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塔の中で窓が存在しているのが、学務長の部屋だけだ。一番高い場所にある為、侵入者に警戒する理由が低い為かもしれないが、やはりルドヴィカに理由はわからない。
ヒューが扉を叩く。きれの良い音が二回響いたかと思うと、さほど間を置かずに中から入室を促す声がした。学務長のものだ。
「失礼いたします」
挑むような大きな声は、後ろにいるルドヴィカに向けられたかのような圧力を感じた。
彼に習い、ルドヴィカも声を張り上げる。
「失礼いたします。ルドヴィカ・バレンシスです」
返事を待ち、ヒューの指がドアノブにかかるのを見つめる。
ルドヴィカが学務長の部屋を訪れたのは、面談の時の一度きりである。
部屋の内部など殆ど記憶にはないのだが、あの時と全く変化はないと感じる。それは、この部屋の一部かのように髪の一房すらも変化を感じさせぬ学務長が、大きな机の向こうからこちらに視線を向けてきたのを確認したからかもしれない。
「ご苦労様。よき学びを得られたかな」
机を挟み、エスキルが立っていてこちらを見ていたのが強いて言うならば、大学に入学した日との違いだろうか。彼の言葉に応える為、ルドヴィカも差し出がましさを示しながら一歩下がり、口を開いた。
「遅れてしまい申し訳ありません。今日の修行を納めて参りました」
形式的な一礼をし、頭を下げてからふと妙な違和感があると、視界を通じた情報が、ルドヴィカ思考に伝わってきた。
今、何かいた気がする。本来いる筈のない、しかし見覚えのある何かが。
「……なんでっ?」
勢い良く頭を上げる。
そしてその名前を呼んだ。
「ジェーン・ルイス嬢!?」
「はーい」
エスキルの後ろにわたしこそが従者です、とでも言いたげに控えている一人の女性。見間違いようがない、今日出会ったばかりである。
授業の合間に興味本位丸出しで食堂での騒ぎに言及してきた女性、ジェーンに間違いようがなかった。
「っていうかルイス嬢とか他人行儀に呼ばなくて良いって。ずっと言ってるじゃない、呼び捨てにして良いよ、ジェーンて呼んでって」
「……」
「何その顔」
友達になった覚えとかねえよ、と言いたいのが口にのぼらすのを堪える代わりに、表情に漏れ出してこぼれ落ちんばかりのようだ。不満気なジェーンの子どもっぽい膨れ面に、ますますルドヴィカはうんざりする。こちらは、彼女の要望を何でも聞く従者ではないのだ。
従者といえば、ヒューはいつ移動したのかエスキルの背後に控え、成り行きを見つめている。誰か一人でもエスキルに危害を及ぼすのなら、直ぐに武器を抜く気と見える。
「もう、しょうがないなあ。いつか慣れてくれたら良いわ」
こちらが譲歩してやったと言わんばかりの態度に辟易するが、取り敢えずありがとうございますと頭を下げておいた。一番ありがたいのは、庶民が戸惑うような距離で接してくるのを自重してくれる事であるのが。
彼女の振る舞いは貴族の娘として相応しいのか、という疑問はさておき、ジェーン自身も自分の立場とルドヴィカの身分が釣り合うには満たないものだと理解している筈だ。対等な立ち場を求めてはいても、無理強いしてこないのは、彼女も自覚がある故だろう。
それならそれで、さっさと現実を受け止め庶民に馴れ合いを強要するのは止めていただきたいものである。
学内は皆法術の徒であって、身分や立場で学ぶ権利を阻害される謂れなどない。ファレスプラハ大学は表向きそう表明していたが、そんな理想が通るわけがないのだ。
「……ルイス嬢がいらっしゃるのには、特別な理由があるのですか?」
彼女はカレルを含めた公爵家の事情やディック・エイドとルドヴィカが起こした騒ぎには一切無関係である。この場において一番の異物は、彼女だ。
「ひるま、、食堂で起きた騒ぎを彼女も聞き付けたそうだ。きみに悪影響を及ばすのではないか、案じて飛び込んできたのだよ」
「はあ?」
出しゃばりというか、なんというか。そこまでしていただく筋合いなんてないのだが。
余計なお世話というか、貴族の令嬢に気を遣わせるなどととんでもないと、いたたまれない気持ちが胸中に浮かぶ。
ジェーンの方はといえばルドヴィカの反応がお気に召さないらしい。
「何よ、その態度! 学務長に呼ばれたって噂に聞いて駆け付けたっていうのに」
「わたしの事情に心を砕いていただいたのは、ありがたく思ってます。ただ、そのお気遣いはわたしには身に余る」
嘘ではない。ルドヴィカにとって魔術を学ぶジェーンは同じ知識を求める学徒ですらなく、ジェーンの方から関わろうとしていたとしても、巻き込む謂れなどない。
「だからっ、そういう突き放すような感じが嫌なのに」
不平を漏らすジェーンに、学務長が語りかけた。
「すまないね、ジェーン・ルイス。きみの気持ちは痛いくらいルドヴィカ・バレンシス含めたこの場の人間には伝わっているよ。しかし彼女にはその気持ちは、未だ重たいのではないかな? 受け止められるようになるまで待っていてあげられないか」
全くもってルドヴィカの心の代弁には程遠いお言葉であったが、ジェーンも学務長からやんわりと咎められて流石に大人しくなった。
「さて、先ずは事実を繋ぎ合わせていこうか。ルドヴィカ・バレンシス。カレルはそこにいるかい」
「……」
ジェーンがいるのに全てを話して良いのか、と未だに何を拗ねているのか唇を尖らせた女性を見る。
視線の先を悟ったのか、学務長が重ねて言った。
「おおまかな噂が既に学内に広まっているのは、知っているね。今更隠し立てしたところで、大差はない」
その言葉で諦めた。万が一にでも隠し通せないかとの期待は持つのは無理だ。
「わかりました。カレル様、おいでいただけますか?」
頭上に呼び掛ける。
姿を現すのを拒むかな、と内心思っていたが、ルドヴィカと同じように彼も覚悟を決めたらしい。ルドヴィカの頭上に、子どもの手のひら程度に大きくなった水晶玉が姿を現した。