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物騒極まりない「礼」の提案に対して、ルドヴィカは少しばかり返事に時間を要した。その理由は殺人を願うかどうかなどという、一般庶民には現実的でない話を真剣に検討していたからではない。
胸の内に腹黒いものを抱え、水晶玉を利用しようと考えている自分に対し、彼は自身に出来る対価を検討し、提案している。少なくともこの水晶玉はルドヴィカに対して真剣に、真摯に相対しようとしているのを感じてしまった。
そのような水晶玉に、自分は下心のみで手助けする姿勢で良いのかと、気持ちが揺らいでしまう。
なんとか言葉を絞り出す。
「人は殺さなくて結構です。わたしの要望は……改めて、呪いが解けた時にお話します」
『それは困る。きみの要望が僕には実現不可能な場合、助けて貰っておいて満足な礼を出来ない無礼を働く事になる。そんな真似は出来ない。今きみの要求があるなら、確認しておきたい』
面倒な事に、水晶玉は自分の意見を曲げるつもりはないようだ。
「しかしどうするんです。わたしの要求があなたにとって手に余るものだったら、あなたは解呪を諦めるんですか?水晶玉の儘でいる事になるのに」
手の中の水晶玉は少し沈黙した後に仕方がないだろう、と一人言のように小さな声音をルドヴィカに届けた。
『僕が公爵家の者として使用出来る権限など、殆どない。財宝や地位をきみが求めていた時、何にも差し出せるものはないんだ。そうなったらきみは無駄骨だぞ』
真面目で、そして頑固な水晶玉である。ルドヴィカは呆れた。
まず自分が元の姿を手に入れる事が第一なのだから、口先では何でもすると大口を叩けばよかろうに。
「公爵家の方々に進言するとかは、駄目なんですか?高貴な方にかけられた呪いを解くなんて自分で言うのもなんですが、感謝されるものとばかり思うのですが」
少なくとも公爵家の方々はカレルの現状をご存知のようであるし、それならばルドヴィカが彼を助けたとカレルの証言があれば、形式的にでもお褒めの言葉くらいあると思う。そこから幾ばくかの褒美という形で、こちらの要求を引き出すのは不可能でもあるまい。
「カレル様から公爵様やガートルード様にお話いただけると、要望を通しやすいかと思いますが」
無論今更嫁入りの話を蒸し返さない事も大前提である。呪いを解いた褒美に結婚しろなどと言われた日には、屈辱のあまりヴェルン領を出奔しようかとすら思う。
水晶玉の返事は短かった。
『嫌だ』
声の調子が変わった。
ぎょっとして手のひらで包み込んでいる水晶玉を見下ろすが、顔なんて描いてないから表情など読み取れたものではない。そもそも自分の手でしっかりと掴んでいるので表面すら見えなかった。
これまでのふわふわとのんびりした話しぶりから一転、静かだが強硬な意志の見える声だ。
「何が嫌だと言うんですか」
『それも、嫌だ。理由は言いたくない。兎に角、僕はきみの欲する対価を、僕自身の能力で果たして支払えるかどうかを検討する義務がある』
「いえ、今は話す必要はないと思います」
『だが』
「まだ考え中なんです」
食い下がるカレルに告げた言葉は嘘だ。既に彼の呪いを無事解けた場合、対価として要求するものは存在する。
ここでカレルに話せないと思ったのは彼が言う通り、恐らく今のカレルの持つ権力では不可能な願いだという確信があった。
カレルが解呪の依頼を公爵家に内密にしたい理由は、ルドヴィカにはわからない。彼が呪いにかかる前から殆ど表舞台に出て来ない理由にも繋がっているのかもしれないが、正直にいえばそこまで彼の事情に興味はない。
わかっているのは、この厄介なくらいに紳士で真面目なお坊ちゃんは、ルドヴィカが自分に要求する呪いを解いた対価によっては、解呪の依頼を引っ込めて一生を水晶玉の姿で過ごす覚悟を決めている、という事だ。
この真面目な水晶玉を騙すようで悪いが、目的を果たすには公爵家に恩を売らねば始まらない。
「わたしはあなたを信じます。だからあなたもわたしを信じてくれませんか?」
手の中の水晶玉は不服そうに少しの間振動していた。
「ほら、この姿じゃ小娘如きに自由を奪われて何もやり返せないじゃないですか」
『……確かに』
水晶玉を握り締めていた手を広げると、どことなく所在なさ気にころころと転がりながら、水晶玉は言った。
『改めて頼む。どうか僕にかけられた呪いを解いて欲しい』
そしてその儘ルドヴィカの手のひらからこぼれ落ち、ぬかるみに落下していった。