第1話 面倒ごとは勝手にやってくる
翌朝。
はい、今日も元気にお勤めです。……いや、元気なのは街の方で、俺じゃないけどな。
……また、ひどい顔だ。
鏡の中で、眠れぬ夜を引きずった目がこちらを睨み返していた。
黒い髪も乱れ放題。
どう見ても、「仕事ができる人間」には見えないね。
支度を済ませて宿舎を出ると、すでに通りは人でごった返していた。
パン屋の小僧が火魔法で窯に火をつけ、大工は風魔法で木屑をぶっ飛ばしている。
向かいの主婦は水魔法で桶に水を張りながら、隣と世間話。
戦場じゃ殺し合いに使われる力も、ここじゃ炊事洗濯の延長。便利だよなぁ。
俺の世界にも欲しかったよ。
で、石畳を抜けてギルドへ。
朝っぱらから大扉全開、冒険者たちの笑い声が耳に突き刺さる。
あれを「活気」と呼ぶか「騒音」と呼ぶかは人による。少なくとも俺は後者だ。
カウンターにはカエデ。笑顔満点で「おはようございます、アルさん」ときた。
はいはい、おはようございます。
……相変わらず営業スマイルが完璧だな。
けど、俺に向けるときだけちょっと柔らかくなるのは、気のせいじゃないはずだ。
「昨日の件、報告されていますよ」
「魔道具の残骸のことか」
「はい。今、ウィザーズギルドで確認中だそうです」
……あぁやっぱり。うちじゃ手に負えなかったんだな。
魔術師ギルドに鑑定を依頼する事態。つまり、面倒事確定ってことだ。
奥から俺を呼ぶ声がする。
「お~い、アル! ちょっと来い」
丸眼鏡のマルセル課長が、机の上の依頼書を手に呼んでいる。
いつもは、のほほんとしてるのに、こういう時の声だけはやけに通るんだよな。
「南の集落から調査依頼が来ている。家畜が繰り返し襲われているらしい」
「……魔物か、獣か」
「そこを確かめてきてくれ。お前ひとりでいい」
はい出ました、おひとり様確定。まぁ気楽でもある。
「了解。じゃ、行ってきますよ」
依頼書を受け取って肩をすくめる。
……いってきま~す。
◇ ◆ ◇
まずは腹ごしらえより先に準備だろ、ってことで道具屋へ。
カウンターの奥からタマ婆さんが「いらっしゃい」と顔も上げずに声をかけてくる。
ここの挨拶は、半分罵声みたいなもんだ。
「上薬草、まだ残ってるか?」
「あんたも運が悪いねぇ。昨日どっかの阿呆が、しこたま買い込んでったよ」
チッ、やっぱりか。
ちなみに上薬草ってのは、要するに高級湿布だ。冷やして貼れば痛みが和らぐし、腫れも引く。
だが、冒険者が使うなら、普通の薬草を煎じて飲むか塗る方がよっぽど効く。
つまり、上薬草に大枚はたくのは金の余ってるバカか、新米冒険者の見栄張りだ。
「で、他に買うもんは?」
「粘着玉と、匂い消すやつ」
「あいよ、毎度あり」
奥の棚から、がさごそと取り出して袋に突っ込む婆さん。
粘着玉は投げつければ敵の足を縛れる便利アイテム。匂い消しは森での必需品。
俺は狩人じゃないが、調査員は足跡と臭いで仕事することも多いんでね。
代金を置いて、次はテッタの食堂へ。
店先でテッタが「おー! アル兄ちゃん、今日は一人か!」と声を張り上げている。
小さい体なのに、声のデカさで言えば街一番。
「弁当、一人前。肉多めで。あと、軽く食えるやつ」
「まいど! 元気出して行けよぉ!」
弁当を受け取って腰の袋に突っ込み、深呼吸を一つ。
さて、仕事に出発しますかね。
腹も道具袋も揃ったところで、南の門へ。
石造りの城門の下には、今日も相変わらず気の抜けた門番が二人。
槍を抱えて突っ立ってるが、こいつらが真面目に検問してるのを見たことがない。
「おう、アル。調査か?」
「そんなとこだ。……で、門番やってるフリは順調か?」
「余計なお世話だ」
軽口を返しつつ通り抜ける。まぁ彼らの怠慢っぷりも、平和の証ってやつだろう。
俺はありがたく通らせてもらう。
城壁を抜ければ、南に延びる街道。石畳はしばらく続くが、すぐに土の道に変わる。
左右には畑が広がり、農民がせっせと鍬を振るっている。
家畜の鳴き声、麦の匂い、遠くで鳴く犬。ペテルの喧噪とは別の、のどかな生活音だ。
……もっとも、のどかなら俺の出番なんてないんだけどな。
空は晴れ、風も穏やか。歩くには申し分ない日和。
だが、依頼書に記された「家畜被害の集落」は、この道を二時間ほど。
どうせただの野犬か、せいぜい狼あたりだろう。……そう思いたいが、俺の勘は大体外れてほしい時ほどよく当たる。
南へ歩くことしばし、見えてきたのは小さな集落。
家が十軒そこら、寄り添うように建っている。煙突からは白い煙がのぼり、子どもが追いかけっこをしている。……のどかに見えるが、依頼書の被害報告はここのことだ。
「お~い、ギルドの人かい?」
声をかけてきたのは腰の曲がった農夫。顔色が冴えない。
俺が頷くと、村人が集まってきて口々に説明を始めた。
「最初は豚だ。一昨日の晩にやられた」
「うちじゃ、翌日に山羊がやられてな。」
……死骸がないな。やっちまったか?
「死骸はどうしました?」
「血まみれで……いや、もう死骸は片付けちまった」
はい、現場検証する前に証拠隠滅完了。ありがちだ。
まぁ、村人にしてみれば当然か。放っておけば腐るし、匂いも獣を呼ぶ。
こっちとしては「せめて骨くらい残しておいてくれ」と言いたいところだが。
「柵も壊されちまって……」
案内された家畜小屋をのぞく。
なるほど、木の柵が横倒しになっている。釘はまだ新しいのに、根元からへし折られているな。
俺はしゃがみ込み、折れ口を指でなぞる。
刃物じゃない。噛み跡もない。
力で押し倒した感じか……。
つまり、何かデカいものが通ったってことだ。
さて、面倒ごとの匂いがしてきたぞ。
まずは血痕。
……おっと、やっぱり残ってるな。
地面にこびりついた赤黒い染みを指先でこすってみる。乾いてはいるが、まだ数日は経っていない。
その近くに、毛が数本落ちていた。
山羊の毛より固くて短い。色も違う。
狼にしては短すぎる。犬でもない。
じゃあ何だって話だ。
視線を落として、柵の外の地面を確認。
山羊の小さな蹄跡に混じって、別の足跡がある。
幅広で、爪痕が深い。
「……野犬じゃねぇな。狼でもない」
この辺りでよく出る獣といえば大猪。
けどあいつら、家畜なんざ襲わない。草木や畑を荒らすのが専門だ。山羊も豚も食う習性はない。
となると……。
溜息をひとつ。
「ワイルドボア、かよ」
猪に似た魔物だ。体格は馬並みで、突進力は洒落にならない。
大猪と違って雑食、時には人間さえ襲う厄介者。
村人たちに向き直って、仮説を告げる。
「結論から言うと、ワイルドボアの可能性が高いです」
俺がそう告げると、集まっていた村人たちの顔色が一斉に曇った。
そりゃそうだ。普通の猪でも畑荒らしで厄介なのに、こっちは人も襲う魔物だ。
「柵の周りに大きな杭でも仕掛けておいてください。突進を止めるしかないんでね」
一拍の沈黙のあと、誰かが小さくつぶやいた。
「ワイルドボアか……」
次の瞬間には「おい、みんなやるぞ!」と声が上がり、男衆が一斉に動き出す。
斧を担ぐ者、杭を運ぶ者、縄を引きずってくる者。
農民の切り替えは早い。生き延びるためなら当たり前か。
俺はその光景を眺めながら、肩をすくめた。
「じゃ、ちょっと森の方へ見に行ってきます。夜までには完成させてください。あいつ、夜行性なんで」
村人たちが無言で頷くのを確認し、俺は腰の袋を締め直した。
◇ ◆ ◇
森に入ると、空気がひんやり変わった。
まだ昼前で陽は高いのに、枝葉が重なり合って光を遮っている。
木漏れ日が斑に揺れて、なんだか犯人探しにぴったりの舞台装置ってやつだ。
足元にはさっきの蹄跡。土が柔らかいせいで、くっきりと残っている。
だがそれも長くは続かない。奥に進むにつれ、草木がやたらと生い茂ってきた。
足跡そのものは見えなくなったが──代わりに、踏み倒された草の方向が目印になっている。
葉が擦れた痕、枝が折れた角度。でかい獣が突っ切った通り道ってのは、素人でもわかるほど派手だ。
俺は枝をかき分けながら、苦笑する。
「……まるで自分で『こっちです』って案内してるみたいだな」
ありがたいっちゃありがたいが、追いやすい獲物ってのは大抵、追った先でろくでもない目に遭うんだよな。
進んでいくと、はい出ました。デカい糞。
新鮮じゃない、乾きかけてる。つまり数時間前に通ったってことだな。
……ってことは、もう縄張り圏内に足突っ込んでるわけだ。
俺は腰袋から小瓶を取り出す。タマ婆さんの店で買った匂い消し。
蓋を開けると、鼻が曲がりそうな刺激臭が広がった。
婆さん曰く「獣には効くけど人間には不評」らしい。全くもってその通り。
仕方なく自分に振りかける。背中、腕、足元。ついでに服も少々。
うん、最悪だ。これで森の中で遭難しても、誰も助けに来てくれないだろうな。
「さて……馬鹿猪はどこだ」
呟きながら、俺は足跡の先へと視線を向けた。
風の流れが重くなる。枝のざわめきが止まる。
どうやら、ここから先が本番らしい。
耳を澄ます。鼻も利かせる。
……お、来たな。かすかに地面を踏む音。
ただの足音じゃない。ドス、ドス、と重たい衝撃が混じってる。
俺は息を整えて、魔力を巡らせる。身体強化。聴覚をちょっと底上げ。
地面を伝って響く震えが、はっきりと耳に届く。
……おかしいな。数が多い。
「おいおい、ワイルドボアは群れねぇだろ」
馬鹿猪どもは基本単独行動だ。繁殖期ならつがいになることもあるが、せいぜい二匹。
今は春。アイツらの繁殖期は冬だったはずだ。
つまり──計算が合わない。
奥の茂みがガサリと揺れた。
出てきたのは、まごうことなき巨体。丸太みたいな胴体に、鋭く突き出した牙。
うん、教科書に載せたいくらい典型的なワイルドボアです。……と言いたいところなんだが。
……あいつはなんだ?
足が止まる。背筋に冷たい汗が伝った。
一見ワイルドボアなんだけどな──目がおかしい。
真っ赤に充血して、ぎらついた光を放っている。
普通の魔物の目じゃない。
理性も警戒心も吹っ飛んで、ただ獲物を噛み砕くことしか考えてない、そんな色だ。
……やれやれ。やっぱり面倒ごとじゃねぇか。
ガサガサ……いやな予感しかしない音が続く。
出てきたのは、さっきの一匹だけじゃなかった。やっぱり、いやがった二匹目、三匹目。
合計三匹。はい拍手。
どう考えても、ここで引き返したら村がヤバい。
柵の補強はしてるだろうが、あんな突進三連発喰らったらひとたまりもない。
頭の中で昨日の依頼書を思い返す。
村で襲われた痕跡は──一匹分。
なのにここには三匹揃ってお出迎え。
「……なんでここに集まってんだよ」
ただの縄張り争いでもない。
つまり──何かがおかしい。
胃がきゅっと縮む音が、自分で聞こえた気がした。
先頭の一匹が鼻を鳴らした瞬間、地面が揺れた。
ドドドッと一直線、丸太みたいな胴体が突っ込んでくる。
「っとと!」
身をひねって避ける。風圧で背中が熱くなった。
柵どころか家一軒くらい簡単に持っていきそうな勢いだな、これ。
振り返る間もなく、二匹目が蹄を掻き鳴らす。完全に突進モード。
匂いじゃねぇ。こいつら、こっちを見て狙ってやがる。
「……夜行性じゃなかったのかよ」
昼間からギラついた目で狙ってくるワイルドボアなんざ、教本に載せたら赤点食らうレベルのイレギュラーだ。
二匹目の突進も、ギリギリで横へ飛んでかわす。足元の土がえぐれ、土煙が舞った。
息をつく間もなく、三匹目と目が合った。
真っ赤に充血した眼。その視線が、獲物を射抜くみたいに突き刺さる。
「……やべ」
背筋が凍った。
三匹目が吠えたかと思った瞬間、突進してきた。
さっきより速い。やっぱり目がイカれてる分、加減を知らねぇ。
「っと、こっち来んな」
避けざまに腰の袋から粘着玉をひとつ。
カランと投げつけると、ベチャリと音を立てて割れ、前足が地面に張りついた。
「ふぅ……」
攻撃が直線的なのは、変わらないか。
ワイルドボアの倒し方、その一。
突進を止める。
ああ、間違っても正面から止めるなよ。パワーは馬鹿になんねぇ。
岩やでかい木なんかを背にして、避けちまえばいい。
最初の一匹目が再び、鼻息荒く突進してきた。
「そらよっと」
ドゴォンッ! という大音量とともに木に激突。
な? 簡単だろ。
が、喜んでる暇はなかった。
避けた先で、もう一匹が前足を振り上げて待ち構えていた。
でだ、ワイルドボアの倒し方、その二。
背後に回り込む。
出来ればでいいぞ。無理して狙うな。
基本は一を繰り返せばいいんだが……。
「めんどくせぇ!」
潰される寸前、身を低くして股下をくぐり抜ける。
俺は体制を立て直し、ワイルドボアを正面に捉える。
「こいこい……」
振り向いたワイルドボアが、怒り狂って突っ込んでくる。
「ご苦労さん」
それをさらりと避ける。
と、次の瞬間──。
ドガァンッ!
背後で鈍い衝撃音。
突っ込んできた奴と、木に衝突してふらついていた奴が見事に激突していた。
「……馬鹿猪め」
勝手に潰し合ってくれるのは助かるけどな。
……ぶっ飛ばされたやつは? ……よし、起きてこねぇな。
こめかみから血を流して伸びてる。しばらくは、お休みだろう。
ぶちかました方の猪は、頭を振って土を蹴っている。
……おいおい、こっちを探してんのか? 目が完全にイッてやがる。
横では、粘着玉に絡まったやつが必死に暴れていた。
縄みたいに足にまとわりついて、地面を掘り返している。
くっそ、こっちは止まらねぇか。
なら優先順位は決まりだ。
「まずは──背中見せてるお前からだ」
ワイルドボアの倒し方、その三。
一を繰り返し、隙ができたら、背に飛び乗り弱点を突く。
駆け込んで背を跳ね上がり、そのまま馬乗りに飛び乗る。
腰の剣を抜き、狙うは頚椎。
ドスッ。
鈍い手応えと共に、野太いうめき声。
巨体がぐらりと揺れ、そのままどさりと沈んだ。
「こんなもんだろ」
剣を引き抜き、息を整える。
残るは一匹。充血した目をギラつかせ、俺を睨んでいた。
「さぁて……あとはお前だぜ、ぎらつき野郎」
巨体はふらつきながらも、まだ突進してきた。
よろけてるくせに速度だけは落ちていない。完全にブレーキがぶっ壊れた車だ。
「っと、すれ違いざま──もらった!」
刃を横に薙ぐ。
確かに当たったはずなのに──。
「くっ!」
手ごたえが石壁みたいに重い。剣が弾かれ、腕に痺れが走った。
普通のワイルドボアなら肉を裂く感触があるはずなのに、こいつは鎧でも着込んでんのかってくらい硬い。
土煙の中で向き直り、再び睨み合う。
充血した真っ赤な目が、ギラつきながら俺を射抜いてくる。
どうやら、ただの馬鹿猪じゃ済まなそうだ。
……考えてる暇はねぇ。
「──貫け!」
即座に手を地面に叩きつけ魔力を流し込むと、地面がうねり、無数の土の槍が牙をむいて突き上がる。
巨体の下から一斉に、串刺しにする勢いで伸び上がった。
だが。
ガキンッ! ガラガラッ!
嫌な音とともに、槍は次々と折れていった。
あの巨体、皮膚が鋼鉄かってくらい硬い。
土の槍が弾かれて砕けるのを見て、俺の口から思わず声が漏れる。
「……マジかよ」
直後、ワイルドボアが天を突くように咆哮した。
鼓膜が震え、胸まで響く。
圧が強すぎて、肺の奥がひゅっとすぼむ感覚すらある。
「腹下は弱点だろうが……」
ため息まじりに呟くしかなかった。
森の中で火なんざ使えねぇ。森ごと燃やしたら、依頼どころじゃなくなる。
……じゃあどうするか……って、くっそ!
巨体が突進してくる。俺はギリギリで身を翻した──はずだった。
ズザァッ!
ワイルドボアが急停止。土煙を上げて、あり得ねぇ角度で方向転換しやがった。突っ込んでった先じゃなく、避けた俺の方へ。
「お前……頭いいじゃねぇかよ!」
冗談じゃねぇ。馬鹿猪のくせに学習してんじゃねぇよ!
とっさに腕をかざす。
空気が圧縮され、目の前に半透明の壁を展開させる。
ワイルドボアがぶつかった瞬間、衝撃が弾け、轟音とともに風圧が炸裂した。
体ごと吹き飛ばされかけたが、なんとか受け流す。
耳鳴りの中で息を荒げ、つぶやいた。
「……マジで、シャレになってねぇぞ」
俺は足裏に魔力を込め、地面へと流し込んだ。
狙うのは数歩先。
「……こいよ」
睨み合ったまま挑発する。狙うは後ろ足だ。
ワイルドボアが鼻息荒く突進してきた瞬間──。
「落ちろ、馬鹿が!」
ズドンッ!
地面が抜け、巨体の後ろ足が土に埋まる。
バランスを崩し、そのまま仰向けにひっくり返った。
腹が、がら空き。これ以上ないチャンスだ。
俺は飛びかかり、胸の位置に手を押し当てる。
一気に体内へ魔力の塊を叩き込む。
「おらよ!」
ズン、と鈍い衝撃音。
巨体が痙攣し、血を吐きながら絶命した。
……あ~、肩いてぇ。
俺は肩で息をしながら、吐き捨てるように言った。
「……まったく、馬鹿猪で済んでりゃよかったんだがな」
まだ息のあるやつが一匹。ぶっ飛んで気絶してるが、このまま放っときゃまた暴れ出すに決まってる。
「悪いな」
剣を逆手に構え、胸を狙って一突き。
鈍い抵抗のあと、巨体が大きく痙攣し──それきり動かなくなった。
森の空気が重く静まり返る。
……終わったな。
とはいえ、ここでのんびり感傷に浸ってる場合じゃない。
獣の血の匂いは、別の魔物を呼び寄せる。
俺は袋からタマ婆さん印の消臭粉を取り出し、死骸にばさばさと振りかけた。
「さてと。こいつらの宴会場になられても困るんでな」
鼻にツンとくる独特の臭い。これでしばらくは持つはずだ。
だが、こいつは一体なんだ?
手袋越しに毛をつかむと、びくりとするほど固い。毛がまるで小さな棘の集合体みたいに硬いんだ。
皮膚を押してみる。弾力は普通の獣のそれだ。外見はワイルドボア、だが何かが違う。
「次に会ったら殴り殺すしかねぇな、こいつは」
半分自嘲で呟く。……そういう相手だ。斬って通じるか打撃で崩せるかの違い。
血をチェックする。指先で取って匂いを嗅ぎ、色を確かめる。
赤黒い。普通の獣の鮮血とは違う。目もまだ血走ったままだ。
これじゃ、下級冒険者が相手にしてたら、返り討ちもあり得るな。中級クラスでも油断は禁物だ。
証拠はあったほうがいい。小瓶を取り出して血を詰める。蓋をきっちり閉め、袋にしまう。
ウィザーズギルドで精査してもらう材料だ。
……ふぅ、こっちは解決だな。
最後に仕留めたワイルドボアに、視線を向ける。家畜を襲ったのはこいつだ。
蹄の大きさと、ここまでの足跡が一致する。
「犯人はお前だ!」
……よし。
あとはこいつを放置できるかって話だ。血と死骸の匂いは、他の獣を引き寄せる。
集落のそばで、それは困るからな。
手際よく周囲を見回し、簡単な結界を描く。地面に指で円を引き、魔力を流し込むだけの即席の拘束結界。飛び火や魔素の拡散を抑える程度のものだ。
結界のラインが微かに光るのを確認してから、着火。拳大に丸めた乾いた枯葉と小枝を、火であおって炎を大きくする。
森の火は危ないから、風魔法で炎の行き先を制御しつつ、結界の内側だけをじっくり炙る。
火を点けたのはいいが、燃え尽きる前にちょっと確認だ。
痕跡ってのはだいたい、煙と一緒に消えてなくなるからな。
結界の外をぐるっと回ると──まず目に入ったのは木の幹に引っかかった毛。
さっき触ったガチガチの毛と同じ。しかも妙に粘りがある。自然に抜けた毛じゃねぇな、これ。誰かが引き剥がしたみたいな痕跡だ。
さらに進むと、地面から金属の欠片が顔を出していた。黒焦げでボロボロだが、表面に刻印っぽい線。魔術紋の残骸だろう。
ウィザーズに見せれば鼻で笑われそうな代物だが、笑って済ませられるかどうかはこっちの問題じゃない。
そして足跡。蹄じゃない、人間の靴底だ。
しかも農夫の草履じゃなく、細身で爪先が尖ってる。獣道をなぞるみたいに続いてる。
……誰かさんが関わってるの確定だな。
「……ったく、ただの獣被害じゃなかったかよ」
血走った目も、鉄みたいな毛も、偶然じゃなく何かの仕業ってことだ。
あの血も合わせりゃ、異常三点セットだ。
鼻を利かせると、焦げ臭に混じって油みたいな匂いがした。魔具か薬品か。タマ婆さんでも扱ってなさそうな代物だ。
目、毛、血……さらに金属片と人らしき足跡。ここまで揃えば、偶然なんて笑えねぇ。
俺は金属片を布に包み、血の瓶と一緒に袋へ突っ込む。
残り火に土をかけ、消臭粉をもう一回ばらまいておく。
「よし。これで野生動物の宴会場にはならねぇだろ」
森が昼のざわめきを取り戻していく。けど俺の気分は重くなる一方だ。
村の杭なんざ一時しのぎだ。背後に人間が絡んでるなら、あれじゃ止まらねぇ。
ほぼ灰になった死骸から、魔石を拾い上げる。
ため息をついて肩を回し、村の方向へ足を向けた。
「……仕事増えるの確定だな」
村に戻ると、杭打ちの真っ最中だった男衆が顔を上げた。
「どうだった、ギルドの兄ちゃん?」
「ワイルドボアでした。巣を壊して遠くに追い払ったんで、もう大丈夫だと思います」
俺の言葉に、村人たちが「おお……」と胸を撫で下ろす。
ただし俺は仕事人だ。タダで安心させるほどボランティア精神は高くない。
「もう、戻ってこないのか?」
「念のため、これ置いときますよ」
袋からタマ婆さん印の匂い消しを取り出す。
村人が目を丸くしてるうちに、値段をしれっと提示。
「これ使えば獣や魔物は寄ってこないんで。お買い上げありがとうございます」
にこやかに売りつけたところで、肩をすくめる。
「じゃ、あとは頼みます」
背を向け、村を後にする。
静かな街道を歩きながら、心の中でぼやいた。
敵が何者かは未確認。証拠だけ拾って、原因不明のまま処理。
……これ、冒険者の方がまだ気楽なんじゃねぇか?
「……まったく、ギルドの調査員ってのは割に合わねぇ仕事だな」
昨日、拾った金属片と……あ~あ、考えたくもねぇな。
嫌な偶然が続くときは、大抵ろくでもないことになる。冒険者時代も今も、それだけは変わらねぇ。
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