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トリチウム

 月面着陸したときの浮遊感といったら、ハーネスに繋がれて、その張力で以て引力を軽減したときのようなもので、画面の被写体は重そうな、ずんぐりむっくりの宇宙服に身を包んでいた。浮き島にいるのはまさにソレ。フゴー、フゴーと息している黒装束のダークネスとは違う。リアルなコスモ。

「やい」

 宇宙服は黙している。木の葉が舞って、池の表面に落ちた。アメンボが踏んだ部分だけ水面は窪むけれど、葉っぱの周にも同様の陥没ができた。ギリギリで均衡している姿は美しい。

「やいやい」

 宇宙服は黙している。小鳥がさえずり、そのメロディーは桜の幹に吸いこまれた。木にはうろがある。飴色の樹液が塊となって垂れ流される。桜にカブトムシは寄らない。セミは来る。

「やいやいやー」

 宇宙服は汚れている。黒いオイルが光沢のあるヘルメットのサンバイザーに付着していた。工事をするときにでも跳ねたのか、オイルは乾ききっていない。もしかすると熱圏をスルーしてきたばかり?

「やいやややいややいやいややい」

 デクノボーだ。タナカは寡黙な宇宙服をデクノボーと名付けた。なぜなら、どんなに声をかけても反応しないからというわけではなくて、宇宙服にデクノボーと書いてあったからだ。

 デクノボーは腕を直角に折り畳んだままの姿勢をキープしている。サンバイザーをタナカは覗きこむ。頬がへこむまで近づく。タナカの皮膚、タナカの防護服、サンバイザー、デクノボーの皮膚。だからとっても視認性が悪い。透明な媒質が仲介してくれたら、太陽の乱反射を抑えられるのにね。不便なことよ。

 目を凝らすタナカの光彩には、モアイ像のような無骨な顔が焼きついた。デクノボーはモアイ像に似ている。そしてそのモアイ像はトルマリン拓哉の叔母の母の友人の祖父の、あれ、何だったか、まあレーワオジサン、の前の総理大臣にそっくり。

「デクノボーってレーワオジサンの前のソーリに瓜二つだよね。自覚ある?デクノボー?」

 おーい。全く聞こえていないらしい。それか人の話を無視するのが得意なのか。考えていても、時計の針が進んでいくだけで、何も明らかにならない。

「そう言えばさ、ここって昔、ロングロングタイムアゴーに地震で大変たったところじゃないか、なあタナカ」

 ナメクジ勇作が割りこんできた。

 公園は海に面していた。それは昔のことだ。地盤沈下や地殻変動の影響で、公園はカルデラっぽくなって、小高い丘に水を湛えることになるとは、死んだやつらは夢にも描かなかっただろうな。

「デクノボーは知らないよね。ここはキャピタルな桃源郷だった。快適生活店舗や、超市場とかがどこにでもあって、好きなときに好きなものを好きなだけ買えた。それがさ、一瞬で潰れたんだ。嘘じゃないよ、マジな一瞬。高層ビル。すかいすくれーぱーの林立が、ポキポキ折れて、ドミノ倒しのワールドレコードをぶち上げた。それは仕方ない。自然の摂理には抗えない。だけどさ、人って面白いよ。可哀想だけどさ、面白い。ハザードマップのシミュレーションで真っ赤になってるのに逃げないんだぜ。いざ災害に見舞われると、やっとけば良かった、USAIってなる。最近も頻繁に地震が起こるけどさ、マジに死を覚悟するよ。よく地面で寝るんだが、目鼻の先で地割れ発生してて、翌朝に巨大なクレバスできてたときは焦った。夜は暗いしじっとしているしかなくて」

 タナカはふいに話すのを止めた。デクノボーが差し出したのはホーオードーの刻印された硬貨。

「あのさ、同情を乞うつもりないさ。でもその考えは止めよう。金出せば済むこと、済まないことがある。まあ金額によるかな」

 デクノボーの初めてのアクションにタナカは少し赤面した。

 改めて公園を見渡す。アーカイブに残されたデータを棒読みしてみたタナカは、緑の繁茂する池の畔しか知らない。それで満足してしまう。素晴らしく豊かな景観が、暴力的に破壊されたら、きっと悲しくなる。実際に経験しないと、辛さはあくまで想像で終わる。きっと、だろう、かも、で終わる。

 穴が空いていた。浮き島は文字通り穴場だ。穴だらけだ。タナカは土くれを詰める。するとデクノボーも鼻くそを詰める。穴が塞がれば何でもいい。デクノボーがそっぽ向いてる内に、タナカは鼻くそをほじる。その鼻くそをデクノボーの背中につける。鼻くそは股間の管から外に出せる。

 浮き島は土と鼻くそで埋った。見事だった。

 デクノボーは最初から鼻くそを詰めたかったんだ。タナカはようやく分かった。誰かが側にいてくれないと、ほじれないときはある。

「デクノボーとは仲良くなれそう?」

 カタツムリ勇作が微笑む。

「うん。でも勇作がいればいいよ」

「どうして?」

「デクノボーは勇作にも通ずるところがある。この世に二人は要らない。どっちかで十分」

 ドローンで、これまで未踏の四階に降り立ったタナカは勇作に告げた。口を閉ざした勇作はナメクジの目を時計回りにする。街は静かだ。蝶の羽ばたきが聞こえる。

「ねえ勇作」

「なあに」

「どこにいるの?」

 勇作は答えない。答えられないのか、答えたくないのか、答えたくないし答えられないのか、その内のどれかか、どれでもないか。

「穴ばかり埋める日々に埋もれたら、楽になれるかな。もうそれしかしなくていいとなっている。考えることを諦めて、穴を埋める。埋めたらどこかに穴が空く。終わりが見えない。穴は増えていって、増える速さが大きくなったらどうしよう。ねえ勇作」

「可逆的に増減していればこそ、あたかも数に影響がない様子だ。タナカの論理的な説明によれば、不可逆的に穴ぼこだらけの世界になったら、きっと放棄していいんだ。どこまで踏みとどまれるかはタナカ次第なところ。正直穴はタナカだ」

 正直穴はタナカ。語りが一周すると、不可解。でも納得がいくタナカは五階に上がる。階段の途中には砕けた馬鈴薯と、人参、それと玉葱。

「マヨネーズを忘れていた」

 悔しい。ポテトサラダにはマヨネーズ。当たり前のことを、当たり前に思えなくなる。そんな悔恨が全てマヨネーズに詰まっている。

 キャップを開けて、非ニュートン流体白濁エマルションのサワーなテイストが階段にぶちまけられる。すると干し葡萄並にシワシワだったポテトサラダコウモリがキイキイと鳴く。

 夜の調べだ。

 ディスプレイのナメクジは消えている。混沌とした黒が横たわっている。気づいたのだが、勇作は夜に連絡を取らない。どうしてか、多分睡眠時間がバッチリ決まっているからだと思うタナカは眠らないことを咎められたばかりだから今日こそは微睡みに誘われたいと意気込むけれどもやっぱり頭が冴えてきて、どうにもこうにも八方塞がりの陰鬱な心地を捨てきれない。

 寝ないのは損らしい、しかし寝るのも損だ。みんなが寝ている間に仕事をすれば、同じ能力なら二倍の差をつけられる。タナカは睡眠信者ではない。それなら寝ないで倍の差をつけるのがいい。

 暗闇の穴を探す。あれば埋める。埋めたら別のところに穴がある。一度修復した穴は、再び崩れることは少ない。それも回数をかけた分だけ、手間暇を惜しまなかった分だけ穴は閉じられている。

 デクノボーの処理した浮き島は、また穴ができるはずだ。鼻くそは粘りけがある。ダイヤモンドに乗せた氷のように、ぬるぬると溶けていくのが脳裏に鮮やかだ。タナカはダイヤモンドを知らない。アーカイブが頼りだ。そもそもアーカイブは誰が集めた?知らなくても生きていける。知れば便利だ。余計な散策をしないですむ。自分でアーカイブを収集できる自信も根性もないタナカは、仰向けになって五階の天井をねめつける。

 ゴキブリと勘違いした。天井には薄茶色の羽とトゲのある六本の足で高速移動する艶やかな虫が絶えず蠢いていた。タナカはじっと目を凝らす。ゴキブリもどきは細々と触角をざわつかせ、小回りをきかせる。ゴキカブリとも呼ぶ。

 腹が減っているのか、ひとところを頻りにかじる。ゴキブリもどきは舌の先でコンクリートをねぶる。同心円上に群がって、茶色と黒と闇の光の光沢が艶やかに重なる。大きな向日葵の種が集っている錯覚に陥る。もちろん黄色い花弁はなく、代わりに削れた薄羽の破片がパラパラと降ってくる。タナカは身をよじる。フケっぽい煌めきが月明かりを結んで帯となる。

 タナカは五階の一室の窓際に佇み、ゴキブリもどきを観察する。ペロペロコンクリートは徐々に剥き出しになる。そう、穴を空けていたのは、世界を蝕むのはゴキブリもどきの責任にある。

 実はゴキブリもどきは誰の心にも棲みついている。大人になって車の窓から道端にタバコの吸い殻を落としたとき、ゴキブリもどきがサッと登場して穴を空けていく。

 またあるときは出産した女性の上気する朗らかな雰囲気に寄り添うためにゴキブリもどきはキレイな穴を空ける。

 借りた漫画を返すのを忘れたら、意中のあの子に手紙を渡したら、受験前に歴史の教科書を暗記したら、背後にいるゴキブリもどきに気がつくだろう。タナカにはゴキブリもどきが見える。だけど普通に生きていたら、ゴキブリもどきは透明で、いつだって可視領域を逸脱している。

 花火が咲く如く、ゴキブリもどきが散ったところは陥没している。それはいいことでもあるし、悪いことでもある。デクノボークラスになると、穴の中に穴ができる。次元が違う。

 もしもデクノボーを批判したいなら、自分の穴に穴が空いて、それを三六〇度ためつすがめつしないといけない。同じ鼻をつけていても、ひとつとして鼻くそは等しくならない。

「」

 六階にはゴキブリもどきの穴を通じて向かった。

「」

 声なき声がする。「」。何だろう。タナカは穴の縁に手をかけて顔を出す。

 アルミ製の教卓の奥にビリジアンの黒板。チョークのついた紺色の黒板消し。縦六列の机が並ぶ。最後列にタナカはいる。

 肩で切り揃えられた栗色の髪は後ろでひとつに纏められている。アーカイブが故障した。タナカはたじろぐ。しかし知っていた。あれはセーラー服。

「」

 空っぽの声の主は、左端最前列のカノジョ。

「」

「え、何だい?」

「」

「ごめん。聞こえないよ」

 タナカは二列と三列の間隙をつぃーっと進んでいく。窓は開け放たれていて、薫風が吹きこむ。校庭は桜の若葉で満たされている。廊下はしんと静まっている。誰の足音も聞かれない。

 汗ばむ脇下、首が熱い。タナカは驚く。防護服を脱いでいた。脱いだことはない。フモンリツ。脱ぐ、イーコール、死だ。でもタナカはまっさらになれた。そしてカノジョの前に立つ。

「齋藤タナカです」

 自己紹介は先にすべきだ。カノジョは蟲と名乗った。光彩はペリドット。マグネシウムの神秘が造作に寄与する。髪を束ねるのはマグネシウムリボン。単体と化合物では性質が明らかに異なる。かなりお洒落だ。

 ヘルメットを落としたらワックスの塗られたリノリウムで跳ねた。アーカイブは機能しないが、恋に落ちたときの音をタナカは心に刻む。

 また風が吹く。蟲の髪が揺れる。ポニイテイルがふわふわと揺れる。

「」

 正直、蟲の言葉が分からなくても、タナカにとって問題にならない。唇と唇とがくっつく距離で見つめ合っても、蟲の囁きは依然として把握できない。

 ああ、もしもアーカイブがあったなら。蟲の言葉を読み解き、意思疏通を可能足らしめるのに。タナカは肩を落とす。がっくん、と骨が響いた。これも恋のメロディー。まつげの長い蟲の上目遣いに、タナカは黙っているしかなかった。

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