第1話 プロローグ
潮騒の音が聞こえていた。
視線の先に広がるのは一面の青。どうやら大の字で仰向けに倒れているようだ。わずかばかりの白い塊――雲がゆっくりと流れている。
「えっと。ここは小石浜か?」
首を振りながら体を起こした。懐かしい思いを感じながら胡坐をかいて一息ついた。
でも、なんでアオは小石浜で寝ころんでいるのだろうか。
いつからここにいるのか全然思い出せない。けど、ここにいることには不思議はない。働き始めて1年ちょっと過ぎた今も、アオは何かあると小石浜で海を眺めていたのだから。
初めて商品が売れた日や、お客様に褒められてうれしかった日。些細なミスを気にしたときや、先輩に叱られて落ち込んだ日も――。
そして、アオが一人きりで生きていかなくなってしまったあの日も。
アオはことあるごとにここに来た。こうやって海を眺めていると、すべての感情が洗われるような気がするのだ。
「っと、いつまでもこうしているわけにはいかないか」
アオはゆくりと立ち上がった。そして、何ともなしにあたりを見渡した。
いつもの小石浜だった。正式な名前をアオは知らない。実家から5分ほど歩いたところにある、小さな浜。小さすぎて、砂浜もほどんどなくて、地元の人くらいしか来ないこじんまりとした浜だ。
けれど、アオは何かあればいつもここに来ていた。
「ここが静かなのは毎度のことだけどな」
つぶやきながら頬を掻いていると、気づいた。丘のほうで誰かが座っている。目を凝らすと、小さな人影が海を見つめているのが分かった。
「子供でも迷い込んだかな? 近くのおばちゃんのところまで案内すればいいか」
実は子供に話しかけるのはちょっと怖い。最近は法律だのなんだのですぐに通報されるというし、見知らぬ男にいきなり話しかけられたらびっくりさせてしまうかもしれない。でも迷子なら助けたいし、万が一海でおぼれたらと思うと少し怖い。小石浜は波も穏やかだけど、事故が起こらないとは限らない。
「最近物騒なんだよな。外国で大失踪が起こったのは去年のことだし。まあ、街一つから人がいなくなるような、あんな事件の犯人に仕立て上げられることはないだろうけど」
つぶやいて、人影のほうに向かっていく。声をかけるのは犯罪者のようで怖いが、ほおっておくわけにはいかなかった。
近づくにつれ、人影が鮮明になっていく。どうやら女の子らしく、アオはますます渋面になった。
でも、すぐに気づいた。その子がちょっと異様な姿をしているのを。
髪はぼさぼさでつやが全くない。着ている服もボロボロで、まるでテレビで見た浮浪児のようだ。目つきは驚くほど鋭くて、アオが近づいているのに視線を動かすそぶりもない。そのことにちょっとだけほっとしてしまう。あの目で睨まれたら、震えあがらない自信はなかった。
少女の姿に気を取られていると、ぐにゃりとしたものを踏んずけてしまった。慌てて飛びずさると、赤黒くなった土のようなものだった。羽毛のようなものが飛び散っていた。何か鳥の死骸でもあったのだろうか。
「なにもない。ここには。わずかな砂と、小さな石ころ。それに海があるだけだ。それなのに、すべてを受け入れてくれるような雰囲気がある。こんなところ、始めて来た」
アオはびくりと体を震わせた。どうやら、少女に話しかけられたようだ。
「え? あ、ああ。いや、誰もいなくて驚いただろ? 地元の人しか来ないような小さな浜だけどさ。海の中、砂利じゃなくて石が敷き詰められてるんだぜ。まあ、景色だけは捨てたもんじゃないと思うけどさ」
しどろもどろになりながら、何とか言葉を吐き出した。
恐怖は全然消えなかった。むしろ、声を聞いてさらに恐ろしさが増した気がする。年相応の幼い声なのに、聞いているだけで震えてくるのだ。もうすぐ20歳になるのに、怖くて怖くてたまらなかった。
気が付くと少女の瞳がアオを捕らえていた。その鋭い視線に、アオは反射的に背筋を伸ばした。黒い瞳に自分が映っているのを想像すると、脚が震えてくるのを抑えられなかった。
「い、いや・・・。あの、えっと」
「気に入った。この場所はいい。もうしばらくここにいることにする」
少女は口元だけで笑った。笑顔になったはずなのに、恐ろしかった。真っ青になりながら、それでも少女から視線を反らすことができない。まるで犬に睨まれた虫のようだと、なぜか思った。少女は顔だけは整っていて愛嬌のある犬とは似ても似つかない。なのに、そんな言葉が頭に浮かんだのだ。
「でも、このままではだめだな。仕方がない。少しだけ分けてやろう」
「え・・・。あ、ああ」
少女が言葉短に言ったが、うまく返事ができない。そしてその時に気づいた。少女が話しているはずなのに、言葉は分かるのに、その口がまるで動いていないのだ!
「生き残れ。私のために。長くいられるかどうかはお前にかかっている。お前が生き残るための力を、私が分けてやろう」
少女が笑みを深めた。おぞましいものを感じたのに、目が離せない。
「う、うわ! なんだこれ! やめろ! やめろぉぉぉぉお!」
気が付けばアオは黒い靄のようなものに包まれた。振り払おうと必死で手を振り回すが、靄はまったく振りほどけない。それどころか、靄に触れた皮膚が黒くなっていく。
「あ、ああああああああああ!」
そのまま、アオの意識は遠くなっていった――。