メナヘリタス
横顔は、おでこの尾根をまたいで、一旦下がったあとに、鼻筋の丘を斜めにして、小さな鼻頭で休むと桃色の唇に至る。指先は柔らかな唇に吸着される。タナカは何度か繰り返したのちに、蟲の心臓に耳を当てる。
セーラー服をまくると、ハート型のオブジェがあった。オブジェは押すと弾力がある。二つの胸はなく、オブジェが鎮座する有り様は、明らかに麗しい。
「」。蟲の声。タナカは溶けていく。耳やらまぶたが椅子に垂れる。カタチを失ってようやく蟲の本物に出会える。蟲は言う。
「この日々は青春。花の咲くを待つ。いつもそこにあって。流れる水。流しソーメン。囲む。螺旋と螺旋と螺旋と螺旋。ほどけて、繋がって。大丈夫と言う。ソーメン。上から補充。ソーメン。下から回収。確かに大丈夫。箸の持ち方を教えてくれるのは変わらない。持つ人が入れ替わり立ち替わり。大丈夫と言う。寧ろ大丈夫と言うことで、ソーメンが流れる。ソーメン流し」
丸く樋。いと楽しげに掬いけり。ソーメンの流るるを眺む。ひねもす眺む。おかし。おかし。
「ソーメンを食べなくなった理由。アレルギー。ダイエット。食中毒。それらに対して禁忌、節制、浄化。パンになる。またアレルギー。ダイエット。食中毒。次はごはん、それとも蕎麦」
タナカはうたた寝をしていて、そのほとんどを聞き流していた。蟲には蟲の意見があって然るべきだ。
「」
またカッコつけてる。そうだ、朝だ。明るい光が六階に注ぐ。教室は消えて、穴だらけのコンクリートが四方に聳えている。タナカはまた眠れなかった。うたた寝をしていたのは、遠いところ。昼間とは離れたところ。だからリアルに寝ていない。
五階に戻るにはゴキブリもどきの穴を通る。
タナカの仕事は穴の位置情報を記録して可能な限り修繕することだ。五階に降りたタナカは、そのまま四階へ向かう。寝ていないことの弊害、集中力の切れたタナカはあろうことかゴキブリもどきの穴を忘れた。
朝日の中に身を浸したタナカは、もはやデクノボーのことしか考えていない。
でもその前にやることがある。
アーカイブを起動させると、こともなく開いた。「蟲」の言葉は大層古い時代のもので、現代語訳しなくてはならない。常に恐ろしい早さで移ろう言葉だから、タナカは幾つかの基準で腑分けする。壱、直訳。弐、意訳。
壱「朝食はありましたか。ソーメンは私です。そしてあなたです。昼食は、夕食はありますか。そしてありましたか。昨日の夕食を召し上がるときに、明日の朝食はきっとソーメン、白い絹のような流麗で歯応えのあるちょっとリッチな冷たいうどんに似たソーメンと予感していましたよね。本日のソーメンが、白い絹のような流麗で歯応えのあるちょっとリッチな冷たいうどんに似たソーメンだったとしたら、素敵なことではありませんか」
リアルタイムで訳すことはできなかった。なぜならアーカイブが機能しなかったから。どこか記憶の砂がこぼれ落ちてしまったことは否めない。しかしタナカはここまで「蟲」を甦らせることができた。直訳は終わり、次。
弐「こんにちはタナカサン。私は蟲です。月がファインですね。素敵な夜にタナカサンに出会えたことは奇跡です。奇跡は当たり前の集まりです。だからもう一度ここに来てくれませんか。六階でお待ちしております。知らないことを知ってみませんか」
行かない手はないだろう。タナカはドローンで宙を泳ぎながら放尿した。まさか「蟲」に告白されるのではないだろうか。とてもウキウキウキウキ果てにはモンキー風船になったタナカはディスプレイの明滅を失念している。
「随分と嬉しそうだな」
クマのヂィーサンに扮した勇作の鋭い眼光が、タナカの背筋を凍らせる。いつになく勇作は恐ろしい顔をしていた。クマのヂィーサンはおっとりしていて、山に暮らす一匹狼だ。
クマのヂィーサンには逸話があって、ホラ吹きタンバリンの異名を持つ。本当はハチミツが好物なのだが、彼は死の間際までタートルネックが好物だと頑なに言い張った。枕元のハチミツの壺に片足を突っ込んだまま昇天したラストシーンはいつ見ても涙が少し出たらいい方だ。悲しい幻影が勇作に重なる。
「別に何でもないさ。また寝なかったから、ナチュラルハイになっていることと思ってくれまちす鯉」
「いやいや、寝てないのに頬が赤らんでいるのはおかしい鯉」
「まあまあ、気にすんな鯉」
「気にするわ鯉」
詰問が続いたのでタナカは鼻くそを耳に埋めた。これでクマのヂィーサンの声は完全にシャットアウト。
浮き島にいるデクノボーは直角の腕を崩すことなく、太陽に背を向けて佇んでいるに違いない。そうしてタナカは空を飛ぶ。タナカの隣に白い鳥と黒い鳥が並んでいる。
同じスピードでゆったりと飛行する。白い鳥は首が長い。胴は短い。白い鳥にはハクチョウと思われる痕跡が認められた。
カモ目カモ科のハクチョウは、温暖な地を求めて飛来する渡り鳥で、嘴には黄色いラインが映える。その大きな体躯から繰り出される羽ばたきは至極きょうれつで、当たれば骨折を免れない。パワーを内包した美しき鳥だ。
タナカを挟んで反対側には黒い鳥がいる。こちらも首が長く胴が短い。赤褐色の嘴を携えた黒い鳥はコクチョウ。おおむね黒いが、翼の一部はハクチョウと同様にして白い。寧ろ他が黒い分だけ、白さは際立つ。コントラストが美しい。本当にキレイだ。
やがて来るキンチョウ。ここにはいないが、黄土色の羽毛に被われた首の長い鳥がタナカとハクチョウとコクチョウの遥か彼方を飛んでいるはずで
「キンチョウなんているわけないだろ」と勇作は笑う。勇作でなくても笑う。金色のハクチョウ、金色のコクチョウはこの世に存在することがないと誰もが信じて疑わない。タナカは寂しい。どうして笑うのか。また笑った。
ポテトサラダコウモリのことも勇作は信じてくれない。夜に出現するそいつを勇作にお披露目することは叶わない。タナカは涙をのむ。
公園にはデクノボーがいた。直角の腕を崩すことなく浮き島に佇んでいる。デクノボーには変化があった。宇宙服のサンバイザーから、モアイ像の顔にマスクをしている。白くて小さなマスク。小さすぎて唇すら覆えていない。
「やあ、デクノボー」
デクノボーの無視は「こんにちは」ってことだ。デクノボーを抱えて池の畔に移動する。めっちゃ重い。木の高さから地面に落として激しい音がしたけれど、デクノボーは平気な顔だからきっと大丈夫。
「前は地震の話で盛り上がったよね。今日はデクノボーがマスクをしているから遺伝子の話をしよう。生物の定義って分かる?」
口の端から泡が出ている。デクノボーは蟹の真似をしているのかな。
「自己増殖能力。恒常性維持能力。エネルギー変換能力。自己と外界との明確な隔離だよね。遺伝子にはそれらの情報が詰まっていて、食べて、代謝して、生き物として成立している」
タナカは封筒を渡す。湿ったぶよぶよの封筒だ。デクノボーの直角の腕に乗せる。「開けてみて」とタナカは促す。
封筒の中身を見ようとすれば、自ずとデクノボーの手が動く。分厚い宇宙服ではやりにくいだろうけれど仕方ない。宇宙服は自分で選んだのだから。
中には白い小さなマスクが入っていた。デクノボーは静止する。
「実は街の至るところに捨てられていてね。いや、捨てられなかったものあるよ。博物館に展示されたものとかね。昔の話さ。多分現在までで二三回はあったかな。封筒に包まれた白いマスクの配付。勇作が保管していたものをデクノボー、君にあげるよ」
サンバイザーは太陽の光で眩む。デクノボーの表情は消えた。蝶が池の上を滑る。鏡写しの実像も水面下を走る。池の力を借りることで、蝶は倍に増えた。たくさんの蝶が茂みからわっと噴出して、倍々になる。指数関数的に増加する蝶の大群は、どこに漸近していくのか。それは界面か。衝突すれば一つになる。世界に同じものは二つは要らない。
「池で手を洗わない?」
タナカの誘いに応じるデクノボーは池に頭を入れて沈んでいく。酸素供給チューブが畔に出ているから窒息はない。沈みたいときはとことん沈むといい。ここにタナカがいるならば、引き上げてみせよう。やがてデクノボーの影は見えなくなった。池の底はどんなに深いか分からない。もしかすると底なしかも知れない。あばよ。デクノボー。
「いいのか」
勇作が囁く。「いいのか、ほっといて」。いいよ。何でだよ、デクノボー、もう戻らないかもよ。
「いいのさ」タナカは空を仰ぐ。青い空が突き抜けるように透明だった。ハクチョウとコクチョウが小さくなっていく。それでいいのさ、とタナカは頷く。
地震がなくても穴はできる。公園は穴ができにくい。街はできやすい。傾向に従って、公園は短時間で、街には時間をかける。穴は広く深くなっていく。瞳の空洞化したネズミたちの葬列がそこここを横切っていく。世界はチーズだ。アニメとかで目にする非現実のチーズは固そうな八分の一ピースの円柱。ラクレットチーズ。パルミジャーノレッジャーノ。地球のマントルは溶けたチーズだ。ネズミたちがもぐらの交差点を破壊して穴だらけにする。とてもタナカだけでは埋めきれない。
デクノボーは核を埋めに向かった。その挑戦は脱帽に値する。先陣をきっている人は矢面に立たされる。見送る側も拍手くらいは送ろう。文句言うならタナカがやればいい。
すっからかんになっていく地球に暮らす。タナカは埋まらない穴に途方に暮れる。太陽は昇る。暑い。
ふと「蟲」について勇作に話したくなった。でもすぐに話したくなくなる。「蟲」は存在を気取られたくないようで、タナカの心に南京錠をかけた。
「ねえ、何か言いたげだな。タナカ、今日の君はおかしいよ。挙動不審だよ。メンテナンスが必要?」
クマのヂィーサンが隆起して、心太よろしくディスプレイから出てくる。久しぶりに勇作がこの世界に来た。ディスプレイに引っ掛かった毛皮はずる剥け、つるっとした茹で卵の肌が露呈する。
「ちょっと触る」
そう言って勇作が防護服に入ってくる。温度のない勇作の体とタナカの体がくっつく。防護服は狭い。軟体生物顔負けの勇作が関節をねじ曲げてタナカのこめかみや頭頂を探る。
「おかしいなあ、何もおかしくないなあ。それがおかしいんだよなあ。こちらがおかしくなったからおかしく見えるのかなあ」
おかし。おかし。連呼されるおかし。昨夜の「蟲」との会話を思い出す。つまり勇作は惜しいところまで来ている。惜しい。南京錠はそこじゃない。開けても構わないのに、勇作は虚空を見つめている。
「隠し事はしないでね」
「できないよ。勇作に隠し事なんて。隠し方を知らないし。教えてくれてもいいんだよ」
「USAI」
ため息を吐いて勇作は離れた。そしてディスプレイに帰った。
「勇作はいつも何してるの?」
「タナカを見てる」
「他には?」
「食って、寝て、仕事してる」
「他には?」
「さあな」
二の句が継げない勇作は再びクマのヂィーサンの衣を纏う。池の畔のチューブから、絶え間なくガスの音が奏でられる。デクノボーは元気そうだ。頑張れデクノボー。光る波の下は静かにうねる。