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収まらない怒りは一体どこから来ているのだろうか。
荒々しく自分が在籍する授業を受ける教室のドアを開き、締める。
激しい音に既に着席していた紳士淑女は不快そうにルドヴィカの方を見たが、それも一瞬だ。礼儀もマナーもなっていない小娘など、歯牙にかけるのも時間の無駄だと感じているのだろう。そりゃご尤もだ。それでいい。
授業を受けるべき座席は基本的に自由だが、どうせ誰も自分の周りに座る事はない。常のように、周囲に誰もいない、一番端の席の椅子をひいた。見なくても遠巻きにしている人間が、自分達の傍に来なかったのにほっとした気配がしたのがわかった。
どれもこれも、非常に耐え難い怒りを増幅させるばかりだ。
必要な勉強をしたいだけなのに、何故こんな思いをせねばならないのか。理不尽さに埋め尽くされた頭の中は煮えたぎるような怒りに満たされている。
情けなくも今だって気を抜いたら涙が出そうになるのを、必死に我慢している。自分でもこんなに怒りが収まらないのか、理解出来ないでいた。
エスキルとの結婚の話がおじゃんにされた事か、それとも貴族連中に所詮は庶民、高貴な家柄の者との婚姻を望むのが、そもそも身の程知らずと嘲笑われたのが悔しかったのか。自分の身分を、ルドヴィカ自身が恥じているからこんな風に気が落ち込むのか。
『ルドヴィカ』
「……」
この状況では返事出来ないと、カレルも理解をしてくれないものか。先程町中でも話しかけてきていたが、今は聞き流す余裕もルドヴィカにはないのだ。それを分かって欲しいと思うのはこちらの我儘なのだろうか。
『知性も感じない連中だったが、彼らも学生なのか?』
学生じゃなければ大学にいる必要が、そもそも存在しないだろうに。胸中で言い返すが勿論無言だ。
教科書のほかに必要だろうと、図書室から借りてきた本を机に並べる。大学に入る前から家庭教師に簡単な法術のいろはを習う事の出来た貴族様方と違って、ルドヴィカには基礎中の基礎の知識がない。大学の授業と並行して覚えるべき知識が山程あった。
カレルはこちらの無反応などおかまいなしに、ルドヴィカに質問を続ける。
『学生だとしたら、他の者の学びには不必要な雑音を撒き散らしていそうなのだが……教師は放置しているのか』
耳障りと言えば、今のカレルも相当である。
この儘放っておくと、授業が始まっても何だかんだ話し掛け続けてきそうだ。カレル本人に悪気はないかもしれないが、授業に身が入らないのは勘弁被る。
「……」
高価なものなので、あまり無駄使いしたくはないのだが。
机に並べた中で最も小さく薄い紙の束を開くと、そこにインクを付けたペンの先をのせて走らせた。
(勿論奴等も学生です。身の程を知らない庶民に対する金持ちの態度など、あんなものです)
ルドヴィカの行動の意味を直ぐに察したらしい。水晶玉は小指の先の爪程の大きさで机の上に落下してきたかと思うと、紙の上をころりころりと転がって、ルドヴィカのペンを握った拳の上に乗った。
横目で周囲の席の人間の様子を素早く見やったが、ルドヴィカの手の上に乗った小さい何かの存在など、ルドヴィカ自身を無視している彼らが気に留めた様子はない。
『貴族なのか? それにしては知性は勿論、品性すら感じなかったのだが』
(知りませんよ。庶民に合わせてくれているんじゃないですか。庶民にはあなた方のように知性なんてあるやつ中々いませんから)
『……悪かった。一般市民を貶める意図はなかった』
それくらいの事は、わかっているつもりだった。今のは八つ当たりである。
今しがた書き残した言葉を、ペンで線を引いて掻き消す。小さくすみません、と付け足した。
(もうじき授業が始まります。もう筆記での会話も難しいので、了承願います)
『いや、まだ聞きたい事が』
こちらの機嫌が急降下しているのをそろそろ察してくれないだろうか。否、貴族様からしたら庶民が自分の要望に答えるのは当たり前なのだから、こちらの機嫌の良し悪しなんぞ無頓着で当然なのか。
(学校の授業が全て終わった後なら、幾らでも伺いますから。授業で得る物を無駄にはしたくないんです)
書いてからまた八つ当たり気味の、語気の強い文章になったと後悔した。カレルは何も悪くないのに。
(すみません。お願いします)
『いや、しかし訊きたい事がまだあるのだが』
カレルは未だに何か言いたい事があるようだが、ルドヴィカはペンを置いて前を見る。教師が入ってきたところだった。
呪法は意外にも、縁のなさそうな一般市民の生活を支えている。魔術にもそれは言えるが、人間が技術とともに新たな呪法の使い道や新たな術を発見した事で、それまで人類を苦しめていた危機的状況を打破する奇跡に繋がるのだ。
「七十年程前、流行り病によってルーフスの東部で大勢の死者が出た。それを沈静化させるのに大きな効力を発揮したのは、水の浄化だった」
病の原因が飲み水にある事は、流行り病が広がり始めて直ぐに判明した。
神の下僕であり、全ての知を有しているとされる賢者がそう告げたからだ。直ちに水の浄化計画がアーテルを中心に掲げられたが、実行に移すのは簡単ではない。
つまらなさそうに話を続ける教師には一瞥もせず、呪法の歴史に纏わる本を開き、聴こえてくる言葉を紙に書き写していく。
「さて、この水の浄化に多大な貢献をした魔術と呪法がある。答えてみろ」
教師が質問すると同時に、静けさが教室を覆い尽くした。