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 香港の闇は特に深い。


 市街地がネオンライトできらめいているがゆえに、その片隅にひそむ影の部分は、粘度の強い暗黒の中に沈んでいる。

 そして、そういった暗がりには、多くの常ならぬ者がたゆたっている。道行く人が気付くと気付かぬとに関わらず。


 そんな、奥まった路地を幾つもくぐった先の、片隅。


「出てこい!」


 若い   まだほんの少年としか見えない霊幻道士が一人、路地裏の奥を睨みつけて叫んだ。


「その下に隠れてることはわかってるんだ! いい加減、無駄な追いかけっこはやめようぜ!」


 その下、とはいっても彼が指さしている紅白藍(ホンパツラム)の幌の下にあるのは、半分朽ちた塵芥箱である。亀裂から間断なく水が滴り落ちているところを見ると、たとえ中に何が入っていようが、汚水に漬かっていることは間違いない。

 少なくとも、生きて呼吸をするものは隠れていられないはずだ。


 だが、その木箱が。


 少年が喉の奥で呪文を唱え始めたとたん、ガタガタと小刻みに揺れ始めた。


 朽ちているとはいえ、ネズミごときで動かせるような代物ではない。ずんぐりした木箱ではあるが、中には水がいっぱい入っており、ずいぶん重たいはずである。


 いや、それよりも。


 この高さこの大きさの箱の中には、犬猫ならともかく、人間などとうてい入りそうにないのだ。

 それなのにこの霊幻道士は両手を大きく広げ、自分の体で出口を塞ぐようにして道の真ん中に立ちはだかっている。


 口から流行曲のハミングのように流れ出る呪文が、だんだん強さを増してくる。それに従って、木箱の揺れはますます激しくなっていく。


 突然。


「がああ!」


 咆哮と共に、木箱から何かが飛び出した。


 同時に、箱の四面を構成していた板がバラバラになって四方へ飛び散った。

 そのうちの幾つかは霊幻道士の顔面を狙ったように迫ってきた。

 間一髪、少年はその木片を手刀で叩き落とした。


 出現したときは黒い霧状だったそれは、またたく間に空中で凝縮され、むくむくと人の形となった。

 手が二本。脚が二本。

 しかしその他はまだ曖昧なままで、顔にも造作はない。


「現れたな、妖怪!」


 少年が片手をポケットに突っこんだ。


 取り出したものは、一本のマッチだ。

 市販のものではない。なんにこすりつけても着火する、いわゆる黄燐マッチである。

 危険だというのではるか昔に発売中止となったものだが、彼の所属する業界では、特殊な目的のために細々と自家製造が続けてられている。


 黒い人の影となったものが、ふふとせせら笑った。


「なんだ、お前。そんなものがなければ火も出せないのか。要するに、ただの半人前のチビ道士というわけか」


「うっ、うるせえ!」


 少年はたちまち真っ赤になった。


「てめえみたいな妖怪にバカにされてたまるかよ! 火種があろうがなかろうが、この朱天火(チユウティンフォウ)様の火炎術はちょいと手ごわいんだぜ! 受けてみやがれ!」


 少年。

 フォウである。


 現在の彼よりもずっと幼い。よく見積もっても、まだ十代の前半といったところだろう。

 まだあどけなさの残る顔の中の、しかしその瞳の輝きだけは今と同じで、あくまでも強くゆるぎない。


 素早く壁でマッチを擦る。


 マッチをかざした拳を、小さな炎がきらりと照らし出した。かと思うと、すぐにその炎は何倍にも大きさを増し、くねりながらフォウの腕に巻きついてきた。


 黒い影がその輝きを受けて、ぎょっとして身を縮めた。


「な? 言ったとおりだろ」


 フォウがにやりと笑った。

 そのまま、助走もつけずいきなり地面を蹴って宙に舞う。


「くらいやがれ、妖怪変化め!」


 まるで彼にだけ地球の重力が働いていないような、鮮やかな跳躍だった。

 両側から迫るビルの壁を交互に蹴って駆けあがり、はるか上空から炎をまとって、黒い影に殴りかかった。


 とっさに影は形を崩し、フォウの炎と拳を避けた。

 だが、そんな動きなどフォウにはお見通し。

 わざと派手に空振りをしたふりをして、次の瞬間には炎を反転させて脚にまとわりつかせる。


 その脚をかかと落としの要領で、ぼんやり広がった影の中心に叩き込んだ。


 げえっと影が呻いた。


 平たくなって地面に崩れ落ちる。

 そのまま水たまりのようになって暗がりに流れていこうと試みた。


「逃がすかよっ」


 とんぼを切って着地したフォウが、再び炎を巻き起こして影に追いすがった。逃げようとする、その端をつかんで振り回す。


 炎で包み込み、壁に叩きつけた。


「覚悟しろ!」


 叫んで、フォウは己のひとさし指の皮膚をかみ切った。ほとしばしる血で空中に呪文を描く。

 呪文の朱色の線は互いに交差したとたん真っ赤に輝いた。

 生き物のようにぶるんと武者震いすると、影に襲い掛かる。


「あああ!」


 呪文が影に突き刺さった。


 影は細かなしずくと化して周囲に飛び散り。


 否、バラバラになったと見えたのはただの攪乱。

 実際には、紙よりも薄く体を引き伸ばして呪文の効果を軽減させ、路地の隅で再び凝固する。


 今度は曲線の多い、柔らかな輪郭となった。


「や……やめて……」


 顔にも造作が生まれた。

 鼻筋の通った、ぽってりとした赤い唇の、どきりとするような美女である。

 見開かれた大きな目をびっしりと黒いまつ毛が取り巻き、その中の黒い瞳は涙に塗れている。

 しかも、長い髪が各所に巻きついたその白い肌は。


 一糸まとわぬ素っ裸、であった。


「わっ、な、なんだ?」


 さすがのフォウもこれにはうろたえた。

 目の前にいるのは妖怪変化であると百も承知ではあるが、見かけは、せり出した胸とむっちりした尻を剥き出しにして横たわる妙齢の美女である。

 それが涙を流しながら、必死の面持ちで自分を見上げているのだ。

 これで動揺しないのなら、それはもう男のうちには入るまい。


「お願い……助けて……」


 か細いその声さえも色気十分だ。

 豊満な肉体をくねらせて、女はフォウにすがりつく。たちまちフォウは壁際に追い詰められた。

 まだ少年のフォウがどぎまぎしているのをいいことに、女は弾力のある二つの胸をフォウの顔に押し付けてきた。


「うわっ、え、ええっ?」


 女のまとう強烈な花の香りに包まれて、フォウは目を白黒させるばかり。

 柔らかく白い胸が頬の両側からぐいぐいと押し付けられてきて、息が詰まった。


「可愛い道士さんだこと……」


 はちみつのような女の囁き声が、直接に耳へ吹き込まれる。


 熱い息をかけられて、びくんとフォウの背が跳ねた。

 その背に女の両手が回され、さらに強く抱きしめられた。


「本当に……可愛いわ……」


 女の目がギラリと光った。


「食べてしまいたい、くらい」


 その言葉が発せられるのと、ほぼ同時に。


「炎よ、来い!」


 フォウが叫んだ。


 とたんに、女の体が燃え上がった。


「ぎゃああ!」


 女がわめいた。


「な、なぜ……なぜ!?」


「なぜじゃねえよ! この妖怪野郎が!」


 フォウが怒鳴り返した。

 彼は妖怪と同じ炎の中にとどまり、それどころか逆に妖怪の喉をしっかりと両手で締めて逃がさないようにしている。

 妖怪がどんなにもがいても離さず、首っ玉にかじりつく。


「そんな単純な変化の技に、このフォウ様が騙されるとでも思ってんのかよ! てめえが古ネズミの化物だってことは、そもそものはじめっからこっちにはわかってるんだい!」


 炎に巻かれて苦しむ女と同様に、彼女を取り押さえているフォウにも炎は巻きつき、彼の服や髪の毛の端を焦がしている。

 それでもフォウは炎を緩めようとしない。


「や……やめろっ、やめろおお!」


 ついに妖怪は、女の形を取ることをやめた。

 全身から灰色の固い毛が伸び、鼻が尖り尻尾が生えて、巨大なドブネズミの姿に変化した。


 ぶるんと全身を大きく震わせ、フォウを跳ねとばす。


「おっとお!」


 それを予測していたフォウは、空中でくるりと回転して脚から地面に着地した。

 すぐその地面を蹴って、再び跳びあがる。


「これでとどめだぜ!」


 正体を表した化物には、もはやなんの容赦も必要はない。

 フォウは両手の中に巨大な火の玉を作り、大きくふりかぶって勢いよく大ネズミに投げ付けた。


 先ほどからの炎に、さらに強力な火の玉が加わった。


「ぎゃああああ!」


 ネズミが赤々と燃え上がった 。


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