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「カレル様、相談があるんですが」
昨夜自分にかけられた呪いが解けないかもしれない、とショックを受けて麻袋に潜り込んで出て来なかったカレルが、今どうしてすんなりルドヴィカの頭の上に鎮座して会話に答えてくれているのか。とても気になったが今はそれどころではない。
学校に向かう前にもしなくてはならない朝自宅は沢山ある。パン屋の看板が出る前に焼きたてのパンを購入したいし、水も用意せねばならない。これまで綺麗に忘れていたが、顔も洗っていないではないかなんて事だ。
『相談?』
「カレル様はご存知ないと思いますが、わたしファレスプラハ大学に通ってるんです。これから向かわなくてはいけないんですが、カレル様はどうしますか?」
学校なんてさぼって自分の呪いを解く為の尽力をしろ、などと言われる可能性を一瞬考えたがルドヴィカは直ぐに考え直した。
出会って一晩しか経過していないし相手の顔も知らないが、カレルはそういった事を庶民相手にだって言わない。そんな気がする。
そしてルドヴィカの予想は当たっていた。
『なんだ、そんな事か』
カレルの反応はあっさりとしたものだ。そこに庶民如きに行動を制限される事への苛立ちや、自尊心が傷付いたかのような感情はなさそうだ。
『僕も同行しよう。昨日のように縮んでおけば他者にも見られる心配もないし、問題ないだろう』
「いいんですか?わたしの事情に付き合わせてしまっても」
『何を言うのかと思えば』
人間の肉体があったとしたら、やれやれとばかりに首を振ったり腕をオーバーに広げたりしそうな雰囲気が滲む声でカレルは言う。
『逆だろう。僕がきみに依頼をして、きみの時間を使わせて貰っているんだ。きみの予定に従うのは当然だ』
「それは……お気遣い、ありがとうございます」
礼を口にしてから、エスキルもこんな風に自分へも気遣いをしてくれたのを思い出す。
今もエスキルへの感情は整理出来ているとは言い難い、自分の事を弄んだのかという憤りもあれば、ルドヴィカの知るエスキルは何時も優しくて真面目で、尊敬出来る人物だった。
貴族や金持ち連中への偏見は、大学へ通うにつれて強くなるばかりの日々だったけれど、エスキルの存在があった事で貴族はそんな奴らばかりじゃないと思えたのだ。
ぽろりとこぼれたものは、だからルドヴィカの本心には違いなかった。
「公爵家の方はみんな庶民にも分け隔てなく接してくれるんですか? エスキル様も、カレル様と同じ立場ならそう言ってくれた気がします」
『別に、関係ない』
途端、変わった。明らかにカレルの声音がそれまでと違う。直接音声として伝わる声ではないが、彼の言葉には冷え冷えとした真冬のような酷く近寄り難い感覚がありありと感じられる。彼の怒りか何か、避けるべきものにルドヴィカが触れてしまったのは明らかだった。
「すみません。余計な事を言いました」
『かしこまらなくていい』
明らかな怒気が伝わる雰囲気の儘そう言われても、怒ってるのがわかって尚も好き勝手な事を話す度胸はルドヴィカにはなかった。
ルドヴィカ自身が失言したと思った発言は気にした様子はないのに、エスキルの名前に過敏な反応を起こした事は気になったが、それこそ今自分が問いただせるような話題ではない。
「支度などがあるので、一度部屋を出ます。カレル様はちょっとここで待っていて貰っても良いですか?家を出る前に戻って来ますから」
『わかった』
水晶玉はルドヴィカの頭から落下すると、その儘ころころと転がって机の脚の陰に姿を隠した。
「ありがとうございます。なるべく早く戻ります」
出来る限り平静を装いながら、ぺこりと一礼するとルドヴィカは自室を後にした。
他人の事情に首を突っ込むのははしたない事である。それに、カレルとは所詮貴族と庶民。お友達になれる訳もない。彼の細やかな事情を知ったところで、ルドヴィカには関係ないのだ。
一階に降りると案の定誰も起きていない。居間にあるランタンとストーブに火を灯し、ルドヴィカは水を用意する事にする。
魔術とは便利なものだ。清潔な飲水は、毎日水を専門とする魔術師によって供給される。それぞれの家庭をまわって水を供給する、なんて重労働は流石にしてくれないが、町にある水の供給地に毎日水を注いでくれるのだ。
井戸などの雨水や雪解け水を貯める場所も勿論ある。しかし、魔術師による水の供給が法令で定められてからは、誰もが簡単に飲めるきれいな水を求めるようになった。
「ああ、もうおっも」
水桶にたっぷり注いだ水を手に、自宅へ向かう道をルドヴィカは急ぐ。次はパンを買いに行かねばならない。
ヴェルンは春にさしかかる季節だった。ルーフス王国の南に広大な領地を構え、南に行く程に作物がよく育つ。飢餓に見舞われたなんて話は、ルドヴィカが知る限りここ何十年もないそうだ。
それについて魔術師の力が大きいのは否定できないだろう。