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最悪だ最低だどうしようもない、全て終わりだ終わった最後だもう知らない。もう知らない!意味も理屈もない、感情が赴く言葉が頭の中を駆け巡っている。
あんなわかりやすく目を逸らして、あまつさえいない者として扱われた。想像を遥かに超えて、その事実はルドヴィカには堪えた。
道を走りながら、パンの入った袋が中身ごと潰れそうな程の力で握り締める。硬いパンだが、今の自分の力なら握り潰せそうな気がした。
走って走って、自宅へと辿り着く。乱暴にドアを開くと、起きてきたらしきララと目が合った。
「あ! ルドヴィカっ……!」
「うるさい知らない」
ぴしゃりと言い放つと、ララの表情が引きつる。明らかにこちらの様子が尋常じゃないと察したのだろう。それ以上何も言って来なかった。
何時もならルドヴィカが何を言い返しても、ひどい女だとか難癖付けて自分を被害者に持っていこうとする癖に、こちらが怒り心頭だと察すると大人しくなるのかと思うと、ララの態度も腹が立った。
「何だ、まだ昨日の事根に持ってるのか?」
「はい、パン」
「えっ……お?」
こちらも起きてきていたらしい。工房の入口からのっそりと現れた父親にパンの入った袋を押し付けると、ルドヴィカはばたばたと足音を立てながら二階に上がった。腹が立って仕方ない。それは家族には無関係だとわかっていても、隠せる程の心の余裕がない。
どうしてあちらが傷付いたかのような反応するのか。一方的に婚姻話を持ちかけておいて、勝手に話をすり替えたのはあちらの側で、ルドヴィカは被害者の筈だ。
確かに自分も含めて、家族全体が公爵家の一員になれると思い上がったかもしれない。だけど、それだってあちらが話を持ちかけなかったら起こらなかった事態の筈なのだ。ルドヴィカだけが悪い、と断じられるのは間違いだと断言出来る。
「ただいま、戻りました……っ」
それでも、カレルを自分の八つ当たりの対象にする訳にはいかないという最低限の理性は働いた。それは彼が公爵家の人間だから、というよりも出会って間もない人間に対する取り繕いたい思い故かもしれない。
笑顔をつくるのは流石に無理だった。なんなら声は明らかに怒気を含んでいる。それでも、必死に心を落ち着かせるように言い聞かせながら、ルドヴィカは部屋に入った瞬間その場にしゃがんだ。
「大学、行きます。行きましょう」
胸の内はぐちゃぐちゃだ。
大学に行くと、またエスキルに会わなくてはならない。大学は敷地が広く、年の差もあって同じ教室で学ぶ事はない。しかしルドヴィカもエスキルも、各々別の意味で目立つ生徒である。どうしても大勢の学生の目に晒される機会が多く、互いに相手の存在が目に付きやすいのは確かだ。
ルドヴィカの言葉に答えるように、ずっとそこにいたのか水晶玉がころころと机の陰から出て来て、身を屈めたルドヴィカの頭上に飛び乗った。
『どうかしたのか?』
「どうか……とはっ?」
走って帰って来た為に、息がきれている。加えて頗る不機嫌なルドヴィカの返事は、聞き取りにくい上におかしな語尾に跳ね上がった。
『様子がおかしいぞ。また、きみの祖母だという老女にでも絡まれたか』
「いいえっ、あいつは今は関係ないです」
寧ろ関係あるのはあなたの兄です、と喉の奥ぎりぎりまで出てきそうになる。あなたの兄との結婚話がご破算になった上に、あなたとの結婚話になったのがショックでしたなどとはとても言えない。
『あいつは関係ない、と言うのならば他に要因があるという事だな』
「あーしまった!」
自白していた事に気が付いて、その辺のものを床に叩き付けたくなってくる。どうしてこうも自分は浅慮なのだ。いい加減にしてくれ、と自分にも心底腹が立ってきた。
というか、機嫌が悪かったのにこの水晶玉は何時気持ちを切り替えたのか。ごく普通に話しかけてくるではないか。
適当に話を終わらせようと、適当な事を口にする。
「追及するだけ無駄な話ですよ。それに、庶民の事情なんかどうでもいいじゃないですか」
『その言い分は気に入らない』
しかし水晶玉は引かない。気に食わないとは何がだ、と抗議するより先に水晶玉は言い募る。
『身分の差を持ち出されるなら、僕はきみと僕との間の協力関係を持ち出さざるを得ない。僕がきみに助力を願い出ている状況だから、きみに有利な関係かもしれない。だが、円滑な問題解決後の交渉を進める為にも、そのような一方的に会話を断絶するような物言いは避けるべきではないか』
条件反射で面倒くさいやつだな、と口にしなかった事を褒めて欲しい。そのくらいに面倒くさいなこいつ、とルドヴィカは思った。
大体先刻カレルの方から一方的に会話を切って不機嫌にならなかったか、と思ったものの、思い返すと先程の会話はカレルが不機嫌そうな言葉を発しはしたが、受け答えそのものは成立していた。
「ええっと、カレル様の仰る事はご尤もな気はします。しますが……えーと、わたしの私情と言うかですよね、えー……」
なんとか誤魔化せないか、とまごついていると唐突に部屋のドアがノックされた。
驚いて振り向くと、母リアノルが立っている。そういえば、先程は母の姿を見なかった気がする。厨房にでもいたのだろうか。
「あんためちゃくちゃ独り言言ってるけど、なんかあった?」
「あっ」
エスキルに目を逸らされた事がショックで、声の大きさを調節する余裕がなかった。どうやら階下にカレルと話しているルドヴィカの声が伝わっていたようだ。
「いやなんでもないよ」
「お父さんが、ルシカが不機嫌そうだって言うし、二階からはあんたが独り言にしてはでかい声出すしで、こんなん気にならない筈ないでしょ」
「大学の準備で焦ってただけだって。もう行くから」
必死で誤魔化していると、母が目敏くルドヴィカの頭上に乗った物体に気付いた。
「あんた、頭に何のせてんの?」
「はっ!?」
『あ』
同時に不味いと思ったのは間違いない。ルドヴィカが頭上の水晶玉の事だと気付いたのと同時に、水晶玉の気の抜けた声が頭に流れ込んでくる。
『すまない。誤魔化してくれ』
何を、と問う間もなく母親が困惑した様子を見せた。
「え? ……あれ? 気のせいかな」
母親がルドヴィカの頭上に視線を固定した儘首を傾げている。
「わたしの頭がどうかした?」
出来うる限り平静を装って、ついでにしゃがんだ儘だらしなく床に広がったスカートの裾を無意味に整えたりしながら問うと、母親は訝しげな視線はその儘、諦めたように首を振った。
「……気のせいみたい。ルシカの頭にボールかなんか? 丸い物が乗っていたように見えたんだけど」
「そんな事、ある訳ないでしょ。寝ぼけてるんじゃない?」
カレルが母親の目にはわからない程小さくなったのだろう、と判断したのはどうやら間違っていなかったようだ。
「あれ……? おかしいわね」
首を捻りながら母親が部屋を出て行くのと同時、はあと大きな溜息を吐いたルドヴィカにカレルが言った。
『すまない。油断した』
「いえ、わたしこそ……とにかく、学校行きましょう」
『ああ、その方が良いだろう』
結果的にカレルの追及から逃れる事が出来たのは、ルドヴィカにとっては僥倖であった。