静謐の校舎
真っ暗な学校、図書室前。非常灯や消火栓の灯りしか点っておらず、人気がない。既に卒業してから数年が経過し、都会で一人暮らしをしている僕がそんな懐かしい場所に佇んでいる。
前後不覚。
何故自分がここにいるのか分からない。ひとまず慣れ親しんだ校舎を出ようと歩き始めた。学校というのは、日が落ちてから訪れると雰囲気が一変する。文化祭の準備などで遅くまで残ったときに経験したことがあるだろう、あの感覚である。それがいきなり身に降りかかると相当な恐怖を抱くことは必至だ。僕は警戒心を持って歩を進めた。自分は何かに化かされているのか、誰かの悪戯か、はたまた夢かー。
「十年ぽっちで人はそう変わらない」
昔、彼女と会話していた時に言った言葉がふと甦った。そうだ、あれは美術室での会話だった。
図書館と同じ棟の同じ階にある美術室は僕らの溜まり場だった。ほとんどの部員は何となく居場所を求めて美術部に流れ着いた漂流者だったが、彼女は違った。いつもキャンバスに向かって筆を振るい、石膏と汗だくで格闘し、糊や鋏を駆使して立体物を造形していた。彼女が何を作っているのかは彼女しか分からなかったが、彼女が真剣に打ち込んでいることは分かった。
彼女とは同学年だったが、一年生の時は話したことがなく、二年生になって同じクラスになり、初めて会話した。彼女と話していると、その地に足が着いていないような口ぶりに心をざわつかされ、次第に彼女の存在が自分の中で大きくなっていくのが感じられた。そしてあの会話だ。話の流れは忘れたが、将来や進路について話していたとき、彼女は「そんな先のこと考えられない」と言い、創作に没頭しなおした。
「例えば十年後はどうなってると思う?」
「分からない」
「俺もだ」
「そうなの?」
「うん。でも、大して変わってないと思う。十年ぽっちで人はそう変わらない」
「ふーん。十年、か」
考えてみれば、あれからちょうど十年経ったのか。卒業して九年。成人式にも同窓会にも参加しなかったから、彼女が何をしているのか、どこにいるのか、生きているのかすら何も知らない。
そんなことを考えていると、階下で足音が聞こえた。その足音は渡り廊下を渡っていく。階段を降り、渡り廊下を見渡したが、足音の正体は見当たらなかった。やはり化かされているのだろうか。
その渡り廊下にも思い出がある。掲示板のようなものが廊下の中央に連なり、各部活動の活動報告や公的なお知らせなどが貼り出されていたはずだ。何故だか今は何も貼られていないが、二年生の時、彼女が全国の大会で優秀賞を勝ち取った作品が展示されたこともある。掲示板に収まりきらないほどの大きさの紙に詳細に描き込まれたどこかの町の風景。
彼女と並んでその絵を見ていたとき、これはどこの風景か聞いたことがある。彼女は「私の頭の中」とだけ言った。夢で見た風景ということだろうか。
あの時はとにかく紙の大きさに驚いていたが、描き込みの量も半端ではなく、まるで写真のようだったことが思い出される。今はがらんとしている掲示板にただ一枚、詩のようなものが書かれた掛け軸が掛かっていた。
「十年の 月日を重ね いざ行かん ただ前のめりに 振り返らずに」
これは、なんだ?
また足音が聞こえた。今度は昇降口だ。ここは二度と来たくなかった場所だが、ここを通らないと校舎からは出られない。
「私、旅に出るの。あてどない旅。二度と戻らないかもしれないけど、行ってみる」
三年生の秋、受験勉強真っ盛りの時期に彼女は突然、昇降口にいた僕に向かってそう宣言した。面食らい立ち尽くす僕に初めて笑顔を見せた彼女は「じゃ」と踵を返してスタスタと行ってしまった。その場面をこの数年間、何度思い返したか。
あの時、自分に何ができただろう。
「行ってこい」と背中を押すことか。
「行くな」と抱き寄せることか。
「十年経って、君は変わった?」
「どうだろう」
「何か見つけた?」
「何も探してない」
「旅は続いてるの?」
「もう、終わったよ」
「なら、帰っておいでよ」
「…うん」
図書室の窓は開け放たれ、風はそよいで頬を撫でる。永い夢を見た。くしゃくしゃの進路調査票を引き延ばし、また将来について考え始める。十年ぽっちで人はそう変わらない。そうは言っても社会は変わり、対応していかなければ生きていけない。大学に行こうが就職しようが、生きていくことを念頭に置くことは変わらない。彼女はいなくなった。忽然と突然に。十年経てば会えるのだろうか。
“十年の 月日を重ね いざ行かん ただ前のめりに 振り返らずに”
ノートに走り書きしたこの詩は、僕の記憶に封をして、彼女のことを十年間思い出させなくさせた。
昇降口を抜け、青白い下弦の月を見上げた。ああ、彼女に会いたい。
走り出していた。
あてどなく。
見えない背中を追いかけて。
疲れた。
まだ校門を抜けていないというのに。
体力は確実に落ちている。
もう高校生ではない。
三十路だぞ。
一息ついて空を仰ぎ見ると、視界に異様な違和感を感じた。空に寝転がる彼女がいた。寝ている。
「おーい」
漫画のように鼻風船を弾かせてこっちを向いた彼女はあの日と変わらず、むしろ字義通りに地に足がついていなかった。
「ただいま戻りました~」
半ば呆れつつ彼女を腕に包み込もうとしたところ、逆に彼女に腕を捕まれて宙へ迎え入れられた。現役時代には足を踏み入れることがなかった天文部の望遠鏡がある屋上に着地し、町を一望した。
「ああ、ここを描いたのか」
「そうみたい」
「これは夢か?」
「どうだろうね」
クフフと含み笑いを漏らす彼女を抱き寄せた。
掛け軸からは詩が消え、朝日を浴びた。