小さく醜悪な呪い 1
ここ何日かは平穏だった。さりとて油断はならぬと気構えはしていたつもりだけど、もしもこの儘何事もなく今日を迎えたなら、この先未来は想像のつかない煌びやかなものに変化するのではないか。
そのような期待が、疑り深いルドヴィカの胸の内にも込み上げてきていた。
期待するのがそもそも間違っていたのだ。
今日の日はとても大切な一日になる筈だったというのに。
ベッドから降りて鏡に向かった時の、そこに映る自分の姿を認めた瞬間の落胆ぶりを誰がわかるだろうか。わからないだろう。
鏡に映る色素の薄い肌と瞳、顔立ちも身体つきも貧相で目立たない小娘の姿。肩から背中にかけて真っ直ぐのびた髪は何の変哲もない茶色だが、顔の右側を落ちる一房だけが、耳のあたりで不自然に切り揃えられている。
「……」
怒りに任せて叫んだりなどしない。今更だ。何年この虚無と向き合ってきたというのか。
それでも耐えきれないやるせなさと、この日を狙い撃ちにしてきたあの女の醜悪さに頭が痛い。
それでも、だ。行かない訳にはいかないだろう。相手は貴族様だ。町の時計屋の娘風情が髪の状態が不本意なのでこの顔合わせは後日に改めさせていただきたい、などと言えた義理ではない。
頭に重たい石をぐりぐりと押し付けられている気分だ。それでも重たくのろまな肉体を叱咤し、自室を出る。
階段を降りる足取りも酷く重たい。両親の顔がこれ程までに見たくない朝など、何年ぶりであろうか。
「おはよう」
機械的に口をついた言葉は、それでも怒り感情の一切合切が削ぎ落とされたもので、ルドヴィカは驚いた。怒りを覚えるだけの心の余裕がまだあったのか、と。
部屋の中で大はしゃぎしていたのだろう。舞うように振り返った母親はおはようと返すよりも先に、ルドヴィカと目が合った瞬間に絶句した。
「あ……」
ほら、これである。わかりきっている。うんざりと言わんばかりのルドヴィカは挑むような視線を母親に向ける。答える彼女がこちらに返す取り繕うような笑みは露骨にひきつっていた。
「お、おはよ、う。ルシカ、もうすぐ時間なのだから早くご飯食べちゃいなさい」
他に何かを言う事はないのか。そのような心を込めて、挑むような視線を無言で突き刺し続けるも、やすきに流れる性格の母親には伝わらない。いや、正確には伝わってない振りを続けられてしまうのである。
「お父さんも未だ準備が出来てないみたい。早くしてくれないと、万が一間に合わなかったら失礼じゃ済まないのにね」
大きな声でわざとらしく話し続ける母親をまともに相手をする気にならず、生返事をしながらルドヴィカは食卓に付く。
朝食はいつもと変わらない。
まあ、確かに娘が貴族との結婚話が持ち上がったとて我々が一般庶民である事実は何にも変わらないのだから、特別豪華な料理がテーブルに並ぶ事などあり得ない。
もそもそと食事を終えて、お茶を口に運んでいると父親が姿を現した。
「おはようルシカ……あ」
あじゃないだろうが、と余程声に出したくもなったが、言っても無駄なのは父にしても同じである。無言でじっと見つめてみるも、彼も露骨にルドヴィカの視線の鋭さを無視しつつ、テーブルの自分の定位置へと向かうだけだった。
「いや本当に、よく晴れていい日になったな。ルシカ、今日は大事な顔合わせなのだから失礼をするんじゃないぞ」
「はあ」
この髪の状態が既に失礼に一歩踏み込んでいるような気もする。勿論父の言う事は、言葉遣いや仕草などについて品性を保つようにという忠告なのはわかっている。
ルドヴィカが両親に対して何も言わないのを良いことに、上滑りする会話を繰り広げつつ食事は進む。
気まずい食卓、上滑りする会話は何も今日が初めてではないがルドヴィカの物心がついてからずっとこの家はこの状態が続いている。うんざりだ。