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他国の貴族でありながら膨大な資金を投資して、留学したディック・エイドにとっては碌に知らない国の平民の小娘など、暇潰しのお遊びに使えたらまだましといった見方しかしていなかった。
自国に於いては羽目を外すわけにはいかなかったのは、卑怯な手によって成り上がった父親の姿を見ていた為だ。実の兄弟を蹴落とし、命を奪った疑惑のある家名の存続は生臭く付きまとっている。
父親の轍を踏むまいと周囲の顔を立て、それなりに大人しく庶民にもおおらかな振りをしていたが、人間とそれ以外だと言っても良いくらい地位のない小さき者を馬鹿にしていた。温厚な貴族の三男坊という立場は実に鬱屈の溜まるものだった。
だからこそ、異国への留学への話に飛び付いた。自国の人間の目がない土地なら、多少羽目を外しても構わないだろうと踏んだ。
ルドヴィカ・バレンシスへの嫌がらせはお遊びの一貫に過ぎない。
貴族の顔を窺って縮こまりながら生活するべき庶民が、我に正義ありとでも言いたげに不作法な足取りで我々貴族と同じ学び舎を闊歩しているのだ。不快に思わない方が可笑しい。
当初は甘い言葉を囁き、我を忘れて舞い上がったところを花を散らすように弄んで捨てるつもりだったが、この小娘は愚かしく強情だった。無視をするか睨み付けて毒吐くような、身分の違いを全く知らぬ愚鈍である。頭がおかしい。
他の学生をけしかけりしたが、小娘が法術を学ぶ上必然となる自身の才覚を口にしなかった。余程陳腐な才しかないのだろう。学費免除の特待生という噂も流れたが、それなら才能も一緒に伝わる筈だ。つまり、才覚の方もお察しという事だ。
下町の娘をひっかけた時に、ルドヴィカ・バレンシスを知っているらしき娘から、一応やつにもそれなりの才能があると地元では有名だと話には聞いた事がある。
(あり得ない。庶民如きが)
そんな能力があるとなれば、自分から喧伝してまわっている筈だ。嘘に違いない)。そう言い切れるような、珍奇で歴史的にも聞いた事ない才覚だった。
恐らく何かしらの奸計をもって、愚かな近しい人間をだまくらかして小銭を稼ぐような生活をしてきたに違いない。事実、ペテン師や詐欺師、悪党教職者なんかが病人や貧困層の苦境につけ込み、それは呪いのせいだ、呪いを解いてやると言って金を巻き上げる手口の犯罪行為は実在していた。
だから直ぐにその話は忘れた。そもそも何をもって呪いを解いたというのか。ばかばかしい。
実に愉快な話が耳に入った。
お陰で目障りな小娘を破滅に追い込むには、実に愉快な方法が思い付いた。
教師に隠れて魔術の練習をしていた学生の一人が、何の変哲もない水晶玉に大真面目な顔をして話しかけている小娘の姿の目撃したという。
是非にその現場を目撃したいと思った。あのクソ生意気な小娘の鼻っ柱をへし折るチャンスに、笑いが込み上げた。
「泥棒は見過ごせないね」
事実、ルドヴィカが水晶玉を買える程裕福な人間とは思えなかった。特別貧困に喘いでいる訳でもないだろうが、精々が毎日食いっぱぐれない程度の稼ぎの家庭だろうと。それは毎日食堂で小さい体に大量の食事を詰め込もうと必死な見苦しさを見ていたらよくわかる。
貧相な小娘ではあるが、女は女だ。辱めるだけの大義名分があれば、何のこともない。二度と我々の前に出られなくなるだけの傷を付けるには、充分だ。
外套を力ずくで剥ぎ取り、敵意と隠しきれない恐怖に満ちた形相を見せる小娘に、はっきりとした勝者の目で見下す。
「あれ、見つからないなあ……そっちか」
「嫌だ、離せ……っ!」
怯んでいるのは、男の腕力に恐れをなしたからだろう。身じろいだところで、逃れられない事にルドヴィカは慄いている。
学生同士の決闘や乱闘、いざこざを当然大学は全面的に禁止している。しかし、所詮はそんなの体面的な文句でしかない。他国からの留学生と自国の一庶民。泣きを見るならどちらを選ぶかなど、余程の阿呆でなければわかりきっている。
悠々と、目玉をこぼれ落ちそうな程見開いて睨みつける娘を見下して、笑った。
手をのばす。
小娘の、外套の下にある純白のリボンが飾るブラウスに指をかけた。
その、瞬間だった。
空気が破裂したような感覚と、遅れてきたのは皮膚から下を貫通するような痛み。そして再び、衝撃が全身を叩いた。
「な……あっ!?」
間抜けな悲鳴だと、笑う者はいなかった。
視界の端に、こちらを敵視する小娘を含めた理解を放棄したかのような間抜け面が記憶に奇妙に焼き付いた。
頭を、正確には額を非常に強い打撃が襲ったと理解したのはその衝撃によって身体を向けて倒れ、その先にあった椅子と長机にもろに全身を叩き付けた。その後だ。
ごろりと間抜けな、腕も胴体も太腿もゆっくりと不安定なぶつかった椅子から崩れ落ちた。
「な……な、な」
何が、と言おうとしたが追い付かない。
ただ、見上げた先に涙を浮かべ拳を振り上げた小娘と……その小娘の拳よりも高い場所、ほぼディックの頭上から垂直に落下しようとしてくる。
「水晶……だま?」
確かにそれは、天窓からの陽光を受けて眩く光る、水晶玉にしか見えなかった。