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「庶民じゃないか! 今日も真面目にやって来たね、凄いねえ」
これだから他人に会いたくなかったのだ。避けようと思って避けられる訳ではないが、苦々しく思いながらルドヴィカは背後を振り返った。
元が神を崇める為の作品だから、なのだろう。広い廊下には伝承で語られる神の教えとともに始まりの賢者の遺した言葉や、それに付随する宗教画などが壁や天井に配置され、柱にも神の象徴たる漆黒の蛇が彫られている。
廊下の中央に、エスキル程ではないが背の高い若い男が立っていた。他にも何人か男子学生がいるが、皆一様にルドヴィカを見てにやにやと嫌な笑顔を浮かべていた。
『誰だ?』
カレルが素朴な問い掛けをしてくれるが、勿論答える訳にもいかずルドヴィカは男達とカレル、両方無視して教室へと向かった。が、男達はわざとらしく大きな笑い声をもらしながらこちらに近付いてくる。
「つれないなあ、僕は庶民であるきみの為に、今日もわざわざ待っていたんだよ?」
完全に馬鹿にしきった言葉に反射的に怒鳴りつけたくなるが、我慢だ。そんな事をすれば、ただでさえ学内では不遜な庶民として白い目を向けられているのに、どんな目にあわされるかわかったもんではない。
奴等は皆それなりの家柄の人間らしいが、詳しい事は知らない。
ルドヴィカに執拗に絡んでくる長身に少し浅黒い肌の色をした男だけが、どこか辺境の国からやって来た貴族というのだけは本人がわざとらしく自己紹介したので覚えたが、本音を言うならこんな奴の情報に記憶力を使いたくなどなかった。確かディック・エイドとか名乗っていたがそれも直ぐに忘れてしまいたいものである。
「おーい、僕は庶民ちゃんとお近付きになりたいだけなんだって。ねえ、そんなつれなくしないでよ」
そんな浅い口説き文句が通用するとでも思っているのか。馬鹿にするにも程がある。
噂でなんとなくルドヴィカの耳に入った程度の話だが、ここ何ヶ月か下町で貴族の人間に拐かされてひどい捨てられ方をした市井の娘の話を聞いた。
何でも、庶民でも差別しないと大声で語る背の高い外国の男だったらしい。この辺りでは金髪はそう多くないが存在するものの、肌の色が少し濃い貴族は珍しい。間違いなく、こいつのしわざだろう。吐き気のする男だ。
「ねえって……お金にも困ってるんでしょ? 僕と結婚したら、幾らでもお金が手に入るよ。あっ! そうか! きみはこの国の次期領主様と結婚するんだっけ!?」
今一番触れられたくない事情に、ずいと踏み入れられた事に無視していなければならないのに、振り返ってしまった。
我ながら物凄い形相をしている、と思うが相手はルドヴィカが不快さを露わにしたのが嬉しかったのか、ますますいやらしい笑みを深めて見せると、ゆっくりと言葉を切りながらそれを口にした。
「あっ……でも、正式な婚約を前に話が流れちゃったんだっけ? かわいそうだねえ」
この発言には流石に黙っていられなかった。
無意識に握り締めていた拳を、相手に叩き付けようとした……が、戦い方も知らない小娘の振り上げた拳など、あっさりと避けられた。たたらを踏むルドヴィカを、男達の笑い声が囲んだ。
『何だ、これは』
カレルの唖然とした、とでも言いたげな声も入ってこない。
ディックとかいう貴族を睨み付けたが、これもまた一笑に付された。
おどけた仕草で男は手を振った。
「怖い、本当に庶民は粗暴で怖いねえ……僕らの優しさも、庶民には通じないのかあ、同じ人間なのに」
「ふざけんなよっ!!」
全ての気迫を絞り出すような声音で怒鳴りつけるも、連中には僅かの恐怖も与えられていないのは明らかだ。
「何だ、あの女」
「あれじゃないですか。例の、何が目的かもわからずファレスプラハに在籍している庶民」
「ああ……あの粗野で礼儀知らずの」
「ディック伯爵子息に手をあげようとしていた」
わかっている。この世界は自分の味方などどこにもいない。
「何で、それを知ってる」
「知ってるってもう随分と噂になってるよ……当然じゃないか? きみとエスキル様が結婚、なんてどれだけの淑女が涙を流したかわからないんだ。この悪夢が消滅したなんておめでたいニュース、皆が喜んで広めたよ」
歯を食いしばる。こいつを殴って蹴倒して滅茶苦茶に踏みつけたいが、それは出来ない。自分には乱暴を行う腕力もなければ、魔術も呪法も使えない。権力もない。
出来るのは怒りに負けて涙を流すのを堪える事だけだった。踵を返したルドヴィカの背後から、どっと笑い声が聞こえた。憎くて悔しくて仕方がなかった。