キンチョウ
ひしゃげた車体の内部は混沌としていた。天井が座席になり、つり革が床になる。天地無用の列車が反転することは紛れもない災厄だ。ドローンばかり使っていたので、公園から街への道すがら、タナカは徒歩を選んだ。
足を動かさないと、感覚が鈍る。一度鈍ったら、元通りにするのは時間がかかる。治らないこともあるが、それは諦めの理由にはならない。人は足がついているからといって動かさなければならないことはないけれど、動かさないから人ではなくなるということではないけど、少なくともそこに何かがあるなら動かす意思を持てたらいいなとタナカは思う。
歩くと見つかる穴は少なくない。空からなあなあに見下ろすだけだと識別できない。歩いて始めて分かる発見がある。この世は発見に満ちている。
車内で逆立ちしてみる。すると景色は馴染む。万が一地球が静止したら、反対方向に同じ速度で走らねば宇宙に弾き飛ばされる。タナカはそんな速力はない。抗えないことは往々にしてある。でもその方法を模索することはできる。こうして逆立ちするみたいに、存外に簡単なことかも知れない。
「逆立ちしても頭に血が溜まるだけさ」と勇作が突っぱねる。果たしてそうか。タナカは脱力して倒れる。
「勇作は逆立ちしたことある?」
「しないし、できない。何?ダメなの?逆立ちできなきゃ意見を発してはいけない?」
誰かが座っていた椅子のカバーにも穴が、そしてつり革にも穴。逆立ちしても穴は消えない。
「ただできるか訊いただけだから、怒らないでよ」
座席の穴からコウモリが舌を出す。爛々とした瞳をタナカに送る。「」。心臓が早鐘を打つ。青かった空は朱に染まり、濃紺の緑に変わっていく。「」。勇作の声は失われ、代わりにカッコつけられる。「蟲」の誘いは電車の穴から香る。
六階に通じる穴は電車にも繋がっている。タナカは首を突っ込む。痛みはない。
ブレザーとスカートの蟲はバスケットボールを放つ。ボールはネットを揺らす。体育館は屋根が蓄積した熱がこもっている。蟲の額に汗が光る。
「約束通り来たよ」
タナカは歩み寄る。ドライブしてシュートをする蟲の髪は束ねられていない。瞳はエメラルドグリーンからシンプルな黒になっていた。髪も黒い。眉目秀麗はそのままに、ありきたりな女の子がそこにいた。
ボールが弾んで体育館の壁に当たり、止まる。放課後の体育館でタナカと蟲の二人きりだ。何かの予感のように、二階のカーテンから湿った風が押し入る。
「たまにいるじゃない。居残り練習する生徒。になりたかったのよ、私」
口許を綻ばせて蟲は目を細める。会えて嬉しいわ、と言い添える。パスされたボールはタナカの胸に収まる。タナカは防護服を脱いでラフになる。
ボールが胸から離れる。床につかずに蟲に届く。蟲はそれを投げ返す、そしてタナカはボールを受け取る。
「どうしてここにいるの?」
汗ばむ手のひらを隠すようにしてタナカは頭をかく。
「それはなぜ生まれたのかって意味よね。たまにいるのよ。訳もなく現れる事象が、私。珍しいことよね、統制された世界で。或いは必然」
ボールの勢いが強まる。タナカは後ずさりする。
「楽しいことって、時間が早く過ぎるし、辛いことは長く感じる。人生で経験したそれらを足してみるとゼロになる。過不足ゼロ。楽しかったことも辛かったこともチャラよ。だから私はここにいる。タナカサンもそうでしょう」
バスケットボールのボツボツをなぞる。使いこまれて磨耗した表面はツルツルになっている。ボツボツの痕跡だけがある。
「叶わない願いを遠くに隔離するために、寧ろ漸近していくのに気づかないのね。こうして私とタナカサンが出会うのは決まっていること。逃げても払拭できない、目を背けても対峙せざるを得ない。自分の足で歩かないと、穴は増えていくから。例え優秀なタナカサンに委ねても、穴は増えていく。歩いても増えるなら歩かないのがいい、って頷けるわ。でも挑みましょう。少なくともそうする力を与えられたのだから」
蟲はよく喋りよく笑った。夕陽の射す体育館は暖かい。動悸がするタナカは、深呼吸をしてみる。体育館には穴がない。きっと誰か、タナカでもない、蟲でもない、デクノボーのはずもない、が修繕している。修繕の必要がないくらいに日々想っている。
鉄扉をスライドさせて外の景色を拝む。石造りの階段に腰かけて、グラウンドでサッカーをする子どもたちを応援する。こっそり蟲の手の甲に触れる。拒まれるかとドキドキしたが、蟲はグラウンドを見やったまま微笑むだけだ。
砂ぼこりが舞い、子どもたちは目を抑える。眼球を擦る多結晶の微粒子が涙に流れる。黒い虹彩はペリドットよりも華やかだ。無機質な単位格子の連なりも芸術的なのだが、タナカはいびつなタンパク質の造形も味があって好きだ。
砂は金属と酸素の原子が手を取り合って整列している。涙の中に無限の空間群が犇めいている奇跡にこそ流されるべき涙がある。蟲の柔らかな肌と温もりがそれを教えてくれる。
「有難う、蟲。お陰でやるべきことが」
「分かってくれた?」
スカートのプリーツを指で丁寧に整えて、蟲は肩を竦める。
「じゃあ、頑張ってね」
振り返ることなく蟲は去っていく。グラウンドのフェンスをすり抜けて、砂ぼこりの奥に消える。
体育館の二階に行くと、そこはビルの七階だった。
七階は四畳半。机と布団が置いてある。布団は畳まれている。フローリングにあぐらをかく青年の髭は無作法にのびている。
「おい、なぜここにいる」
「それはこっちの台詞だ」
「幻覚でも見ているのだろうか」
青年は姿見を横目にするも、あぐらをかく自身の姿しかない。仕方なく青年は鏡に話しかける。
「そろそろ出たら?」
「どこにさ」
すかさず鏡の中の青年が返答する。どこにさ。グサッと突き刺さるドープな言葉だ。辛辣過ぎて便秘になりそう。青年は尻の穴をすぼめる。
「彼女に会いたいんだろう」
「会えないさ」
「なぜ」
「心も体も時代も環境も全てが追いついていないからさ」
「言い訳だよ、そんなの」
「無理なんだよ。何してもムリムリ」
青年は寝転がる。寝転がった拍子に机の角に頭をぶつける。涙が出る。畜生、阿呆と蔑む。四畳半で放たれた言葉は壁や天井に反射して、青年の鼓膜に跳ね返ってくる。
「こんな世界で、一体どうしたらいいのさ」
「そんなありきたりな問いを発するならば歩けよ」
「歩きたいよ」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。嘘嘘嘘嘘嘘。鏡の青年は揶揄する。青年は耳も目も塞ぐ。手は二本しかないから足の指で耳を抑える。しかし空いた口からどんどん漏れる音が憎い。
「ねえねえ。恥ずかしい?いらっしゃいませ。オートマチック。洗いざらしの健康的な照明。無期限の割引きにルーティン。通知の設定を暇さえあれば。よもやよもや。空想爆撃波。斜に構えるのは癖癖。体重七十キログラム。選択肢はパラダイス。なまじ噂ばかり集めて。順列を駆使するとき。憧れていた表層。テスランド。聖なる甘味の思い出に耽る」
突然チャイムが鳴った。家賃一万六千円の木造築四十三年のボロい部屋に稲妻が走る。青年はジャージの上下を着けてドアのチェーンを外す。
僅かな隙間から白いヘルメットを被った女性の瞳がファンデーションの香りと共に暴かれた。もっと扉を開く。
「お届けに上がりました!」
快活な挨拶。手渡された四角い箱はまだ熱い。財布から二千円渡す。女性は急いで鞄から四百円。百円玉三枚と十円玉十枚を面映ゆそうに返してきた。十枚の内、二枚はギザ十。扉は閉められた。
机に乗せて箱の蓋を開けると湯気が上がる。八等分されたピースにはサラミ。それが穴に見える。桃色の穴に白い脂の穴がある。サラミを裏返すと、金色のシールが貼られていた。
「マジかよ。USAIな」
金色のシールを剥がして、トマトソースを拭う。そこには透明な鳥が描かれていた。鳥の首は長く、胴は短い。キンチョウ。
ハッとした青年は咄嗟に立ち上がる。膝を机の角にぶつけたが、痛くない。
スマホを顔に寄せる。
「あ、ごめん。急に。うん、そうそう最近どうかなって。え、そうなの?凄いね。今度見に行っていい?何なら午後でも。迷惑なら止めるけど。嘘、じゃあすぐ行くよ。光の速さで。ハハッ、ごめんごめん。何だか、つい。それじゃあまた後で」
電話を終えた青年は、スラックスを通して、麻のシャツを羽織る。机の上で湯気は衰えていく。勿体ない様子にUSAIが、それを吹き飛ばすかのように鉄の階段を青年の踵が打ち鳴らす。待ち合わせ場所は桜の有名な公園だ。桜の木の下にはもぐらが埋まっている。懸命に作られる複雑な洞窟が、都市の地下に張り巡らされて。
(了)