさ。
よおし、珍しくも三人で外国旅行だぜ。そうと決まったら準備開始だ。毎日ケアが必要なやっかいものの空間波動計にも、今回はいい子でひとりで留守番しておいてもらうってことで。それでいいですね、教授?」




