#1「貴方に出会った日」
「……婚約破棄……、婚約破棄、婚約破棄、婚約破棄……?」
自室にいつの間にか辿り着いていた私は、ただただその言葉を繰り返していた。段々と視界が涙で滲んでくる。
「……嬢?どうしたんすか?なにか、アイツにされたのか??」
「ふ、ふふ……婚約破棄……婚約破棄かぁ……」
「じょ、嬢??魂抜けそうっすよ」
「ジ、ジルゥゥゥゥ……。ジル……私……婚約破棄、されちゃうかも……」
「はぁっ!?」
従者のジルから素っ頓狂な声が上がった。
「たしかあっちから婚約を申し込んで来たんすよね!?」
「そう……ね……」
「自分たちから申し込んでおいて、急に破棄するとか何様なんすかね!嬢、気にすることないぜ!」
ジルが何か言ってるけれど、今の私には届かない。……二年前、婚約を申し出てもらえた時はとても嬉しかったのに……。一目惚れしてしまったあの人との婚約。それが、それが……婚約破棄だなんて。
──────二年前。
「ミリィーアァァァァァ〜〜〜。お父様はお仕事に行ってくるよぉぉぉぉ。本当に一人で大丈夫かい?お父様と一緒に執務室に来るかい?」
「お、お父様……ジルもいるので安心してください。それに図書館から出ませんから……あの、早く行かないとお仕事に遅れちゃいますよ……」
私を抱きしめて離れない父親は、涙ながらに頬擦りをしてくる。お父様に髭がないことだけが救いだ。
けれど、いつまでもこの抱擁を離してくれない父親が、挙句このまま家に帰ろうと言い始めるものだから困り果ててしまった。
ここが王族の住まう王城の中だということを流石にお父様も忘れてはいませんよね?大丈夫ですよね?
妙に体がむず痒いし、頬が熱くなっていく。
きっと真っ赤な顔になっている。
(あああ〜……どうか誰にも見られませんように……)
私は胸の中で、廊下に誰も通らない事を祈った。
こんな姿、見られたくなかった。
今、この廊下には父と私と、使用人と、お父様の仕事の副官しかいない。副官さんは今どんな気持ちで待っているのだろう。そう思って、父親の抱擁の隙間から顔を覗かせてみれば————、
(ひぃっ!!)
お父様の背後に控える副官さんは苛立っているのか、眉間にシワを寄せている。
お、怒ってらっしゃる!
私は思わずその場で硬直してしまう。
(あわ、あわわ……父が申し訳ありませんんんっ)
「おと……お父様……あの……」
「なんだい!? お父様の職場を見たくなったのかい。それとも、お父様と街で買い物をしたくなったのかな?」
副官さんは、こめかみを揉んで盛大にため息をこぼした。
「いえ……、お仕事頑張ってくださいお父様。ジルと一緒に図書館で待ってますから」
「ミリィーアァァァァァッッッ」
「ご令嬢、ご協力を感謝いたします。はいはい行きますよ侯爵」
「あは、あははは……」
連行されていく父親を曖昧な笑顔で見送って、私は緊張を解く為にも、ふぅーーーっと息を吐いた。運動なんてしていないのに、額に少し汗が滲んでいるような気がしてハンカチで抑えていく。
「嬢、お疲れ様っす」
「ジル……見てないで、助けてくれても良かったのに……」
「いやぁ〜今日も嬢の父上は凄かったっすね〜」
壁と同化していた燕尾服の青年は、ケラケラ笑いながら近寄ってくる。八重歯が見え隠れする青年の表情は豊かな笑顔を浮かべているが、その表情の裏には別の感情があるのだと分かってしまった。
(……琥珀色の瞳は笑ってない……なんだか言い方にも棘があるし……)
「……はぁ、行くわよジル」
「うーすっ!!」
軽く唇を甘噛んだのは、私の悪い癖だ。
いけない、また噛んじゃった。唇が乾燥して荒れてしまうからジルにも気をつけるよう言われていたのに……。
内心で反省をしながら踵を翻し、低いヒールの付いた桃色のブーツで王宮の床を打ち鳴らした。
王宮の豪華な廊下を歩いて、私たちは厳かな大きな扉の前に立つ。そこは王宮内にある王宮図書館だ。王宮にある為に、警護は厳しく、許可証を持つ貴族しか入室ができない場所になっている。
だからお父様も図書館にいる事を許してくれているし、私も暇を潰せて良いこと尽くめだ。
私とジルは、迷わず扉を開けた。
一歩、図書館の中に足を踏み入れれば、無色透明の水の膜のような結界を一瞬肌に感じる。
一度瞬きをすれば、目の先には本の王国が広がっていた。
天井を埋め尽くすかのごとく配置された本棚には、既に新しい本を入れるスペースは見当たらない。中央の閲覧スペースには、集中した面持ちの利用者が何人か見受けられる。どこかの貴族の子息達だろうか。
図書館の中には雑音はなく、ページを捲られていく本自身すら、この静寂な空間を壊さないように努めているようだった。
「……!!」
静寂な空間にぎっしりと詰められた本の宝庫───!私の心はつい踊って、ニマニマと口角が上がっていく。
天気で言ったら今の私の心は、快晴だ。太陽の光が差し込んで、雲一つない青空が広がっている。
「おや……今日はお早い到着のようですね」
「司書様ご機嫌よう」
入り口近くのカウンターから聞こえてきた大人びた低い声に振り向いた。五月蝿くならないよう、声を上擦らせながら頭を下げる。
(う……っ、なんだか閲覧してる人の視線を感じる……!)
思ったより大きな声を出してしまっただろうか。私は心配になって萎縮してしまった。そんな私とは反対に、背後に控える従者のジルは、「ちーすっ!おっさん」と明るい声で挨拶をする。手をヒラヒラと振るジルに、私は顔が青くなる思いになってしまった。
「ジ、ジルゥ……しーっ、しーっ!」
「んぇ?」
「ははっ、そう遠慮なさらずにレディ。このくらいの音で集中を切らすようなら、真の本読みとは言えませんから。レディが気にする必要は何もありませんよ」
「……司書様?」
朗らかな笑みを浮かべた司書様が、閲覧席の年若い少年、青年達を見つめていた。
あら、なんだか後ろがとっても静かになったような……。司書様に微笑まれて緊張してしまったのかしら? それにしては、なんだか怯えるような空気を感じるけれど……それに、なんだか視線を感じなくなったような。
不思議に思った私は後ろを振り向こうとして、うっかり背後に立っていたジルにぶつかってしまった。
「あ……ごめ……」
ポンッ。
ジルは私の肩に手を置いた。
「えっ?」
それからジルはニッコーーッと爽やかな笑顔を作る。
「はいはーい!! 嬢は本を読みに行こうぜ」
「えっ、えっ、でも……」
「えぇ、どうぞ。ゆっくりしていくといいですよレディ」
「は……はい……」
ジルに背を押されるまま、閲覧席の周囲を回って本棚へと向かうことになってしまった。
後ろ髪を引かれるように微かに振り返る私へ、司書様は軽く手を振って答えてくれた。
(うーん?……なんだか閲覧席の貴族がやけに静かになった気がするけど……)
「嬢、今日は何を読むつもりなんすか?」
「えっ? あ、あーっと……今日は歴史書を……」
───その時、
「きゃあッッッ」
小さな悲鳴があがった。
自分よりも幼い少女が、大きめの梯子から足を踏み外して落下する光景に、ギョッと目を見開きながら私は叫んだ。
「危ない!!」
体は目を留めた本棚の間へと引き寄せられるように動いた私の視界いっぱいに、黒髪の少女の姿が映り込んだ。一般的な18歳の令嬢よりもうんと体の小さい私は、自分では受け止められないという事実に気がつく余裕もなく、腕を必死に伸ばした。
「お嬢!!」
「っ!?」
ジルの危機迫るような声に、事態を把握した。降ってくるのは本、梯子、そして女の子。
(ぶつかる………!!)
思わずぎゅうっと目を瞑ってしまった。
──────!!!!!!!!───倒れる梯子、落ちる複数の本の音が激しく響き渡る。まるで雷でも落ちた時のような激しく大きな音で耳がつんざかれてしまいそうだった。