庶民の意地 1
大学はルドヴィカの家から歩くと相当な時間がかかる。それを踏まえて自宅を出るのだが、今日は何時もより遅くなった。心持ち早足で街路を抜けていく。もう少しすればルドヴィカのような学生に警らの兵士、パン屋のような朝早くから動かざるを得ない人間以外も動き始めるだろう。
幸いなのは大学そのものはリイサ市内にある事だろうか。これが遠い町だったりすると、往復だけで下手したら日が暮れる。
不意にカレルが話しかけてきた。相変わらずルドヴィカの頭の上に小さくなって、隠れている。
『ファレスプラハ大学に行くのだろう? 僕の記憶違いではなければ、馬車を使うべきだ距離ではないかと思うが』
それでもまだ人気はまばらで、小声なら目立たなさそうだ。冷えた空気に吐息を馴染ませるように、ルドヴィカは頭の上のカレルに答える。
「馬車って、我々には凄く高価なんですよ。乗り合い馬車にしたって、毎日使ってたら馬鹿にならない。時間はかかりますが、歩くのを勘弁して貰えますか?」
『僕は動く必要がないからな。実際に歩くきみが構わないと言うのなら……』
「良かった」
戸惑うようなカレルの返事は、怒る程の事ではない。貴族や商人には馬車は日常的な移動手段だろうが、こちらにはそんな余裕はない。そんな生活における環境の齟齬を把握しておけ、などと言う方が傲慢だ。
「そういえば、カレル様もいずれはファレスプラハに通われるんですか?」
カレルは未だ十五歳だから大学生に通うには早すぎる。
貴族の子女が通うような中等学校もあるとは聞くが、高貴な家柄の方の殆どは専門の家庭教師が何人も付きっきりで勉学を学ぶのだという。
そりゃそうだ。貴族の子女なんて、庶民に比べたらほんの僅か。僅かな選ばれたお子様方の為にあちらこちらに学校を建てて、国や領主に利益が得られるか。ルドヴィカにだって無謀な考えだとわかる。
ファレスプラハ含め大学は、そこらの家庭教師では敵わない知識や分野を学ぶ為にわざわざ遠い僻地からも高い学費を収め、やって来る人間がいるから運営していけるのだ。
そのような事情もあり、てっきりカレルも今は家庭教師が付いていて、今後は大学で更に深く呪法を学ぶのだと思っていた。確かエスキルもそうだと言っていた筈だ。
カレルの返事は意外なものだった。
『いや、僕は大学に行くつもりはない』
「そうなんですか?」
未だ十五歳だというのに、呪法の才能に溢れていると彼の名がその世界に広まっているとするなら、更に知恵を広めるべく大学に来るのが自然だと思ったのだが。
「あ、それとも神殿に行かれるんですか? あちらだとより深い学びが得られると聞きました」
『それもないだろう』
「……はあ」
返事が心細くなってきた。なんとなく、なんとなくだがあんまり触れてはならない話題に踏み込んでしまった気がする。
「すみません、不躾な質問でしたか」
『そうじゃない。ただ……』
「ただ?」
やはり言いたくないのか歯切れが悪く感じたが、ルドヴィカは先を促した。ただ、と呟いた言葉には確かに先があるんじゃないか。そう思えた。
『笑わないで欲しい……人間が、苦手なんだ。人が大勢いる場所には、いたくないんだ』
彼の返事を聞いて、納得した事があった。
エスキルと対照的にカレルは下町は勿論貴族の会談や会食、節目のまつりごとにも姿を現す事は一切ない。身体が弱いからという話の筈だったが、ひょっとしたら他に何かもっと重要で、尚且つ公にし難い理由があるのかもしれない。
彼が、カレルが他者との関わりを避けるに至る過程はルドヴィカには知る由はない。ひょっとしたらとんでもなくくだらない、幼稚な理由かもしれない。だとしてもそれを、他者を疎ましく思うカレルを、ルドヴィカは笑う気にはなれなかった。
「笑うわけありません。わたしだって、似たようなもんです」
彼が他者を遠ざける理由に、深く辛い秘密が隠されているとしたら自分如きに同情されても不快なだけかもしれない。
まあいい。彼の気持ちなど関係ない。
「他人と関わるのって消耗しますよね。まあ、わたし自身が他人を疲弊させるような人間だからそう思うのかもしれませんが」
血の繋がった祖母は理不尽に孫である自分に憎悪を向けるし、両親もそんな祖母を公爵家との婚姻という大事の場にならなければ本気で諌める事はなかった。一部髪が短い、という理由だけで揶揄われた事だって一度や二度じゃない。
貴族連中は庶民というだけで同じ学生のルドヴィカを蔑むし、そいつらに対して上手く立ち回る事も出来ない、卑屈さが浮き彫りになるばかりの自分自身にも嫌気が差していた。
『きみは』
「え?」
これまでは人通りの少ない路地を歩いてきたが、もう少し歩けば大通りに出る。馬車や荷車も多く行き、人の往来も一気に増えてくるだろう。
そろそろ黙った方が良いな、と考えていたルドヴィカにカレルが尋ねてきた。
『きみはよく大学に通えるな』
単純で素直な質問に感じて、ルドヴィカは少し笑った。
これまで顔も知らない貴族様、という感触しかなかったが彼はルドヴィカより年下の少年なのだ。
「自分の為に必要だから、やってるだけです。褒められるような事じゃない」
『必要だから……』
「そろそろ人が増えます。ここからは会話は避けましょう」
活気のある声、騒々しい街並みが見えてくる。カレルとの会話を終わらせ、ルドヴィカは足早に石畳を踏み締めた。
「ルドヴィカはどうして」
エスキルにも以前似たような事を聞かれた気がしたが、それももう忘れるべきだ。