スキーム
ウェアラブルディスプレイに表示されたのは、レーワオジサンと呼ばれた東北出身の総理大臣の孫の孫のそのまた孫の友達の奥さんの娘の甥っ子にあたる現総理大臣のトルマリン拓哉だった。
「ええ、新しい元号は、USAI。USAIです」
トルマリン拓哉は頭皮に埋めた永久毛根から生えるアルミニウムのモヒカンをディープに光らせて微笑む。USAI、ウザイという言葉は、五月蝿い、が派生したものらしい。ウザイ自体は死語だけれど、二百歳近い祖父の世代では、後ろ指差さないといった用法でUSAIを連呼していた。
「おいタナカ、予想が外れたな」
トルマリン拓哉の唇が動く。やがて目、鼻、口が変化し、勇作の顔に落ち着いた。タナカはウェアラブルディスプレイを空中にスワイプして固定する。
「DASAI、だから惜しいだろ。言語周期アプリで予測したんだがな。まさかUSAIとは、お見逸れしたわ」
「省庁にハッキングすれば丸裸だ。国民のほとんどがやってるぞ。お前だけだよ、自作のアプリで予想するのは」
一番人気のUSAIに賭けては三文にもならない。早起きした方が得だ。
街を歩いているとカラフルな蝶の羽が太陽に透けていた。大群で空を覆う姿は、黒い雲が漂っているのと遜色ない。
「また下界にいるのかタナカは」
双眼鏡の形に盛り上がった勇作の目がうねる。
「ハハっ、その気持ち悪い目はお気に入りだな」
「カタツムリって生き物を模しているらしいぜ。ナメクジタイプもある」
しばらく様子を伺っていたが、代わり映えしないので無視した。
晴れた空は青く、どこまでも広がっていた。ナメクジの細長い目がタナカの視線を妨げた。タナカは目の頂点を手のひらでそっと押す。
「ぐえ」
くぐもった悲鳴とともに勇作との交信が途絶える。触覚センサーが切れていなかったのだろう。パンチでなくて安堵した。一匹の蝶が翻る。タナカは手を伸ばした。
しかし素早い身のこなしで蝶は逃げる。蔦の這ったビルの割れた窓ガラスにできた間隙をすり抜けてしまう。そこここに散らばるコンクリートの残骸は苔むし、陥没した土瀝青にはぽっかりと闇が口を開けていた。
中を覗くと漆黒が横たわっていて、小動物の蠢きに似た風の擦れる音が木霊している。
タナカは地図アプリの位置情報に、穴をインプットする。他にも穴や亀裂が生じている道があれば都度記録に残した。
「いやー大変だな、アナログの作業は」
音声通話のみ、勇作はまだ目を休ませている。
「その仕事、楽しいか?」
「楽しいかどうかは別として、誰かがやらなくてはいけないんだ。完全に放棄することはできるけれど、一度止めたら多分、二度と戻れない」
そうかあ、と勇作は呟いた。声はいつの間にか老人のものに代わっている。
タナカの頭上に鳥が飛んでいる。とても高いところにいる。黒いのは、太陽の陰になっているからに違いない。
引き続きタナカは足元に注意する。穴は先週よりも倍近く増えていた。地震の影響が如実に現れている。
昔から地震の多い国として有名だった。地震が発生すると、電気やガスなどのライフラインが止まった。物資の枯渇は死への恐怖を駆り立てる。人々は灰色の煙に巻かれながら、石油を求め、井戸を漁り、血眼になった。
不安が不安を呼び、争いの種を蒔いた。大きな地震は一瞬ですべてを拐ってしまう。
錆び付いた鉄骨と千切れたフェンスを越えた先に、ひしゃげたレールが彼方に続いている。車輪を仰向けにした電車は自らの重みで潰れつつある。
植物が繁茂した公園は目と鼻の先だ。
「今日はいるの?」
猫なで声で勇作が訊いてくる。
「ウザイなあ」
「お、早速使ったな。ウザイ、いい響きだ」
ケロケロと乾いた笑いが耳元に響く。タナカは耳障りな嘲笑を振り切るように早足になる。
公園には池がある。白い水仙が縁に咲き乱れている。地盤沈下で池の中央に島ができていて、一昨日の午前七時八分、グレーの防護服を纏った人影を見た。
下界で会う生身の、防護服越しだが、人間に会えるのは滅多にない。だからタナカの心は揺らいだ。こんな荒れ果てた、緑の草ボーボー、地面は穴だらけ、蝶と鳥の羽ばたきしか聞かれない退屈な場所を訪ねる動機はいかなるものだろうか。タナカは腹の底から溢れる探究欲をつつかれたように、公園に来たのだ。
浮き島には太陽の明かりが落ちている。日溜まりには光の粒子が漂う以外に何もない。同じ時間に、同じ場所で、同じ人間に出会えるとは限らない。そもそも約束をしたわけではないし、タナカは肩を落とすこともなく踵を返す。池のほとりに腰かける。膝を抱えて踞ると、低くなった視線の上で陽炎がうねる。
暑い。公園に生えた木々にとってはこの上なく嬉しいことだ。肉厚な葉が赤い光を抽出して、維管束が鼓動する。生き生きとした林立の吐息が大地に張り巡らされた根っこから伝わる。公園そのものが脈動しているかのような威圧感をタナカは嫌いではない。
葉脈を重ね合わせると遠い異国の鳥瞰図になった。指先でいりくんだ迷路をなぞる。かつての湾があったところは葉脈の細い部分、街が栄えていたときを太い部分に馳せる。
さてこの葉っぱは何と言う種類だったか。桜?かも知れないし、違うかもしれない。荒廃した公園は、人にとっての衰退を意味しているだけで、植物たちにとっては美しい円環を紡ぐ楽園と化していた。誰も桜と呼ばなければ、これは桜ではない。何でもいい。ただしなやかな緑の薄膜。
浮き島には太陽の明かりが落ちていたが、時とともに移ろう影に遮られる。樹木の網は天蓋となり、タナカは涼しい風に頬をくすぐられた。
「何ニヤニヤしてるんだい」
訝り声がして、勇作の顔が浮き島に現れる。偉人をパッチワークした四分割の顔は不連続に明滅を繰り返す。
「目は治った?」
「お陰さまでな、少し休んだら元通りさ。そんなに公園が好きならいっそそこで暮らせばいいのに」
「好きな場所にずっといると、多分好きじゃなくなる。だからここを去るよ今日も」
日が傾いてきた。夕日に背中を押されるようにしてタナカは街の中心地へ帰る。穴の位置情報があれば誤って足をとられることはない。七階建てのビルは蔦が三階まで絡みついている。三階までの階段は崩落していて、階上の様子は定かではない。
鳥や蝶は階段の不在を意に介さず、頻繁に出入りすることが許されている。タナカも羽があれば新しい景色が掴めるのに、と羨む。
過去のアーカイブを検索していたら、やはり公園の木は桜だった。桜が死んだらクマリンが匂いを放つだろう。心地よいヴァニラに似た蠱惑の香り。公園の、そして世界中の桜が突然にして死ぬとき、地球はセレブよろしく華やかに彩られる。コスモなネビュラのドレスを纏って、フレグランスで土星と踊ろう。別に火星とだっていい。太陽系で最高にクールな装いをしているのは、桜が根絶される丁度そのときの青い星。
じゃあ人が枯れたら?いちどきに召された肉体は、膨らんで、弾けて、萎んで、腐った声が毛穴からバブる。それは桜にしてみれば濃厚なミミズの体液を凌ぐニュートリション。
地球にしてみればクマリンにしろアミノ分解からの鼻をつんざく嘔吐誘引スメルにしろ変わらない。臭いか、臭くないか、それってアクセプターで決まる。だからタナカは死んだら嗅いで欲しい。地球に嗅いで欲しい。感想が欲しい。そう思わない?
結局死んで、腐って、土に埋まって永遠のかくれんぼキメるなら、液状化するタナカが放つ気体を吸い込んでくれ。もういいかい。もういいよ。当たり前だろ、そんなこと。
って思って欠伸して、寝た。