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ちょこんとルドヴィカの頭上に収まったカレルの姿は、手のひら乗る程度の大きさになっていた。姿見の前にいたルドヴィカは、ブラウスの上に羽織った制服の外套の大きな釦を留めていく。
そんなルドヴィカに、ぽわんと軽い調子で頭上の水晶玉が一度跳ねた。
『ルドヴィカ。聞きたい事があるのだけど』
躊躇いがちな響きに声に感じる事を、不思議に思う。彼の声は音声としては伝わって来ない。なのに、どうして感情のようなものを受け取れるのだろうか。
「はい」
『きみの、髪の毛は』
彼がルドヴィカの髪について気にするのは当然の事だと言える。なにせ昨日の今日だ。ルドヴィカは、短くなった髪をつまみながらこともなげに答える。
「ああ、そうです。また呪われました」
昨日と全く同じ。ルドヴィカの髪の毛の一部は、呪いによって短くなっている。起きて真っ先に姿見の前に立ち、髪の長さを確認したのもララの行動が想像付いたからであった。
「昨日、一度階下に降りた時に呪いを解いたのをララに見られてましてね。どうやらそれがあいつを不快にさせたみたいで、すぐさま呪いをかけてきましたよ」
咄嗟に反応が出来なかったのか。水晶玉からは何の言葉も返ってこない。
昨夜カレル自身が話してい事だが、呪法の使い手には余程驚くべき事態なのだ。
ルドヴィカが呪いを解いたのは昨日の事で、呪いの主であるララがそれを見たのは夜に近しい時間帯だ。たった一晩で、再び同じ呪いをかけるなんてそうそう出来るものではない。
『本当に……そんな事が出来るんだな』
ララの呪文を書き記す必要なしに呪いをかける事の出来る能力に、カレルは驚きを隠せないようだ。といっても、顔が見えない為なんとなく想像するしかないが。
昨夜のララの態度や言葉を思うと、呪いを即時に仕掛けてくるだろうとは想像していた。自己憐憫とルドヴィカへの理不尽な嫉妬に塗れたあの女が、実にやりそうな事だ。昨夜初めてルドヴィカにやり込められた形になったのも、彼女の怒りに拍車をかけたのかもしれない。
『どんな怨念があるのか知らないが、法術の才能ある者が狂気に走ると、恐ろしいものを感じるな』
「カレル様は?」
口にしてから、ああまた言わなくても良い事を考えなしに口にした、ルドヴィカは後悔した。
『僕は……とは?』
聞き流してくれぬかとは思ったが、そうはこちらの思うようにはいかなかった。カレルの問いかけに、彼の気分を害するだろうと内心恐れ慄きながら、ルドヴィカは改めて口にした。
「いえ……ちょっと、失礼な事を思い付いてしまいました」
『気にしないでくれ。僕は今はただの水晶玉だ』
「いや、そういう訳には……あの。カレル様も呪法の才がおありだそうじゃないですか。いかなる呪いを使っても、不幸に陥れたい輩とかいるのかなって」
特権階級のしがらみや企みなんかはルドヴィカには想像もつかないが、碌でもないんだろうなという事だけは確信がある。庶民の身にも聞こえてくる貴族同士のいがみ合いや、浪費貴族の借金事情なんかを小耳に入れたりすると、その生々しさは庶民とは次元が違うように思えた。
小金持ちの貴族や商人でもそんなものなのだから、公爵家ともなるとその一見優雅にも見える暮らしの下ではどんな張り詰めた生活を送っているのか。
「……貴族の方って、人付合い大変そうだなって思ったんです。そしたら、厄介な相手を呪ったりもしたくなるんだろうなと」
人付合いなんて、我々がご近所と何かと便宜を図り、いざという時の為に顔を売るのとはわけが違うだろう。
だが、それを面と向かって問うのはあまりにも不躾であったし、質問の内容は貴族であれば他者を陥れようとして当然だ、と決め付けているようなものだ。自分なら、きっと不愉快さを隠せなくなるような質問をなんでしてしまうのか。
自分の無作法さ、気配りのなさにほとほと嫌気がさして盛大に溜息を吐いた。返事なんて返ってくるとはおもってもみなかった。
『いない』
「え?」
『僕個人の感情で、呪いたいと思う人間はいない』
意外な言葉に、驚いてルドヴィカは頭上を見上げた。勿論頭に乗っている水晶玉が見える筈もない。水晶玉は自分の乗っている土台が動いた事も気に留めず、話し続ける。
『僕の持つ能力はヴェルン公爵家の為に、ひいてはルーフスの為に使うべき力だ』
「……」
『下手な力の使い方をすれば紛争に繋がる力だ。だからこそ、聖人君子でもない人間が不用意に他者を不幸にしたいなどと、考えるべきではない』
水晶玉にされた呪いを解く代わりに、と他者を呪い殺すという条件を提示してきた者の言葉とは思えず、ルドヴィカは黙り込んだ。
「周りに嫌いな人とか、憎んだ人とかいないんですか?」
『いる』
「嫌な人間がいるのに、呪いたくならないんですか」
殺す、とまではいかなくてもほんの少し、少しだけ。些細な不幸で良い。憎き他者をやり込めたくなるのは、ララに限った心情ではない。彼にはそのような思いには駆られないのか。
『言っただろう。僕一人の感情で誰かの運命を捻れさせるような真似、するべきではない』
「本当ですか?」
『きみに嘘を吐いても仕方がないだろう』
全くそのとおりだ。仮にカレルの心情が違うところにあったとして、ルドヴィカ如きがカレル様はこんな人間です! と大声で騒ぎ立てて誰が信じるだろう。
「嫌なやつなんですかね、わたし。カレル様のようには思えないです」
ルドヴィカに他者を呪う力があったとして、果たして自分は私利私欲の為に使うのを制御出来るだろうか。
『違う。別に僕は正しくもないし、清廉潔白なわけでもない。怖いだけだ』
「怖い、ですか」
『うん』
解呪して貰う条件として、他者を殺す呪いをかけるのを躊躇わなずに提示してくるような人物が、一体何を恐れるというのか。
『自分の感情で誰かを呪う。そして、他者の人生を歪める。それが自分の一存で出来てしまうのはとても恐ろしい』
自分にはそのような力がないからだろうか。彼の言葉は、ルドヴィカにはいまいち腑に落ちないものだ。