16
エスキルが自分を特別扱いしてくれている、なんて思う程自惚れてはいない。
元々エスキルは下町の人間にも気さくに話しかけるようなくだけた人柄だと知れ渡っていたし、ルドヴィカ自身も他人、それも貴族など信用に足る人間などとは思ってはいけないという先入観があったし、人懐こく見栄えも良いからと、安直に信頼するものではないという思いもあった。
「ルドヴィカ」
そんな折のことだ。図書室から出て来たところに、エスキルとかちあった。
「エスキル様。図書室にご用でいらっしゃいますか?」
今閉めたばかりの扉に手をかけようとしたルドヴィカにを制して、エスキルは言った。
「用事が済んだから、もう帰るだけなんだ。偶々ルドヴィカが見えたから、つい」
「それは、ありがとうございます」
その辺りの純情な淑女ならば、美男子に笑いかけられるとともにそんな言葉を投げかけられると、夢心地となるかもしれないと思った。
「今日はお連れ様いらっしゃらないんですか?」
彼には公爵家長男という立場もあってか、エスキルは常に護衛を従えている。寡黙な黒髪の、目付きの鋭い男で見るからに警戒心の強そうな男だった。そいつの姿が今はない。
「ああ、ちょっと彼も連れて行けないところに用事があって」
どこかばつが悪そうな様子に、詳しい話は聞かない方が良いと判断した。もとより、他者の話を興味深く掘り下げるのが好きな質でもない。
「お忙しい中足を止めてすみません」
「いや、俺が声をかけたんだから気にしないでくれよ」
全く人柄の良い。皮肉ではなく、そう思った。
ルドヴィカが学内で孤立している事くらい、エスキルも知っているだろう。彼には学友も多くいる。そいつらがルドヴィカについて苦言を呈していないも思えないし、無礼な庶民などに心を砕く必要ないと言われているだろうに。
「エスキル様、前から思っていたんですが、気を遣っていただかなくて大丈夫です」
わざわざルドヴィカの立場から彼の、恐らく善意に水を差すような事を言う必要はないかもしれないが、彼の内心に少しでも傲慢な思いがあったとしたら、それを潰してやりたい気持ちがあったのだ。
「え……何のこと」
困惑したような反応のエスキルに前々から思っていた事を、ルドヴィカにしては丁寧に控えめに言葉にしていく。
「わたしが大学内で悪目立ちしているのも、その理由もわかっているつもりです。エスキル様は公爵様になるのだから、と領民だからってわたしに心を砕いてくださるのかもしれませんが、その優しさはわたしごときに使っていただくようなものではないと思います」
「はあ?」
不貞腐れたような声に、驚いてエスキルの顔を見ると、美麗な顔を子どものようにしかめている。
「領民だから話しかけてるんじゃないし。いや、ルドヴィカが嫌なら残念だけど止める」
「……ですから、わたしは煙たがられてるので、エスキル様がわたしと話したりしてると、他の方々も気分を害されると思いますよ」
「何で」
どこか思い込みがあったのだと思う。
遠巻きにされて、軽蔑の目を向けられている庶民の間娘にも親切な公子様。本当に親切でお優しい事だ。本心から、なら。
「他の人に煙たがられてるからって、ルドヴィカは俺を煙たがるのか」
「……は?」
親切でも偽善でも、当然のように哀れみからでもなく。
「何だよ、公爵家の人間だからってそんな風に言わなくても良いじゃん」
まるで自分が差別されたかの物言い、それもとてつもなく子どもっぽい態度に面食らった。と、同時に自分だけでなくエスキルも大学内では浮いた存在である事に気付く。
神殿との繋がりもあるルーフス王家の王位継承権のある、ヴェルン公爵家の公子であるところのエスキルは、単なる一領主の息子以上に注視されている存在だ。
その上、彼の華やかな外見は非常に目立つ。彼のまわりには人が集まるが、利用しようとする人間や、上っ面の美しさだけに惹かれた人間も多数いる筈だろう。
自分以上に他人に警戒心が強くなって当然だろうに、どうしてこんなにこの人は朗らかに接してくるのか。今更そんな疑問が生まれた。
「……じゃあ、エスキル様はわたしに親切にしてくださるのに理由はあるんですか?」
理由なんてない。だって彼は、誰にでも優しいから。
それがルドヴィカの視点からの思い込みで、彼なりの考えや判断があるのだとしたら。
「勤勉なところ、見習わなきゃならないなって思って。ルドヴィカの様子を見ていたら、俺も少しは頑張れる気がしたから」
「へ?」
想像もしていない返事だった。エスキルは、ルドヴィカが抱えていた何冊かの本を指差した。
「この間叔父上に貴品室の本を読ませて欲しいって言ったら、怒られて」
貴品室とはもう一つの図書室の名称だ。部屋そのものは大した大きさではないが、神殿にも収められている貴重な文献や、不用意に誰の目にも触れさせてはならない本が収納されているという。
それがどんなものなのかは具体的には知らないが、エスキルのような立場の者すら閲覧を却下されるような本があるのか。
「現在知られている魔術を全て記載されている本なんだけど、そんなの読む前に基本の四大元素の魔術の本を読めって」
「読んだんですか?基本の本は」
「読んだ。読んだけど、ちゃんと理解してないだろって言われたさ……確かにそうなんだよ。俺には関係ない内容だからって読み流してた」
ルドヴィカの持っていたのは、まさに四大元素に纏わる魔術の本だ。
「ルドヴィカって呪法が専門なんだろ? なのに図書室にある本全部覚える勢いで読んでるの凄いよ、尊敬する」
聞いてみると、彼がルドヴィカに親しく接してくるのは単純な理由による称賛だった。
図書室の本を毎日借りては読んでを繰り返しているのは、勉強熱心だからというよりは今の自分には法術の知識が足りないからだ。授業を受けていても、痛感するのは基本の知識のなさで、他の学生のように何かしらの才能がある、と学ぶ分野が決まっていないのが痛手となった結果といえた。
誰もルドヴィカに助けの手はくれない。なら、自力で学び授業に追い付くしかない。自分の為だけに学ぶ自分の姿を誰かが見ているなんて、思ってもいなかった。
「それは……ありがとう、ございます」
「お礼を言うのは俺の方だって。だから、嫌がらないでいてくれたら嬉しい」
エスキルの言葉が嬉しかった。頑張っていると、努力を認められる事がこんなに心を熱くするとは思ってなかった。
それが、エルドヴィカの口を軽くさせた。他人を軽々しく信用してはいけない、その思いは間違っていなかったのだ。それを身に沁みて感じている。