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まだ暗い時間帯だ。大学含め、勉学機関は始まるのがとてつもなく早い。どのくらい早いというと、パン屋が看板を出すよりも早く起きなければならない程だ。
幸いルドヴィカは寝起きは良い方で、早朝に起床し直ちに勉学に向き合う生活にも支障をきたした事はない。
今日も目覚めは家にいる誰よりも早かった。朝の空気の冷たさはそれなりに堪えるが、ルドヴィカは堪えてベッドから起き上がる。今時分は直ぐに暖かくなるから、少しばかり耐えれば大丈夫だ。
起きた瞬間からルドヴィカにはある確信があった。
触れてしまえば直ぐにわかる事であるが、敢えてそれはせずに床に足を降ろすと、ランタンに炎を灯しそれを手に歩みを進めた。日が登るまでは、後二時間はあるだろう。光源は必須だ。
ふと、机の上にある麻袋に目をやった。底の方が少しだけ膨らんでいるのを見て、昨日の出来事……公爵家との顔合わせの後にあった、自分を公爵家次男坊だと名乗る得体のしれない水晶玉との出会いは夢ではなかったのだと、ルドヴィカはしみじみと実感した。
「おはようございます」
自分が起床したのに、同じ部屋にいる相手を無視するのはよろしくない。最低限の礼儀は必要であろうと、小声で麻袋に話しかけつつ一礼する。
いや、そもそも水晶玉の姿で睡眠は必要としているのだろうか。考えれば考える程に疑問が尽きない。
声をかけたものの、貴族の生活様式などはルドヴィカにはさっぱり想像もつかないので、この時間は呑気に高いびきかもしれないが。まあ、聞こえていないならそれはそれで良い。今のうちに着替えてしまおう。
そう思いつつ、姿見の前に立つ。そしてやっぱりな、と胸中で嘆息した。
「やっぱりな」
呟いて姿見から離れる。予想どおりだったから、特別な思いも特にない。
さっさと着替えよう。制服をしまった棚から取り出して、ルドヴィカは着替え始めた。
ルドヴィカの通うファレスプラハ大学は法術を学ぶ専門機関としての規模は、法術の総本山である唯一神を祀る宗教国家アーテルに存在する法術部門に次ぐ。
そのか、制服にも特別に誂えたものを仕立てるように指定される。知恵を示すに青に金糸で刺繍がされた制服は、ヴェルン領、いやルーフスに暮らす者にとって大きなステータスである。
とはいえ、そのステータスというのも殆どの貴族様にとっては、将来的に神殿という世界的にも発言権の大きな組織への足がかりでしかない。もしくは卒業まで何年もかかり、尚且つそれまで莫大な費用のかかる大学へ子を通わせる事の出来る、自らの家の名を広める為か。どちらにしろ、碌なものではない。
肌着の上に身に着けるのは、おおよそ本来の自分の金銭感覚では手の出せない、絹で出来たブラウスである。学業を望む者に不必要な白いリボンが縫い付けられており、これがなければ、若しくは綿の素材であればもっと安かっただろうにと思うと苦々しく思わずにはいられない。これはルドヴィカの勝手な想像だが、ファレスプラハ大学へは王家がかなり出資をしていると聞く。貴族様の通う学校として、華やかさを出そうとした結果ではなかろうか。
ルドヴィカがこの制服か嫌いな理由は、絹は手入れが面倒で仕方ないのもある。一度大学で乱暴な貴族と口論になった時に、うっかり柱にぶつけられてほつれさせ、親を嘆かせた。ドレスを汚した理由に両親が疑いもせず納得したのは、この件が前科として刻まれているからに違いない。
スカートは外套と同じ青を貴重としたもので、裾の方に金糸で刺繍が入っている。スカートそのものは長さがある。動きにくいものである。
万が一水晶玉が眠る事の出来る状態で、今も夢の中だというなら起こすのも忍びない。なるべく音を立てないようにと、ルドヴィカはこそこそと制服へと袖を通しながら麻袋の様子を窺っていた。
「いやでも待てよ?」
ふとした疑問に、思わず声が出た。
当然ながらこの後自分は大学へと向かわねばならない。その間、水晶玉の姿をしているとはいえども公爵家の方をこのみすぼらしい自宅に置いておくのか?
どうしよう。学校行くんで家でお留守番お願いしますね、なんて言えたもんではない。
「えー……どうしよう。わたし大学行かなきゃいけないのに。どうしよう」
そんな独り言に答えるように、麻袋の中の膨らみが動いた。ぎょっとして目を見張ると、それは袋の中を出口の方へところころと転がって、やがて出て来ると真っ直ぐにルドヴィカの頭を目掛けて、跳ねた。
「うわっ」
思わず声をあげて頭を抑えたが、直ぐに思い出す。この水晶玉、水晶玉なのに落下の衝撃が全然なかった。
案の定、水晶玉は頭を抑えたルドヴィカの手の上にちょこんと乗ってゆらゆらと揺れた。
『おはよう』
「……おはようございます」
なんて事のない挨拶だ。だけど、昨夜の気まずさを思い出してルドヴィカはほっとした。