129.第一回 たのしい研修?
繋がっていく第六章、はじまります。
「くるみにはブルーチーズでしょうが! それも、辛口ではなく甘口のね。そんなことも分からないの?」
「いやいや、万人受けを考えたらチョコレートですって。そこから幅を広げるのがプロの見せ所ではないんですか?」
さて、突然ではあるが。
現在の議題。くるみのパンに、もう1種類具材を加えるとしたら何がいいだろう?
「あっ、でもでも! ドライフィグも噛めば噛むほどジューシーで捨てがたいかもしれません」
「だとしたらドライレーズンでもいいのではなくって?」
「レーズン……よりはフィグがいいです……」
オレンジの瞳がきつくわたしを睨みつけてきた。
さっきから議論……と呼べるか分からないやり取りをしている相手は、エアトベーレのパン屋【若草堂】6代目ことリーリエ・ツヴァイ・ドンナーである。
リーリエは濃いめの茶髪をきちんと束ねて帽子に隠して、メイクも薄めのコックコート姿。
対するわたし、シュテルンの身につけているのはいつも通り、紺色のエプロン。
そして。ここがどこかというと、【若草堂】の厨房なのである。
当然のことながら、【一番星】より広い。なんなら【王の花】よりも広い。さすが老舗パン屋だ。
どうしてわたしが【若草堂】の厨房にいるかというと、答えは単純明快。
ブロートフェストが終わってエアトベーレに戻ってきた数日後、お誘いをいただいたからだ。
それは、【若草堂】の5代目からの製パンに関する技術研修をしないかという提案。5代目は、エアトベーレ全体のパン屋の質の向上を図りたいとのことだった。
ちなみに話をしに来たのはリーリエだ。
〈お父様が、あなたを招いて研修会を開きたいと言っているんですの。素材賞をいただいたくらいで調子に乗って伸びた鼻を折ってしまう前に、技術の研鑽をしてはいかがかしら!?〉
〈いいですね!〉
〈ちょっと! もう少し考えてから返事をしたらどうなの!!〉
ひねくれた物言いにあっさり快諾したら何故だか怒られた。もうそれがお決まりのパターンになってしまったような気もする。
わたし自身、【王の花】で培ってきたものしか持っていないし、【若草堂】にとってはマイナスではないかと心配になったものの。
実際に5代目と会って話をしたところ、リーリエにもっと技術を磨いてもらいたいという本音もあるらしい。
それを聞いて、お互いに高め合っていけたら面白いだろうと思ったのだ。
案の定ハイトさんやランさんには心から呆れられた。
しかし、今のままでは限界がある。来年のブロートフェストで最優秀賞を受賞するためには、なりふりかまってはいられないのも事実なのだ。
……ということで、今に至る。
「ちょっと! あたくしの話を聞いていたのかしら?」
「あっ、すみません。聞いてませんでした」
「もう! どこまでも意見の合わない方ねっ!」
すると、わたしたちの会話をにこにこしながら見守っていた小太りの中年男性がにこにこしたまま話しかけてきた。
「仲がいいんだねぇ」
「どこをどう見たらそんな感想が出てくるんですのっ!?」
「リ、リーリエさん。お父さんに対してその言い方は」
リーリエよりも背が低く、ぽっちゃりとしていて、人当たりのよさそうな雰囲気を醸し出している。そんな彼は、【若草堂】5代目ことグラース氏である。
髪の色は娘と同じ濃いめの茶髪に白髪が混じっていて、瞳の色は娘より薄めのオレンジ色だ。
最近お話しさせていただくようになって感じるのは、我が父とは真逆な、のんびりと穏やかな雰囲気の方だということ。
この父親からこの娘が育つのが不思議でしかたない。
「あなた、今、性格が真逆の父娘だなと思ってあたくしを見ているでしょう!?」
「うわーすごーい。どうして分かったんですかー」
「棒読みは止めてちょうだい!!」
「ふふっ。そんなに議論するくらいなら、全部作ってみればいいんだよ?」
「「……」」
気づけば、今までの会話に出てきた材料が調理台の上に全部揃っていた。
「生地も、ライ麦のブレンド率を10%ずつ変えてみて何種類か作ってみてもいいんだからね」
にこにこしているけれど5代目の威圧感はすごい。のんびりしているように見えても、やはり老舗パン屋の店主。
提案のように聞こえる言葉も、ただの圧力だ。
「「……はい……」」
*
*
*
作れるだけ試作して、試作したら食べるまでが技術研修である。
「厨房だけでくるみのパン屋ができそうですね……」
ずらりと並んだ多種多様のライ麦くるみパンは、食べ比べをするためにちょっとずつカットしてある。
合わせたフィリングは、ビターチョコレート。スイートチョコレート。ホワイトチョコレート。
ドライフィグは、白と黒。
ドライレーズン。大と小。
そして、強烈なにおいと共に、ブルーチーズ。種類はゴルゴンゾーラ、スティルトン、ロックフォール。
「寝ぼけたこと言ってないで、食べるわよ」
「はーい。いただきます」
もぐ。
もぐもぐ。
やっぱりくるみとチョコレートは間違いのない組み合わせだ。こりっとしたくるみと、ねっとりとしたチョコレートの味わいがいい。
咀嚼していたら、リーリエがブルーチーズ入りを差し出してきた。
もわーん。
「ぐぬ……」
実はブルーチーズがそこまで好きではないのだ。なんといっても、この強烈なにおいに引いてしまう。
一口ならなんとか飲み込めるかな……。
ぱく。
「あれ? ブルーチーズくさくないですね、これ」
どうやらブルーチーズを覆うようにかかっているはちみつが、強烈なくせを緩和してくれているようだ。
むしろ食べやすくなっている。これは新発見だ。
「どうせ庶民のあなたはこれまでやっすいブルーチーズしか食べてこなかったから勝手に苦手意識を持っていたんでしょう? 【若草堂】では上質なブルーチーズを使っているからひと味違うのよ」
したり顔でリーリエが言う。
おっしゃる通り、庶民で悪かったですねー。
「こら。自分だって庶民だろう?」
後ろで5代目がツッコんだ。ん? この父娘のやり取り、なかなか面白いぞ?
「ブルーチーズも機会があれば取り扱ってみたいですね……機会があれば」
「分かればいいのよ、分かれば」
そして、どのフィリングをどう合わせていくか、反省会も兼ねていく。
……一通り試食し終わる頃には、一切れずつではあったものの満腹になっていた。
正直、胃が重たい。もう今日は、晩ご飯は入らないだろう。加えていうなら魔法路面車に乗らず歩いて帰って、食べた分を少しでも消費しないといけない。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ。思いのほか充実した内容になったようでうれしいですよ。またお願いしますね」
「はい。あの、すみません。お土産までいただいてしまって」
当然ながら食べきれないので、半分は持ち帰りにさせてもらった。
店番のハイトさんたちへのお土産にする予定だ。
なんと今日は、初めて、開店後のすべてを任せてきたのである。
「いえいえ。さぁ、リーリエ。外まで見送りなさい」
「しかたないわね」
しぶしぶリーリエが外に出てくる。
厭なら見送らなくたっていいのに変なところが律儀な人だ。
「今日はありがとうございました、リーリエさん」
「あたくしとしてはブルーチーズの良さを理解していただけて満足だわ。……ところで、ハイトさんとロトローゼ家の御方は元気かしら?」
……ん?
あっ、ランさんのことね。
そういえばリーリエはふたりのことを顔がいいと評していたっけ……。
それを訊きたくてわざわざ外に出たのだろうか。リーリエの頬が紅く染まって見えるのは夕焼けのせいだけじゃない気がする。
「元気ですよ。というかリーリエさんはまだハイトさんを引き抜くつもりなんですか?」
「まさか。もうそんなことは微塵も考えておりませんわ。あのお二方は、観賞用です」
「観賞用」
思わず反芻する。
言いたいこと、分からなくもないけれど、中身を知っているからなぁ。微妙な表情になってしまう。
「ということでいつお二方を連れてきてもいいですからね?」
「はぁ。ふたりが来たいと言うかは分かりませんが、はい」
というかあんなことがあったのに、彼らを前にして萎縮しないの?
リーリエのメンタルが鋼すぎて謎である。
「では、また。5代目にもありがとうとお伝えください」
「ええ。お待ちしていますわ」
歩き出すと、ブルーチーズのにおいを隠すように花の香りが降りてくるのに気づく。
舗道では等間隔に植えられた金木犀が立派に咲いていた。
薔薇よりも小さな花なのに決して負けていない甘い香り。金木犀が咲いていると、秋も深くなっていくように感じる。
ハイトさんたちと出会って、3つめの季節。
まさか自分がこうやって従業員さんに店を任せて、他店で研修できる日が来るなんて夢にも思っていなかった。
それだけハイトさんたちがしっかり働いてくれているということだから、ありがたい話だ。
……【偉業記念碑】で話したことは、エアトベーレに戻ってから一切口にしていない。
だって、わたしとハイトさんの間にあるのは今の雇用契約。
過去のことは掘り返さないと、決めたのだ。
「わたしとハイトさんは、雇い主と従業員なんだから」
言葉を口にして、気合いを入れ直す。
よしっ!
☆突然の豆知識☆
くるみ入りパンの断面が紫っぽい色になっていることがありますが、
これはポリフェノールなどのくるみに含まれている成分が生地に移るからなのだそうです……。




