■閻魔
■閻魔
虚空の奥から響く声。
許せ、許さん、許そうか、許せぬか。
責めと救いで編まれた糸が、右に左に揺れている。
***
村を見回ってから、虚太郎と常盤はふたたび山へと舞い戻った。
「さて、虚太郎。分かっただろう? お前はもう以前のお前とは違う。今のお前は厄災などではない」
言葉で思念を断ち切るように、常盤は強く言い切った。
「ただし、今のお前の身体は、呪いが血肉となっている。姿こそ人のかたちをしていても、実体は呪いの塊だ。たしかに生前は業深い行いをしただろうが、今こうして苦痛を受け入れ呪いと成り果てることで、じゅうぶんに報いは受けていると言えよう」
身体が呪いで出来ている。と言われても、虚太郎本人には未だ実感は薄く。
薄く靄がかる両手を見つめてみても、手袋に覆われた奥の感覚は生前と変わらない。
「お前の身体には、もはや人と同じ機能は備わっていない。たとえ斬られても痛みは無く、物を食しても味は無い。夜に眠ることもできなければ、異性と交わり子孫を残すこともできん。その代わり、呪いの身体には呪いの機能がある。試してみよう。しばし待て」
そう言って、常盤は再び大きな翼を広げ羽ばたいて虚太郎の前から姿を消した。
少し経って戻ってきた常盤の手に握られていたのは、一枚の紙。
「この紙、お前にはどう視える?」
虚太郎は手渡された紙に目を落とす。
やや黄ばんだザラつく紙には、ところどころに、墨を落としたような黒い染みが滲んでいる。
じっと視つめていると、右眼が少しヒリついた。
「墨のような斑点が染みた紙に視えます」
「うむ。その斑点は通常、人には視えない。視るためには、特殊な修行か、特別な眼が必要になる。わしの法力やお前の右眼のように」
呪いを身に受け、前髪の奥で燃え続けたままの虚太郎の右眼。
試しに右眼をとじてみれば、事実、斑点が消えたように見える。
「その斑点を掴んでみろ」
「紙ごと握りしめれば良いんですか?」
「いや、染みだけを掴むのだ」
紙に染みたものを掴むとは?
とんちを仕掛けられているのかと疑問に思いながら、虚太郎は染みに手を寄せる。
すると驚いたことに、黒い染みがまるで生きているかのように蠢きはじめた。
染みは静かに紙の上を滑って移動し、引き寄せられるように虚太郎の手元を目指す。
紙面に散り散りになっていた染みは一箇所にあつまると、スゥと紙から浮き出して、虚太郎の手のなかへ収まった。
さきほど呪いを取り込んだ時のような苦痛は無い。これが、身体がつくりかえられたということなのだろう。
「上出来だ。それが、呪いの身体の機能。呪いを視るちからと、意志で操るちから。今や呪いはお前の手足。意のままに動かせるだろう」
「視て、操る。ではこの紙の黒い染みは、呪いだったんですか」
「そうだ。自由に操ることはわしにも出来ん。お前だけが使えるちからだ」
虚太郎の身体の周囲に薄っすらとただよう黒い靄。
これが全て呪いであり、血肉であり、手足だという。
試しに、靄を少量集めて指先に留めてみれば、事実、まるではじめから出来たことのように違和感なく操れる。
そのまま”消えろ”と念じるだけで、集めた呪いは霧散した。消すも、出すも、伸ばすも、固めるも、あらゆる形状と動きが思いのまま。本当に自在に使えるらしい。
「お前を縛っていたものが呪いなら、お前を繋ぐものもまた呪い。魂だけだったお前は呪いによって、実体と、もうひとつ。大切なものを得た。何だか分かるか?」
「いえ」
何か手に入れただろうかと身体をまさぐっても、糸くずひとつ出てこない。
そんな虚太郎の様子に、常盤は「ふっ」と小さく息を吐き、
「教えてやろう。お前が手に入れたもの。いや、取り戻したもの。それは」
と、ふところから筒を一本取り出した。
手で握れる程度の太さの、何の装飾も無い簡素で真っ白な筒。
「心、だ」
常盤は虚太郎に歩み寄り、筒の先を虚太郎の胸の中心へとあてる。
「お前はかつて、心を捨て、人であることをやめたな? だがもうその因果は終わりだ」
常盤は両手で筒に体重をかける。
筒はゆっくりと押し込まれ、虚太郎の身体に沈んでゆく。
「身体が呪いに成り果てようと、心があれば、”人”として生きられる。お前は新たに心を得て、厄災ではなく、”人”になったのだ」
徐々に埋まりゆく白い筒。
筒は幻に刃を通すように揺らぎながら、虚太郎の身体を貫通し、背中側へと抜け落ちた。
常盤は筒を拾い上げ先端と終端の穴に蓋をして塞ぎ、そのまま虚太郎の手に乗せる。
「お前はその筒を、どう感じる?」
「どうとは? とくに何も。ただ、軽いな、と」
虚太郎の答えに、常盤はほんの少し眉を下げた。
「軽いか……。わしにはそれは、とても重く、眩いぞ。大切に扱え。とても大事なものゆえに」
真っ白だった筒には、いつの間にか黒と赤の炎のような模様が激しく踊るように浮き上がっている。
眺めるうちに、虚太郎はあることに気がついた。蓋にのぞき穴のような小さな穴が空いている。
何か見えるだろうか、と覗き込もうとしたその時。
『身体が呪いになったって? ますます人間離れしちゃったな』
穴の中から、手のひらほどの大きさの黒い塊が飛び出した。
それは一切の光を反射せず、どこまでも全てを吸い込みそうな漆黒の塊。
「これは珍しい。式が言葉を話すのか」
『話しちゃいけない?』
「いや、いけなくは無いが」
常盤は驚いたように黒い塊を両手ですくい上げ、物珍しそうにまじまじと眺めはじめた。
「それは何ですか?」
「その筒……万華鏡から出たのなら、これはお前の式。簡単に言えば心の一部のはずだが、言葉を話すものは初めて見る。たいていは何かしら生物の形をとるゆえ、このように黒く不定形なものも変わっている」
「見た目は呪いと似ていますが、呪いではないんですか?」
「うーむ。お前、これを操れるか?」
常盤に目を向けられ、虚太郎は試しに”消えろ”と念じてみるが、黒い塊には何の変化もない。
消えるどころか、『そんなに見つめられると戸惑うよ』などと、軽口まで叩く始末。
「できないみたいです」
「なら、完全な呪いではないな。もともと虚だったものに呪いを詰めて心にしたのだから、それを切り取ったこれもまた、一部が呪いであることは間違いなかろうが。心と呪いが混じったもの、とでも言うのだろうか」
「これは左眼だけでも見えますね」
「式の性質を併せ持つからだろう。ただの呪いではなく、ただの式でもない。それぞれから独立した存在か。なかなかに興味深い」
虚太郎は常盤の隣に並び、一緒に黒い塊を観察する。
少し嫌悪や反発を感じるが、それがなぜかは分からない。
「焦ることはない。ゆっくり受け入れていけばいい。名前でもつけてみれば多少の愛着が湧くかもしれんぞ」
『名前?』
常盤の提案に反応したのは黒い不定形。
その場でふわりと浮き上がり、威圧するように言い放つ。
『それなら僕は閻魔と名乗るよ。虚空から来たもの。ぴったりでしょう』
言葉とともに、不定形、もとい閻魔のかたちが変化してゆく。
徐々に肥大して伸び広がり、壁のように虚太郎の前に建ちはだかる。高い位置から覆いかぶさり、そのまま喰わんとするように。
『閻魔は死の支配者だ。その身に業を背負い、他者を裁く。ねぇ、僕たち似てるよね。生憎、きみがやってたのは”捌く”ほうだけど。死してなお厄災は厄災のまま。どこまでいっても他人に災いをもたらすものにしかなれない』
相対する虚太郎の額に、ジワと脂汗が滲む。自らの心だと言うものに責め立てられて。
『でも』
と、突然閻魔の声色が明るい調子を帯びる。
同時に、肥大していた姿も元の不定形と同じく、手のひらほどの大きさへと縮まった。
変化はそこで止まらない。
丸い不定形がぐにゃりと歪み、楕円になったかと思うと、次第にくびれが生まれはじめる。
『裁きは平等。苦楽は表裏一体。地獄に垂れる一本の糸も必要だ』
くびれはやがて頭と胴になり、そこから節を持つ足のようなものが生えてくる。
一本、二本、三本、四本……。
計八本の足が生え終わり、閻魔は真っ黒な蜘蛛の姿となった。
『きみ、この姿、好きでしょ?』
虚太郎はごくりと喉を鳴らす。
これは一体、何なのか。責めるような威圧感と怒気。かと思えば、一転して救済の道を示す。これが心の一部なら、今の怒気は自責と呼ぶのだろうか? それとも、心と融合した呪いによる責め、因果応報なのだろうか?
蜘蛛の姿となった閻魔は、全てを見透かすような八つの眼で虚太郎を見つめ、もう一度問うた。
『この姿、好きでしょ?』
たしかに、虚太郎は虫が――とりたてて蜘蛛が好きだ。
しかし、それを誰にも話したことは無かった。話す相手もいなかった。自分自身ですら、好みについて考えることはほとんどしなかったほどだ。
厄災として生きるために、自己開示も個人的な嗜好も必要ない。ほんの些細な感情さえも、邪魔なものとして排してきた。
これまで無視し続けたものが、今になって唐突に目の前に突きつけられる。自分を見ろ。正面から向き合い認識しろ、と。
蜘蛛の姿を借りて語りかけてくるのは、自分のなかに押し込めて殺し続けた自我。
『僕だってきみが好きじゃない。ずっと殺され続けてきたんだ。心としても、呪いとしても。これは譲歩だよ。この姿なら、歩み寄れるかもしれない』
それきり閻魔は黙り込み、まるで試すように、同時に試されるように、蜘蛛の姿で虚太郎の返答を待つ。
「……うん。その姿は好きだ」
正直に認め、虚太郎が手を伸ばせば、蜘蛛は『これでいいんだよね、多分』と、そっと手のひらに降り立った。
「”人”への第一歩、というところか。素直なところはお前の美徳だ。まぁ仲良くやれ。これから長い付き合いになる。それにしても、お前の式はよく喋る」
静かにやりとりを見守っていた常盤に背を叩かれ、ひとりと一匹は同時に頷いた。
「これで準備は整った。お前にはこれから、異界へ向かってもらう。そのために越えるべきは、境界線」
そう言って、常盤は錫杖の先で地面にガリガリと文様を描きはじめる。
虚太郎を囲うように円がえがかれ、その周囲に、解読不明な文字のようなものが増えてゆく。
「境界線は一種の試練。越えられなければ元の木阿弥、全てが水の泡だ。その万華鏡は通行証。何が起ころうと絶対に手放すんじゃないぞ。よし、扉が出来た」
トン、と常盤が錫杖で地面に描いた文様を突くと、虚太郎の足元が淡く光を放ちはじめる。
「さあ眼を瞑れ。次に眼をひらけば、そこはもう境界線。異界へ続く幻の道だ。通り過ぎるときは、何も見てはいけない。何も聞いてはいけない。 自分の心が言うこと以外何も信じるな。ただひたすらにまっすぐ進め。惑わされると通行証を奪われて、永遠から抜け出せなくなる」
「わかりました」
常盤からの注意を心にとどめ、虚太郎はまぶたを落とす。
「わしは一緒には行けんからな。境界線を抜けた先で再び会おう」
常盤の声がだんだんと遠のいてゆき、もう一度トンと地面が突かれる音が聞こえた直後、足裏から伝わる地面の感触が変わる。
別の場所に到着したことを察した虚太郎が目をひらくと、そこには”異界へ続く幻の道”という言葉とは程遠い風景が広がっていた。
虚太郎が立つのは前後に伸びる畦道の中心。左右に広がる田には痩せた稲穂が揺れ、枝分かれる道の先では、大小の家屋が細々と人の生活の煙をあげている。
忘れるはずのない懐かしい景色。森に囲まれたこの小さく貧相な村は。
「俺の故郷」
虚太郎の口から、呟きが漏れた。