■悠久の万華鏡
■悠久の万華鏡
遥か続く流れから、一瞬を切り取って閉じ込める。
囚えた心は鏡のなかで、永劫に再生を繰り返す。
人の心を留め置くもの。それが悠久の万華鏡。
***
「正しい死を迎えるためには、それを受け入れる心が必要になる。だが、お前の心はまだ不完全だ。心を完全に取り戻すには、長い時間を要するだろう。ゆえに、私はお前をここに連れて来たかった」
虚太郎が世の理を理解したところで、常盤は天秤を大切そうに布で包んで懐にしまい込んだ。そして代わりに指したのは虚太郎の胸元。
「そのために必要なのが、その万華鏡だ。それは悠久の万華鏡。ここに来るための通行証。万華鏡に心を切り取れば、心は鏡のなか、永劫に再生を繰り返す。ここは、万華鏡に未来を閉じ込め、境界線で過去を断ち切った者だけがたどり着ける場所だ」
常盤は両手を広げ、「ここの景色がどう見える?」と、周囲を見るよう虚太郎に促した。
ここで見えるのは、果てなくどこまでも続く白。前を見ても、後ろを向いても、寝転ぼうと、逆立とうと、見える景色は変わらない。
虚太郎がそう答えると、常盤は真面目な顔をして、「わしにもそう見える」と頷いた。
『同じ場所にいればだいたい同じ景色が見えるよね』
「普通はな。だが境界線では、ひとりひとり違う景色が見える。記憶の中にある深いものを、通る者自らが勝手に思い描くようになっている。ゆえに、幻だとわかっていても振り切るのは難しい」
分かっていても難しい。そのとおりだ、と虚太郎は思う。
幼馴染の姿に見えた幻。斬り捨てた腕は土塊だったが、斬った感触は人を斬るものと相違無かった。
景色も匂いも、どこまでも本物に近い記憶の幻。
暖かな記憶を掘り起こされたなら、戻りたくなるのも無理は無い。限りなく本物に近いまどろみのなかに、一時でも永く、と。
「ゆえに試練。強い心を持たねば通り抜けられず、”心を喰むもの”に堕ちてしまう」
『”心を喰むもの”?』
「わしはそう呼んでいる。幻に狙われたと言っていたな? あれらは境界線を越えられなかった者の成れの果て。境界線のなかで他者が通るのをじっと待ち、他人の心を奪おうとする」
幻のやり口は巧妙だ。
もしも虚太郎が境界線のなかで幼馴染の手を取り、村を救いに戻っていたら。
おそらく虚太郎は、厄災としての行いを正当化し、自分が守った記憶の村のなかに緩やかに囚われていただろう。
「過去に囚われること。それはすなわち万華鏡の消失を意味する。境界線で万華鏡を失えば二度と現世に戻ることは叶わず、止まった時間のなかで永遠に生きるしかなくなってしまう。記憶は進まず繰り返すのみ。終わりのない停滞に人はいつしか正気を失い、心を喰む者に堕ちる。永遠の餓えに苛まれながら獲物を探し彷徨い、失った心を求め続けるのだ」
常盤は憐れむような、どこか親しい者を見るような目で”心を喰むもの”について語る。
その締めくくりは、まるで独白のような小さな呟き。
「他人の心を奪ったところで失った心は戻って来んというのに。一縷の望みをかけてなのか、仲間がほしいのか、もはや思考すらなくただ惹かれてしまうのか」
『本能で求めるってやつかな。光に集まる羽虫のようだね』
「言い得て妙だ」
哀しげに、諦めた様子で常盤は頷いた。
終わる永劫、終わらない永遠。
限りなく意味は近くとも、そのふたつは絶対的な差をもつ。
境界線で万華鏡を失えば、どんなに願っても終わりは来ないのだと常盤は言う。
万華鏡が有る限り、虚太郎の時間は永劫だ。だが非正規な方法で万華鏡を失えば、永劫は永遠に変わる。
一歩間違えれば、虚太郎も”心を喰むもの”に堕ちていただろう。
『ずいぶん危ないことをさせたんだね』
「境界線を越えなければここに来られぬのだから仕方ない。あのまま現世で放っておいても、結局は喰む者に堕ちていた。現世で堕ちるか、境界線で堕ちるか、乗り越えてここにたどり着くか。選択肢はそのみっつだった」
常盤にとっても、賭けだったのだろう。
わざわざ一晩かけて呪いを虚太郎にうつし、心を与えたその時から、すでに。
境界線を越える直前の常盤の言葉が思い出される。”越えられなければ元の木阿弥、全てが水の泡”。
「だが、お前はうまく過去を断ち切ってきたようだな」
憂い気だった表情とは打って変わって、常盤は虚太郎に柔らかな微笑みを向けた。
それは、山の呪いがとけたあと、村を見て回ったときと同じもの。
「あらためて歓迎しよう。よく来たな、虚太郎。ここは異界。時間も、空間も、物事も、現世とは何ひとつ異なる場所。ここにあるのは、永遠の今」
顔を上げた虚太郎の視界に映るのは、どこまでもどこまでも続くまっさらな空間。
どこへ向かえばいいのか不明瞭な、方向感覚を失ってしまいそうになる途方のない白。
「俺は、正しい死を迎えるためにここに連れられたんですよね。それが世の理を正すことだと」
「そうだ。正しい死とは、肉体と同時にきちんと魂も消失すること。心から死を受け入れなければならない」
『死にたくないって思っちゃだめってこと?』
「いや、思うだけなら問題ない。多くの者が死にたくはないと考えている。だが、普通に人として生きればたいていは正しく死ねる」
正しく死なず歪みを生むのは、多くの場合、魂が死を受け入れられないほどの強い想いを残して肉体が停止した者か、肉体の停止に気が付かぬ者のどちらか。そういった魂は、常盤が赴き説き伏せれば問題ないらしい。
虚太郎のような事例はあまりに特殊。
心が無い魂は、常ならば、残る意志もなく消えてゆく。心が無いまま残り続ける魂など、そうそうあるものではない。
「俺が正しい死を迎えるためには、死を受け入れる心が必要。心を元に戻すには、時間が必要。万華鏡があれば時間が永劫。だから心が完全に戻るまでここで過ごす。それは分かりました。それで、具体的にはここでこれから何をすれば?」
泳ぎ方を知らぬまま大海に放り出されたような心持ちで尋ねる虚太郎。
その隣に並び、常盤は言った。
「自由だ」
「えっ」
「何をしても良い。自分がやりたいことを、ゆっくり考えろ。それが心を取り戻すための唯一の方法だ」
自由。これもまた、かつての虚太郎には縁の無かったもの。
ただ下される命をこなすだけしかしてこなかったゆえに、唐突に自由と言われても、想像すら難しい。
もう村を守る必要もなく、命を下す殿様も居ないという現実が、実感の伴わない”自由”という二文字で浮き彫りになる。
「やりたいことを見つけ、死を迎えるまで精一杯生きろ。それが、お前のためにも、取り込まれた命のためにもなる。だが、命は重いだろう。だからそのために、式がある」
『僕?』
急に呼ばれて驚く閻魔に向かい、常盤は手を伸ばす。
常盤は両手で閻魔をすくうと、壊れ物に触れるかのようにそっと優しく慎重に包み込んだ。
「万華鏡に入っているのは、お前の心の一部。それは同時に、余剰となった命の量だ。虚無の器ならいざしらず、今のお前はひとりの人間。ひとりでふたつは抱えきれまい。だからこそ式という存在が、心の負担を軽くする」
『分かったような分からないような。分かる努力はしてみるけどさ』
常盤は閻魔を愛おし気に撫でる。黒い蜘蛛の姿の心は、気恥ずかしさを誤魔化すように、少し後ずさり視線を外した。
常盤は虚太郎の元へ閻魔を返すと、虚太郎の肩に片手を置いて、もう一方の手で大きく前方を指し示す。
「ここはただ白いだけの空間に見える、と言ったな」
「はい」
「だが見方を変えれば、それこそが自由。何もかも有り、そして何もかもが無いことだ。ここが、これからしばらくお前が生きる場所。我々は”観測者の地”と呼んでいる」
「我々?」
「あぁ。ここにいるのはわしひとりではない。他にもここで生きる者はいる」
いずれその人物にも会う機会が訪れるだろうか。
そう思いながら、見渡す限りの白い世界に虚太郎が視線を泳がせていると。
「あっれー? 常盤、人間拾ってきたの?」
突然、何もない空間に扉のような裂け目があらわれ、ひとりの女性が顔を覗かせた。