63.水魔法と人魚姫
陽が暮れかけても、空気はまだじっとりと蒸し暑い。
じんわりと肌に浮かぶ汗をタオルで拭きつつ、息を呑んだ。
「……ここが騎士団の研修施設……」
その堂々たる佇まいに一般人としてはおじけづくしかない。
というか、こんな施設がこの島にあることすら知らなかった。
その名を、王国騎士団の研修施設、【海】。
島の最北に位置する、周囲を白くて高い柵で囲んだ横に長い建物だ。
2階建てだろうか。外観は、騎士団の白を基調とした制服に似ている。扉や窓枠は空が薄暗くなりはじめてもはっきりと判別できる見事な金色。さらに白い外壁には、その金色が蔦のように這っていた。
王家の紋章が正面玄関らしき上に堂々と掲げられている。
柵の前で呆然と立ち尽くして立派さに驚いていると、中から人影が近づいてきた。
「やぁ、テルー!」
「レイさん。お招きいただき、ありがとうございます」
ぺこり、頭を下げる。
場違いすぎるところに来てしまった恐怖感がほんの少しだけ和らいだ。
レイさんが門番さんに話しかけて、堅牢な門を開けてくれる。
ぎぃぃ……。
「中へどうぞ」
「失礼します。あのっ、これ、焼いてきたのでよかったら召し上がってください」
バジルの葉を載せたトマトのパン。かごに詰めて、布を被せて持ってきた。
それをそのまま両手で真っ直ぐ差し出す。
レイさんは中身を確認すると、顔を綻ばせた。
「ありがとう。気を遣わせちゃったね。でも、とってもうれしいよ。まるでトマトみたいなパンだ」
「はい。トマトジュースで仕込みました。お気に召すといいのですが」
「テルーの作ったものが美味しいのは知っているしよく自慢されているから、なんでも大歓迎だよ。今晩の楽しみができた」
心からうれしそうにしてくれているように見えてほっとする。
整然とした前庭から、石畳の道がまっすぐ正面玄関に続いている。
玄関まで歩くと、くるりとレイさんが振り向いた。
振り向き方すら優雅だ。
「ようこそ、騎士団へ」
ぎい……。
両側に扉が開く。
左右に分かれる通路と、2階への階段。
それから視界に入って目立つのは、現国王の彫像だ。
わたしがこの世界に生を受けたときには既に王として国を治めていた為政者は、恐らく即位した頃であろう若い姿で、大剣を空に掲げている。
レイさんが彫像に向かって敬礼するので、つられてわたしも頭を下げた。
騎士団は国王直属の組織だ。
館に入るときは必ず挨拶が必要なのかもしれない。
「ついてきて」
「はっ、はい」
静かな館内を、左側へと進む。
絨毯は濃い赤色のベルベット。とても歩き心地がいい。
外のうだるような暑さが嘘のように、涼しくて快適な館内をしばらく歩いた。
「裏庭が海に繋がっているんだ」
言葉通り、建物の裏は海岸になっていた。
建物内部よりは暑いけれど、研修施設の外よりは涼しい。陽が暮れかけているからというのもあるだろうけれど。
空の色は、青に対してオレンジが強くなってきた。
ぎりぎり芝生の生えている辺りに制服姿の人々が集まっていた。
レイさんが団員のひとりにかごを託す。
思っていたより人数が多いので、差し入れは確実に全員へと行き渡らないだろう。
レイさんがわたしの隣に立った。
「こちらはエアトベーレのパン屋【一番星】店主のシュテルンさんです。エアトベーレでの研修にパンをつくっていただいたお礼を兼ねて、本日は招待しました」
そっ。
突然、レイさんがわたしの両肩に手を置いた。
やっぱり、ふんわりと花のような香りがする……。
にわかに騎士団のひとたちの注目がわたしに集まる。
視線を合わせないようにして慌てて頭を下げた。
「はっ、はじめまして。シュテルンと申します。今日は突然すみません」
「テルーは皆から少し離れたここにいてくれたらいいよ。むさくるしいのはいやだろう?」
ひゃー。レイさんが耳元で囁いてくる。
もちろん、男性陣のなかには入りたくないので小さく頷いた。
「さぁ、はじめましょうか」
ざ、ざ……ん……。
静かになった空間に、波音が大きく響く。
ざ、ん……。
レイさんが革靴と靴下を脱いだ。
パンツの裾をまくり、膝丈くらいまで引き上げる。
そして砂浜へ歩いて行った。
くるぶしまで海に浸かったところで、しっかりと両足を開いて立つ。
両手をまっすぐ海へ向かって突き出す。
『『万物の神よ。レーベン・タウゼント・アインヘルトの名において、汝の御子の力を地上へ降りさせたまえ』』
少しずつ暗くなっていく空。
それでもレイさんの瞳は昼間のように明るく輝く。
暗くなってきたからこそなのかもしれない。体の隅々まで、輪郭が淡く黄金に発光しているのが分かる。
『『大気の流れは汝の呼吸。水の流れは汝の鼓動。此処で我は汝に求める。汝の望みを叶える権利を賜ることを、その造形の具現化を。汝の御子らを以てして、今まさに此処への誕生を希求する』』
ぶわぁっ。
風が、
……吹いた。
次の瞬間。
ごうっ!
風に巻き上げられるように海面が空へ吸い上げられた。
そして人間ひとりを包めるくらいの水でできた球体が海面上に生まれて浮かぶ。表面は海のように波打っている。
まるで生き物の鼓動のように。
まるで、胎動のように。
『『水よ!!!』』
ばしゃっ!
レイさんの声で球体が弾け飛ぶ。
「おおぉ……」
騎士団のひとたちから静かな声が漏れた。
目の前に完成した魔法を見て、わたしも思わず息を呑む。
鳥肌が立っていた。足が、震えていた。
両腕で自分の体を押さえる。
だけど立っていることができなくて、ぺたんとその場に座りこんでしまう。
す、すごい……。
球体からまさに『生まれた』のは、水でできた人魚姫だった。
長く、ゆるやかなウェーブを描く髪。
上半身は女性の体で、下半身は魚の尾。耳も、魚のひれのよう。
見た目としては氷の彫刻に近いけれど、表面はゆらゆらと揺れていた。
人魚姫がくるりと宙で一回転すると、騎士団のひとたちから拍手が巻き起こった。
そして空中で泳ぐかのように跳ねたあと、ばしゃんっと海面で弾けた。
激しい泡しぶき!
まるで、泡となって消えてしまったかのようだった。
一瞬の出来事だった。
すっ、とレイさんが砂浜に体を向けた。
舞台女優がショーの終わりを告げるがごとく、恭しく頭を下げる。
もう一度拍手で空気が沸いた。
座りこんだままのわたしとレイさんの視線が合う。
するとレイさんは、わたしに向かって真っ直ぐと歩いてきた。
すっと右手が差し伸べられる。
わたしはほんの少しだけ躊躇ったけれど、その手を借りてなんとか立ちあがった。
砂浜に両足を踏みしめた途端、レイさんがわたしを抱き寄せて耳元で囁いてくる。
きゃー!
「どうだった? テルー」
「す、す、すごかったです……」
「ありがとう」
「!」
レイさんがわたしの頬にキスをした。
ぼんっ。
推しにそんなことされたら赤面せずにはいられない。
ひゅー、と喝采や口笛が上がる。
しかしレイさんは少しもそれらに対応しない。普段通りの態度で、わたしに微笑みかけた。
「正門まで送るよ」
お願いします、と小さな声で返すのが精一杯だった。
行きにも通ったであろう廊下を歩きながら、レイさんが説明してくれる。
「万物神が人間に与えてくださった元素魔法。四大元素を万物神の許可を賜って行使する、というものなのはテルーも知ってるよね? 私は、自分が触れている液状の水なら、思いのままに操ることができる。盾にしたり、剣にしたりすることも可能なんだ」
さらりと言うけれど、それって水魔法では最強クラスではないだろうか……。
さすが、清々しいまでの空色の瞳の持ち主である。
「今日はそれを芸術作品にしてみたんだ。声だけ大きいやつらがいてね、お前の力を見せてみろって五月蝿いもんだから」
ははは、という笑いの乾き方。どこかランさんに似ていた。
「できる限り派手にしてみせたから、これでしばらくは大丈夫かなと思う。まぁ、喧嘩を売られて負ける気もしないんだけれど、優雅に対応できることはなるべく優雅に済ませたいからね」
「あの……それでどうしてわたしを呼んでくださったんですか?」
それは最大の疑問だった。
部外者を招待するなんて、それこそ厭味の種になるのでは。
「単純に、テルーに私の魔法を見てもらいたかったんだ。だから美しい人魚姫を選んだ。日中なら、虹をかけてみせることもできたんだけどね。それはまたいつか」
「は、はいっ。ぜひとも……!」
正面玄関から外に出ると、いつの間にか空は闇に覆われていた。
夜空の下、灯りに照らされたレイさんの金髪がきらきらと輝いている。
「ほんとうに美しかったです。わたしは魔法に憧れているので、感動しました」
語彙力がもうちょっとあれば美しさを雄弁に語れたのだろうけれど、しかたない。
でも腰を抜かすほどびっくりしたのは事実だ。
「レイさんは明日、王都へ帰っちゃうんですか?」
「最初はそのつもりだったんだけど、もう少しテルーと一緒にこの島を楽しみたくなってきた。明日の予定は?」
はっ!
そのとき、わたしの脳内に名案が閃いた。
「あの、明日はハイトさんやランさん、わたしの幼なじみと一緒に、【透明な音色の洞窟】という初級ダンジョンへ行くんですが……もしよかったら、レイさんもどうですか? 確実に内容はつまらないし、メンバーがレイさん的に微妙ならすみません」
レイさんの口元がへの字になる。
頭のなかでいろいろと計算しているのかもしれない。
少しの間をおいて、ふっ、と口角を上げると微笑んでくれた。
「是非とも同行させてくれないかな」
わーい! やったー!
叫び出したいのをぐっと堪える。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします!」




