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むやみやたらと広大な廊下を制作し、更には長い通路として屋敷の中を縦断させる事の意義がルドヴィカにはわからない。
そりゃ貴族様の邸宅には家族だけではなく使用人も生活があるのだろうし、要人の客人の出入りも激しかろう。でかい建築物が必要なのはよく分かる。
それにしたって、無駄に大き過ぎるし長過ぎないか。
廊下を歩くだけで、一つ一つの部屋を見て回った訳ではないので正確な部屋の数や大きさなどはわからないが、扉と扉の間が広過ぎるように感じる。それはつまりひとつの空間が広く造られている、という事だろう。部屋なんかでか過ぎても掃除が大変なだけなのだからもっと手狭に、必要最低限の大きさに留めておけばよかろうに。偉いさんは効率などどうでも良いのか? と思ったりもした。
そもそもこんなに広い屋敷の廊下の真ん中を歩くのがもう嫌だ。汚す、絶対埃とか満遍なく散らばってる。せめて端に追いやられたいのに、ジェーンが堂々と廊下の中心を踏みしめて歩きながらこちらに話しかけてくるので離れて隅によるわけにもいかない。
ファレスプラハも広大な敷地に建物が造られているが、大学という性質上人が大勢行き交うのが普通で、あまり不要な程大きいという感覚はなかった。くらべると、個人のお屋敷の中は閑散として見えた。
「……もうすっかり夜ですね」
ぽつり、と口から漏れたルドヴィカの言葉にそうねえ、とジェーンが相槌を打ってくれたものの、実のある話に移行する事もない。沈黙が長い廊下に降り注いだ。
今しがた通り過ぎた壁には大きな枠が切り取られていて、立派な硝子が嵌め込まれている。月の光も、圧倒的な闇を照らし出すには力不足のようだ。
紳士の手にしたランタンの光や、廊下に面した扉の側に設置された大人の男の背丈よりやや高い長さの燭台に灯された魔術の光も、屋敷の隅々に光を届けるのは不可能のようだった。
ルドヴィカの部屋のように、寝床と机だけで全てが埋め尽くされるような家ならばこの燭台一つで十分だろう。そう考えると、やはり広過ぎるお屋敷は逆に不便に思えてならない。
せせこましい感想を内心漏らしながら、廊下を歩いているとその様子を不審に思ったらしく、ジェーンが不思議そうな顔をして話しかけてきた。
「どうしたのルシカ。きょろきょろして」
「ああ、その……大きい家ですね。こんなお屋敷は入った事ないので、落ち着かなくて。すみません」
本心をその儘口にするのは流石に不味い、という理性は働いた。誤魔化す為に、単純極まりない感想を口にしただけなのだが、ジェーンはそれを褒め言葉と受け取ったらしい。ふふんと威張るように胸を逸らしつつ、こちらを振り返った。
「立派でしょう? それにお父様は芸術にも造形があってね、彫刻も絵画もお父様自ら職人に依頼して造らせている作品なの」
「へえ」
気のないルドヴィカの返答は特に気にならなかったのか、ジェーンはご機嫌そうに話を続けている。その儘紳士と屋敷内に陳列している作品とやらについて話を始めてしまったので、ルドヴィカは彼女らの話を聞き流しつつ大人しく後ろをついて歩いた。『芸術』とやらに金銭を使うという発想のないルドヴィカには、彼女らの高尚な話題について行けるとは思えないので、黙る事が最善の行為と思える。
それにルドヴィカにはもう一つ、目が慣れてくる事で見えてきた事があったのだ。
この屋敷、何らかの呪いがかかっている。
ルイス家は代々魔術師を輩出してきた家系だと聞いた筈だが、呪法の心得もあるのだろうか。気にはなったものの初めて訪れる高貴な方のお宅で、それも自分が罪人疑惑のかかった状態であれこれ詮索するのはよろしくはない。ルドヴィカは気にしない素振りで、廊下を進んだ。
夜の仕度、明日の準備。お金持ちのお屋敷で働く人々には、様々な仕事があるのだろう。使用人らしき男女と何度かすれ違うが、彼らは毎度暗闇の奥からぬうと現れ、静けさをもたらすような挨拶とともに、立ち去る。その姿は闇色の屋敷の壁をすり抜けてきたように見えて、なんとなく不気味に思えた。
そんな人々を横目に見ながら暫く歩くと、漸く目的の部屋の前に辿り付いたようだ。
「こちらの部屋でお待ち下さい」
紳士の手にしたドアノブが音を立てたかと思うと、重たい音を重ねるようにして扉が開いた。
促された扉にあった部屋はルドヴィカが先程予想したのと違いなく、やはりとても大きく見えた。いや、想像以上かもしれない。流石に大学の教室とまではいかないが、広々とした部屋の中心にぽつんと置かれたテーブルとソファが、酷く寂しく見えた。
壁には静謐物が描かれた絵画や古いテーブル、年季の入ったカーテンや絨毯で整えられている。しかしそれらの家具や調度品も、部屋の寂しいくらいの広さは埋められていない。そしてそれらの調度品も、やはり暗い色で統一されている。絵画は流石に華やかな絵具が使用されているようだったが、額縁は灰色を重ね続けたような色合いをしており、夜という時間も相まって自身の制服の青を見ないと、色のない世界に迷い込んだ錯覚に襲われそうだった。
紳士はテーブルの上にあったランプに炎を移すと、恭しく礼とともに口を開いた。
「貧相な部屋で申し訳ありません。先程も申し上げたように、客人として大っぴらにお出迎えする事が出来ない為にこのような部屋しかご用意がかないませんでした」
紳士の口から飛び出た言葉に思わず彼の顔と、室内を見返す。
「えっ貧相?」
確かに室内は全体的に古い家具で揃えられているようだったが、貧相というには程遠い。寧ろ正式な客人でもない自分には、過ぎた出迎えだと思ったのだが。
「いやいや、何処が貧相だって言うんですか。どこもかしこも、立派な部屋じゃないですか」
主も同じ意見なのか心の底からの驚愕の言葉を吐いたルドヴィカに対して、ジェーンは少しばかり決まりの悪そうな顔をして見せている。
「気を遣わなくて良いのに……ありがとう。でも無理してそんな事言わなくたって良いのに。本当にごめんね、こんな部屋で」
「いえ本当に困るんですが、もっと小さい部屋とかないんですか」
「良いんだって、無理しないで」
まるっきりルドヴィカの話を聞いてくれないジェーンの言葉によると、ここはかつて幼い頃のジェーンが使っていた子ども部屋だそうだ。
「今は自分の部屋は勿論、勉強部屋もちゃんとあるんだけど今では新しく来た召使いの礼儀作法や仕事の指導室なのよ」
そしてそんな部屋は、彼女らにとっては全くもって貧相な部屋で、到底客人をもてなすには不十分のようだった。
「それじゃあわたしは自分の部屋に行くから、ちよっと待っていてね」
「……はあ」
罪人疑惑のある人間を、水晶玉の姿をしているとはいえ公爵家のご子息と一緒に放置しても良いのかと疑いつつ頷くと、紳士がすっと言葉を挟んできた。
「お嬢様を信じておりますゆえ、必要のない言葉かと存じますが失礼いたします。しかし、屋敷を預かる立場から忠告をさせていただきたい」
「なんですか?」
「ここから一歩も出ないようお願い申し上げます」
ほらきた、と思った。反面そう来なくては、とも思った。
目を見て彼の心理を読み取ろうという足掻きなんか、必要ない。小柄なルドヴィカを見下ろす長身の男は、最初から敵意を隠してもいなかったのだから。