アシューム
コウモリの超音波で目が醒めた。真夜中の街に徘徊する湿っぽい空気が、タナカの防護服を濡らす。濡れたところが点になって、それが集まると水滴ができる。大きく育った水滴は、風船みたいに膨らんで、界面張力いっぱいに広がる。何でも拮抗しているものってイケてる。
消えそうで消えない灯火とか、落ちそうで落ちないヤジロベーとか。直立するコインなんかもいい。タナカが上体を起こすと雫が垂れて地面に溶けた。
溶けた水の行方をタナカは知る術がない。手が黒くなるまで土を掘り進めても、水は甦らない。
手が黒くなっているかどうかなんて、視界は闇に閉ざされているからそもそも分からない。
「よっ、タナカ」
暗闇に向かってタナカは呼びかける。返事はない。一人の夜にはそんなことをしたくなるものだ。タナカは歩き始める。
蝶も鳥も寝た。さっきまでのようにも、一年前のことのようにも思える。或いは未来のことだって有り得る。んなわけないじゃん、って証拠もないじゃん。
位置情報に従っているとタナカは頭からダイブした。昼の温もりが残る草むらにダイブした。それは穴だ。まだ穴があったのか。
「くそ、まだ穴があったのか」
言葉にしてみると、そこに穴がある実感がすこぶる湧いてくる。かなりデカイ穴だ。畳六枚分。だけどこの辺りには畳がないからタナカはイマイチ、イマニ、イマサン分からない。勇作に訊かれたら笑われるだろう、イマサンなんて七十時間前の流行りだって。わお。
アーカイブで検索した画像を投影する。バーチャルなホログラムが穴の上で回転する。ほぼ一緒だ、サイズ。
タナカは位置情報を更新する。昼間の穴、それが今日のものか、昨日のものか、正確には知らない。記録を残すのを忘れたから。穴の位置は確かだ、だけど穴の日付はなかった。すまない未来のタナカ、過ちを犯したことをわびる。
埋まっている穴もある。大体時間が過ぎれば穴は塞がり、また別の穴ができる。タナカの役割は、穴を記録し報告すること。誰に。コンフィデンシャル。つまり口外できないので、タナカは口をつぐむ。
もっとも防護服の中で発した振動なんて、外気が媒介する以前に減衰ミュートを食らうがサダメだ。杞憂だ。
ウマヅラコウモリが嗤う。馬のような面長なそいつはフルーツが好きだとアーカイブは示す。もちろんここにはいない。飛翔しているのはありきたりなコウモリ。ウオクイコウモリが嘶く。魚をゲットだぜ、キミに決めた、とダイジェスト。もちろんここにはいない。穴の天井にはありきたりなコウモリ。ポテトサラダコウモリがまぐわう。テレパシーみたいなそいつはタナカの後頭部を噛みつく。
「痛っい!」
思わずタナカは穴から逃げる。体長数オングストロームのポテトサラダコウモリ。人参の赤い耳、馬鈴薯のペンタゴン、胡瓜か玉葱の牙はお好みで、あなたの脳に浮かんだソレ、ポテトサラダコウモリ。神経の波に乗ったエレクトロンが写した実像だ。ポテトサラダコウモリは実在する。お前の、君の、彼、彼女の脳ミソのシワに刻まれて、キキキと言っている。
何匹のポテトサラダコウモリが産まれたのか、タナカは数える。うの、どす、とれす。それ以上の数字を表す言葉を知らないから、三匹は捕まえた。超ラッキー。
「真面目になれよ」
ありきたりなコウモリが諭す。アップサイドダウンのインサイドファクトはつまり
「よれなに目面真」
「バカにしてんのか」
「頭良くしてない」
呆れたコウモリは地中深くまで潜っていく。もぐらの整備したばかりのスクランブル交差点にトップギアで行っちゃった。アバヨ、コウモリ。
ビルの間隙から白い帯がたゆたう。朝だ。太陽の光は建物の割れたガラスも、足元の穴も余さず明らかにしていく。
やっとタナカは酔いが抜けてきた。拾った酒など飲むものじゃあない。特大シリンジにぶっといニードルつけてインジェクションしたら世界が夜になっていた。
コウモリなんて初めからいなかった。六畳の穴はあった。
「御早う。寝てないの?」
ディスプレイの勇作の台詞に図星のタナカは舌を出す。
「熱心なのはいいことだけれど、タナカも休んだらいいのに。休んでいる間に心も体も治癒するから、損をしているよ」
「損を?」
「昔ね、どこまで寝ずにいられるか選手権を開催したことがあって、一日目はまあ何とかたえられる。二日目と三日目は凄く眠いんだ。だけど四日を過ぎると、頭が冴えてくる。それは気持ちいいなんてもんじゃない。ナチュラルハイって言うのかな。ただただ読書やランニングに集中して没入していくのに似ている。そして一週間、半年が過ぎて。あ、もう二年経ってた」
どこが損なんだよ。おい。損をしてるんだよな。
「だからさ、滅茶苦茶、遮二無二、明鏡止水、生きているのは不思議なことで、不足なんてない。すなわち、対等な負の因子が背中に貼りついてしまっていて、自分では手も届かないし、見えない。それはもっとも身近にして最大の恐怖さ」
「納得のいくような、いかないような」
煙に巻かれたタナカは宙返りをする。それも伸身ムーンサルトだ。
「出会ったころもさ、こんな話したよね」と勇作は呟く。
首まで土にめりこんだタナカはもがもがと口を動かして砂を咀嚼した。苦いポテトサラダの味がした。
タナカは勇作を初めて目の当たりにしたのは、いつだったか思い出せない。まるで記憶を司る領域が蝕まれて、芋虫に開けられた穴よろしくスカスカ。空っぽだった。
「斎藤タナカは二十歳くらいで、男だ。トルマリン拓哉はアルミ、負けじとケイ素の髪。番号が大きいと、勝った気になれる人間の浅はかな思考の体現だ。ううん、褒めてるんだ。貶すものか。上背があって、つり革に頭が当たる。もう電車がないからトラウマは水の泡。海の底で微睡む斎藤タナカの名前を呼んだのが」
「勇作」
「その通り」
ほとんど穴。タナカの記憶は曖昧模糊。もこもこあいまい。可愛いワードにほくそ笑む。
「全然覚えていないなあ。忘れたことすら忘れたよ。完全に不完全なタナカ」
「そこがいいんだ。タナカらしいじゃないか。でも少しは休めよ。寝ないと全身が怠くて仕方ない」
勇作は弊害をその身にしっかりと宿している。自覚があるのに認識していないとは、恐るべき「どこまで寝ずにいられるか選手権」。優勝は誰だ?凄く興味が沸かない。
瞳が空洞になったネズミの群れが七千匹横切る。秒速三十センチメンタルの感傷がタナカをえぐる。虚空を秘めたネズミは、一つの方向にまっしぐらだ。地面の穴や割れたガラスなら位置情報を比較的正確にできるのに、生き物は可及的速やかにメモライズしてもしきれない。とどのつまり治癒させてやることはできない。
昨日の穴は足で埋めたタナカが、仕事の情熱に冷や水をぶっかけられるときがこのときだ。一昨日は足の付け根に穴の空いたサイドワインダーが砂丘をくねくね、くねくね、くねくね。
「休んでも。復元しないことってあるでしょうね。ねえ勇作さん。覆水不返。明媚」
穴に落ちて、しかも二日酔いで埒があかないタナカは勇作の返事を待たずにドローンで飛翔した。翼が欲しくて、勇作にねだっていたら、道端に置いてあったのを装備したのが二秒前。
「いえーい」
山河山河山河森森岩山河森山河廃墟山河街電車廃墟廃墟苔苔ネズミ苔苔穴電車廃墟線路石石石石石石石。
タナカは鳥になった。有人飛行を超越した、鳥人非行。防護スーツから伸ばしたホースから、黄金の液体がほとばしる。
びしゃびしゃ毘沙門天も怒ってプンプン糞。ゴールデン爆発の嵐。三日滞納した宿便。青空に撒くのってサイコーにサイコパス。
「きんもちぃー」
「金色の雨が降る。いつか詩をつくろう」
股間にスライドしたディスプレイで勇作の吐息がもれた。穏やかな昼下がり。タナカは目をつむって飛ぶ。自分が鳥だったときのこと、電線で羽休めしていると、小学生が石を投げてきた。やい、この黒いやつめ。あっちいけ、汚い羽毛。ウザイ嘴。異口同音に誹謗中傷。心臓がチクチク痛む。毎週金曜日に青いネットの下に置かれたリンゴの皮や、豚肉の骨や残滓が詰めこまれたビニールを、ちょいとつついただけなのに。酷いや。虐げるなら居場所をくれよ。我が物顔でのさばって、グリーンハウスガス出しまくっているのにな。どこまで広げたいの?そうまでして成し遂げたいことって?おいらたちの方が寿命短いしさ、行水みたいに死んでいくんだからさ、せめてビニールくらいは破らせてよ。スーツの股間を破くんじゃない、ビニールくらい、いいよな!
そしてタナカは公園の上空にいた。
「おい、浮き島に誰かいる」
勇作の声に驚いたのが半分。もう半分は浮き島の人影に動揺したから、タナカは平衡感覚を失って、サイクロイドの軌道を描いて池にぽっちゃん。クジラの息継ぎってこんなんだなあ。飛沫を眺めるナメクジがうっとり。お気に入りのナメクジコスチュームは勇作に似合わなくもない。