引きこもりだった頃の話をしたい。
私は引きこもりを経験したことがある。
大学を卒業してから1年間、祖母の家で。
引きこもっていた時は、朝が来ても布団から出ず、夜になっても眠らず、時間はまるで私に用なんかないとでも言いたげに、日々はぼんやりと流れていった。
一年間、ただただ生きることだけをしてたと思う。
いや、「生きていた」と呼んでいいのかどうかさえ怪しい。
陽の光はカーテンの隙間からしか知らず、季節の移ろいには興味もなかった。
引きこもり生活の何が一番怖かったかと問われれば、即座に「親」と答える。
けれどそれは、怒鳴られるとか、暴力をふるわれるという類の恐怖ではない
むしろ逆だった。彼らは私に優しかった。
「お婆ちゃんの面倒見てくれるなら丁度良かった」
彼らはそんな事を言っていたが、それは自分たちを納得させるためのものだったのだろう。
私から見れば、あまりにも変わらぬその優しさが、耐えられなかった。
「また失望させてしまった」という思いに、胸がしめつけられて、とても苦しかった。
次に怖かったのは、「電話の音」だ。
何かを要求される予感がしたし、何かに応えなければいけないような気がした。
そして三番目に怖かったのが、「新聞配達のバイクの音」だった。
「世の中はちゃんと回っているのに、自分だけが取り残されている」そんな孤独を、あの単調なエンジン音が突きつけてきた。
祖母は、そんな私に1日1万円をくれた。
「どうせ使い道もないんだから、いらない」
と返そうとしたが、彼女は笑って受け取らせた。
あのお金は、おそらく祖母なりの祈りだったのだと思う。
「お前はこの家に居ていいんだよ」
という、何の見返りも求めない承認だったのかしれない。
ある日私が、
「こんなにお金くれて、贈与税とか大丈夫なの?」
と祖母に言うと、彼女は
「生活費なんだから問題ない。金持ちの生活水準なめんな」
と笑った。使わないのは逆にまずいと言うので、本代とスマホの維持に少しだけ使わせてもらった。
親はというと、親戚には
「あの子は東京から帰ってないよ」
と嘘をついていた。
そのことを知った時、私はひどく悲しくなった。
親にそんな嘘をつかせる存在になってしまった自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。
結局、私が引きこもりをやめることができたのは、祖母のおかげだ。
毎日届く手紙のような彼女の1万円札が、私の心を侵食していった。
使い道もなく積み上がっていく(祖母のであって、私のではない)万札は、やがて私の中で「何かをしなければ」という罪悪感に変わっていった。
ある日、私は夜中にそっと外へ出た。
誰もいない深夜の道を、ただ歩いた。
月明かりと街灯だけを頼りに、足音だけを響かせながら、無言の世界をさまよった。
その静けさが、自分にとって最初の「リハビリ」だった。
深夜の散歩は、やがて習慣になった。
最初は家の周りを一周するだけだったが、徐々に足が遠くまで向かうようになった。
コンビニの明かりを見つけても入る勇気はなかったが、その暖かな光を眺めているだけで、なぜか少し安心できた。
三週間ほど歩いた頃だったろうか、ある夜に思い切ってコンビニに入ってみた。
店員は夜勤のアルバイトらしき若い男性で、私に気を遣う様子もなく、ただ「いらっしゃいませ」と言っただけだった。
その何気ない日常的な挨拶が、どれほど私を救ったか、彼は知らないだろう。
缶コーヒーを一本買った。温かかったのを覚えている。
そばの公園のベンチに座って、ゆっくりと飲んだ。
苦かったが、その苦さが現実味を帯びていて、「ああ、自分はまだ生きているんだ」と実感できた。
それから少しずつ、昼間も外に出るようになった。
最初は庭に出て洗濯物を干すだけ。次に近所の神社まで。そして商店街へ。
人との接触を極力避けながらも、世界の一部に自分を戻していく作業だった。
祖母は相変わらず、毎日一万円をよこしてくる。
「今日は散歩用のジュース代だけもらうね」
「今日は庭掃除をしたから500円だけもうらうね」
そんな風に、小さな理由を見つけては、少額ずつ使うようになった。
祖母は私の変化に気づいていたのだろう。
ある日、「最近、顔色が良くなったね」と言ってくれた。
鏡を見ると、確かに以前より血色が戻っていた。
それでも、完全に「普通」に戻るまでには、まだ長い時間がかかった。
電話の音は相変わらず苦手だったし、知らない人と話すのも避けていた。
でも、一番大きな変化は、朝が来ることを受け入れられるようになったことだった。
朝日を見ても絶望しなくなった。
新聞配達のバイクの音を聞いても、「世界から取り残されている」と思わなくなった。
むしろ、「世界はちゃんと回っているんだな」と、どこか安心できるようになった。
引きこもりが終わる居そうな頃だったか、私は初めて祖母に言った。
「お婆ちゃん、ありがとう」
祖母は少し驚いたような顔をして、それから穏やかに微笑んだ。
「何を急に言ってるの。家族でしょう」
その時、私は理解した。
祖母の一万円は、確かに祈りだった。
でもそれは「居てもいい」という許可ではなく、「いつか歩き出すだろう」という信頼だったのだ。
それを、彼女なりの方法で私にしてくれたのだ。
私は今でも、あの一年間を「失われた時間」だとは思っていない。
それは立ち止まる時間、呼吸を整える時間、自分と向き合う時間だった。
そして何より、人の優しさの重みを知る時間だった。
引きこもりから立ち直る方法に、正解はないのだと思う。
ただ一つ言えるのは、誰かが見守っていてくれるということ、
そして自分が思っているほど世界は冷たくないということだ。
外の空気が「冷たい」ではなく「気持ちいい」と思えるようになった頃、
祖母が知り合いの小さな会社を紹介してくれた。
事務の仕事だった。
大学生のころに思い描いたような就職先ではなかったが、なんとか社会のどこかに自分を置くことができたというだけで、当時の私は十分すぎるほど満たされていた。
給料が貰えれば、祖母に今までのお礼ができる。私の使ったお金を返せる。それが凄く嬉しかった。
深夜の散歩から始まった小さな一歩が、やがて私を日常へと連れ戻してくれた。
今思えば、あの静寂の中で、私は自分なりのペースを見つけることが出来たのかもしれない。