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待ち構えていたのは一人の老紳士である。
年の頃はララと同じ程か、かなりの高齢に見えるが背筋はぴんとのびている。仕立ての良い黄みの色合いの入った白いコートにはは皺ひとつなく、革製のブリーチも同様だ。コートの下のシャツは純白が暗闇から浮かび上がるように見え、光り輝くよりも寧ろ幽鬼さながらの不気味な印象を持った。
短い白髪は後ろに撫でつけなれていて、そこにも乱れなどは一切見当たらなく、全体的にこの深く包み込む灰色の世界に、彼の存在は奇怪に映った。
身長はさほど高いようには見えないのに妙な迫力があるなとルドヴィカは思ったのは、瞳がとてつもなく細く、糸のように見える程だからだろうか。目が合った瞬間恫喝されたかのような錯覚がしたのは、細い白目の中に浮かんだ黒目が睨みつけてきたように見えた。この屋敷に足を踏み入れる事を暗に拒否されている、反射的にそう思った。
「お嬢様、よくぞご無事でお帰りくださいました。屋敷の一同大変安心し、皆胸を撫で下ろしております。特にアレンなどは、お嬢様のお姿が見えたと泣いて神への祈りを捧げており、仕事になっておりませんよ」
仰々しい口調で本当か嘘かもわかりにくい事を老紳士は語ってくれたが、見渡せる範囲には歓迎の大喝采を浴びせるような人々の姿は、一切ない。
「ただいま、レグ。アレンはまたそんな事を言ってるの? どうせ仕事さぼりたいだけでしょ」
「またそんな事を言って。アレンが絶望のあまり、お嬢様の靴を抱えて泣き出したらどうします」
「そんな馬鹿げた真似しでかしたら、直ぐに屋敷から叩き出してよ。主人に仇なす者の排除があなた達の仕事でしょ? なんとかしてよ」
貴族ゆえの軽口なのだろうか、本気とも嘘ともつかぬ会話を軽快に繰り広げるご令嬢と使用人をルドヴィカは会話に入る事も許されぬ儘、遠巻きな心持ちで談笑する彼らを観察した。
ジェーンのくだけた様子や男の年齢から推測するに、男性は随分長い間ルイス家に仕えている使用人のようだ。主人だけでなく、その娘にも幼い頃から誠心誠意……かどうかは知らないが、彼女の成長を見守りってきたゆえの気さくなやり取りが生まれる程に、厚い信頼を向けられている関係性を築いてきたように見える。
反対に彼らの会話に出てきたアレンとかいうのは、恐らく屋敷を出入りする使い走りか下級の使用人だろうか。ジェーンに懸想を向けて厄介な扱いをされている……のかもしれない。仕事もあまり出来ないとみたが、全てルドヴィカの勝手な想像の話でしかない。
「そちらの方がルドヴィカ・バレンシス様でお間違いないですか?」
急に矛先がこちらを向いた。見ると使用人……レグと言ったか……が、ルドヴィカに向かって深く頭を下げているところであった。
「挨拶が遅れてしまい、大変失礼をいたしました。ルイス伯から屋敷の管理を任されておりますレグス・グリッツェンと申します。お見知りおきくださいませ」
形式的な礼儀作法などろくすっぽ知らないルドヴィカには、優雅な上級階級の所作だとかはさっぱりわかったものではない。それでも、流れるような優雅な所作は何かの儀式のように大仰で何をどう返すべきかもわからないルドヴィカは、その場に棒立ちになるしかない。
仕方がない。棒立ちの儘開き直ってルドヴィカは口を開いた。
「はいそうです。ルドヴィカ・バレンシスです。突然やって来てすみませんでした……知ってるかもしれませんが、わたしは客とかじゃないので、適当な場所に置いて貰えたら大丈夫です」
何が大丈夫だというのかは自分で言っていてよく分からないが、自分が屋敷の人々にとってはとんだ闖入者でしかないのは理解している。丁重に取り扱えなどというつもりは毛頭ない。
以前ジェーンから聞いた話では、ルイス伯にはジェーンしか子は存在しないらしい。
それにしては、出迎えが紳士一人というのは随分寂しい気がする。それとも、貴族の子女でもそんなものなのか。
ルドヴィカの礼儀作法も言葉遣いもなっちゃいない挨拶に、口の端を持ち上げ笑顔を作ってくれた……が、最初に受けた威圧感は拭いきれるようなものではない。
やっぱり警戒されているんだろうなあなどと思いながら、頭を下げた。罪人疑惑がかかっているのだから、それも仕方がない事だと納得しなければならない。
「という事は、やはりあなたが例の?」
「そう。罪人の嫌疑をかけられてるけど、そんな事は絶対にないから安心して」
ジェーンの何とも信憑性に繋がらない言葉に、ルドヴィカは乾いた笑いしか浮かばなかった。
紳士はジェーンに対しては安心させるように目尻を下げた笑みを披露して見せたが、ルドヴィカに向ける眼差しはやはり鋭いと言わざるを得ない。その視線を受け止めつつも、面倒な事になったのを今更ながら
じわじわと感じる。
「勿論お嬢様のご友人だというお話は窺っております。建前では罪人の確保となっておりますゆえ、華々しく歓迎の宴を用意することは適いません。ご了承くださいますようお願い申し上げます」
「そりゃそうですよね、先刻言ったように自分の立場は理解しているつもりですから、気にしないでください」
なんなら両手首を縛ってどこか適当な部屋に閉じ込めて貰っても構わない。それで嫌疑が晴れるなら、の話ではあるが。
そんな事をやけくそ半分に思いつつ、ルドヴィカは頷いた。
伯爵家の一人娘のご帰宅だというのに出迎えが紳士一人、という理由に納得がいった。罪人疑惑のある人間を、大っぴらに受け入れるのは建前上不可能なのだ。先程地味な出迎えだと思ったのを恥じた。自分の所為ではないか。
「もう、皆酷いわね! ルシカがそんな事をする訳ないってどうしてわからないのかしら!?」
ルドヴィカの無実を信じてくれているらしいジェーンの憤慨した様子にも、紳士は動揺の気配はない。彼女の言葉に同調するように、控え目に頷いている。
「申し訳ありませんお嬢様。お嬢様が仰るのならば、真実ルドヴィカ様は無実なのでしょう。しかしお父上は罪人疑惑のある人物を受け入れるという名目にて、彼女の身柄を預かった責任というものがございます」
紳士がジェーンの言葉を信じていないのは火を見るより明らかなのだが、純粋無垢なお嬢様の心を傷付けたくない一心なのか、紳士は主に丁寧に言い聞かせている。その様子は、まるで我儘盛りの幼子に対する母親のようであった。
「無実のルドヴィカ様なら、直ぐに身の潔白は証明されるでしょう。その時は、改めてルイス家の力の限りの歓待をさせていただきます。今日のところは、貧相な待遇をご容赦ください」
最後の方はルドヴィカへと向けられるべき言葉であったが、彼は最初から最後までジェーンのみに向けて話をしていた。
(成程。こういう家か)
頭上の水晶玉が呟いたが、ルドヴィカには意味がわからない。
「なんですかどういう事ですか」
問うも水晶玉は返事をくれない。むっとして質問を繰り返すが、やはり返事はなかった。
「気になるじゃないですか、教えてくださいよ」
(いや大した事じゃないんだ)
「大した事じゃないなら、尚更言ってください、ほらほら」
そんなやり取りを繰り返している間に、ジェーンはレグスに丸め込まれていたようだ。こちらを見て、言う。ご機嫌のご様子であった。
「何してるの? 行こうよルシカ。部屋も用意してくれてるわ」
「……はい」
カレルが何を思ったのかは気になって仕方がないが、確かにルドヴィカ自身疲れ切っていて早く身体を休めたいのは確かだ。彼女に続いて暗がりに飲み込まれてしまいそうに見える廊下を、彼女の後に続いた。