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「このお話はなかった事にさせてください」
その言葉が父親の口から発せられた事実に、ルドヴィカは気が付けなかった。
僅かに眉を顰めたガートルードが一言、放つのを呆然と見つめる。
「どうして?」
低い声に身が竦む思いと同時に、そこで漸く悟る。
父親は、この婚姻の話を断ると言っているのだ。
公爵家の秘密を話し、更には地元では殆ど公然と化した秘密であるルドヴィカの髪にかけられた呪いと、その元凶すら知っている素振りの公爵夫人の暗に脅しているのと変わらない提案をぶった切るとは、何を考えているのか。
唖然として父親の横顔をルドヴィカは見上げた。正気か、という思いがあった。
「娘の気持ちゆえ、です」
父、テオの顔には大粒の汗が滲んでいた。ルドヴィカに譲られた濃い茶色の瞳には怯えと緊張が宿っている。
明らかに年下の公爵夫人の身分に恐れ慄く姿は、見苦しい。それなのに、父親は一歩もひかなかった。
「ルドヴィカが望む結婚だからこそ、我々も了承したのです。娘がカレル様との縁談に対して困惑しているのですから、一度この話は白紙に戻せないでしょうか」
そんな都合の良い話があるか、とでも言いたげな公爵夫人の無言の視線が痛い。
この状況はまずい。彼らに睨まれたら、自分達はこの先平和にこの地で暮らしていけるだろうか。ルドヴィカも大学に通えなくなるかもしれない。
今直ぐ自分がカレルとの結婚もやぶさかではない、と告げればこの場は収まる。その事をこの場にいる誰もが気が付いている。
「わたし」
言わなければ。両親もわかっている。我々には彼女の提案を蹴る権利など最初からないのだ。カレルのもとに嫁ぐと、自分が言わないといけない。
「いきましょう、ルシカ」
「えっ」
「申し訳ありません。我々は失礼いたします」
ルドヴィカの言葉を遮るように口を開いたのは、これまでずっと黙っていた母、リアノルだった。長い髪を纏めて精一杯めかしこんだ母親の目には、普段の娘より子供のようにはしゃぐ姿は見られない。
父親以上に緊張しているのか、この場で一度も発言をしていなかったように思う。その母親が初めて発した言葉が、高貴な立場の人間への否定の言葉だった。
彼女の手がルドヴィカの左手を握る。父から母に視線を向ける。険しく、前を睨むような彼女の視線はこれまで見てきた事のないものだった。
「……そう。ハガラズ様にはあなた方の話は伝わる。追って、あの方の返事を伝えましょう」
公爵の言葉。何かしらの罰が与えられるのだろうか。考えるだに恐ろしい。
なにせ自分達は、対外的にも公爵家の方々が隠しておきたい事実を知ってしまったのだ。少なくとも口止めに近い制裁が下るのは想像に難くない。
両親はそれでも前言を撤回しなかった。庶民の取り繕ったお辞儀を椅子に座った儘の公爵夫人にひとつして、混乱するルドヴィカの手を母親はひいた。
ルドヴィカの本音は勿論、顔も知らないカレルの妻になどなりたくない。それは確かだった。
「お父さん、あんな事を言ってしまってどうするの」
辻馬車の中、固い表情の父親に尋ねたが彼は無言で首を振るだけだ。
続いて母親の顔を見る。母親は、ゆっくりと口を開いた。
「ごめんね」
「何がごめんなの」
母は常に楽天的な女性だった。何があろうとなんとかなる、どんな人生の波乱も受け流せば何時か過去になる。そういった、お気楽なところはルドヴィカには無責任に見える事もあった。
その母親が眉をさげると、髪飾りで覆われているルドヴィカの髪に触れた。
「わたし達が我慢させているよね。ルシカにずっと嫌な思いをさせて、ごめんね」
不自然に短い、顔の右側の髪の事を彼女は言っていた。
公爵夫人の蔑むような、憐れむような眼差しが蘇る。彼女は自身の息子が呪われていながらも、同じく呪われているルドヴィカを小馬鹿にしていた。嫁の貰い手などないに決まっている小娘を敢えて選んでやった事に感謝しろとでも言いたげだった。
何と言葉を返せばわからず黙り込むルドヴィカの髪を撫でて、母親はごめんと繰り返した。髪がのびる事はないけれど、彼女の言葉は長年のルドヴィカの鬱屈を静かに崩していくようだった。