122.そっと手を伸ばして
「あっ、あの、ランさん……痛い、です」
しばらく歩いて大通りの角を曲がったところで、ようやく声を振り絞って訴える。
ぎゅっとわたしを掴む力。痣になるんじゃないかというくらい、強い。
「っ!」
ばんっ。
ランさんは身を離してくれたと思いきや、建物の壁に両腕を伸ばしてわたしを壁に追い詰めてきた。
おそるおそる見上げる。
翳っているので表情は見えないものの、瞳だけが、深く紅い。
まるで闇のなかの焔……。
おそろしさと、美しさに。
息を。
……呑む。
「ラ……」
……ランさんが男の人であることを改めて思い知らされて、心臓まで、痛くなるようだ。
全身の力が抜けていく。その場に、へなへなと座りこむ。
すると、わたしの曇った表情にようやく気づいてくれたランさんが慌てて体を離してくれた。
「……っ。申し訳ない。助けようと思って……」
ランさんもしゃがみこんで、膝を抱えてうずくまった。その体がわずかに震えていることに気づいてしまう。
「……」
ぎゅ。ぱ。
……ぎゅ。
わたしはわたしで掌を開いたり握ったりして、指先まで感覚が戻ってきたのを確かめる。
あんなに鬼気迫るランさんはわたしの誘拐事件以来。思い返してみればランさんが冷静じゃなくなるのはだいたいわたしの危機絡みだ。
教会誓約を結んでしまったが故にこうやって迷惑をかけているようにも感じてしまう。
「……」
ランさんにそっと右手を伸ばして、ぽん、と頭に載せてみた。
男の人の頭を撫でたことなんてないけれど。
立っていればランさんの方が長身なのでこんなことはできないけれど。
大丈夫ですよ、と伝えたくて、頭を撫でてみる。
ふわ。
なでなで。
薄茶色の髪の毛、見た目以上にやわらかいなぁ。こういうの猫っ毛っていうんだっけ。
ランさんって動物に喩えるなら血統書付きの猫みたいだし。
それに、シャンプーだってトリートメントだって、高級なものを使っていそう。
なんて的外れなことを考えつつ。
なでなで。
……ちょっとずつ。
ランさんの震えが、収まってくるような気がした。
手を引っ込めてできるだけ平静を装い、問いかける。
「落ち着きました?」
「あぁ。すまない。醜態を晒してばかりだね」
「いえ……。こちらこそいつも心配をおかけしてすみません……」
何故だか地面に座ったまま、ランさんと謝り合うかたちになる。
ひとしきり謝罪大会を終えてどちらからともなく立ちあがる。土埃がスカンツについてしまったので軽くはたいた。
「ところでランさんはどうして王都に?」
「野暮用でね」
ぺし。
飄々状態に戻ったランさんがウインクをしてくるので叩き落とした。
ちぇっ、とランさんが嬉しそうに言う。
うん、いつも通りだ。よかったよかった。
それにしても、エアトベーレとツィトローネは野暮用があるからって簡単に行き来できる距離ではないぞ……? 夏にも思ったけれど、ランさんたちには特別な移動手段でもあるのだろうか。あるに違いない。
そして、王都が嫌いなのにわざわざ野暮用で来ることがあるんだろうか。
もはや野暮じゃなくて大事な用事のような気がする。
「怖がらせてしまったお詫びをしたいんだけれども」
「気にしないでください! ランさんがわたしのことを友人だと思ってくださっているが故の行動だと信じていますので。それにお昼は【王の花】のパンを公園で食べるつもりで」
少し残念そうにランさんが溜息を吐き出した。
それから、またもや少し驚いたようにわたしの言葉をなぞった。
「公園で?」
「はい。王立中央公園で」
「わざわざ?」
「わざわざ、です」
……しまった。
図書館に行きたい理由は、ランさんにも言えない。
思わず目が泳いでしまう。
そしてそんな挙動不審を、ランさんが目で追ってくる。やめてくださいー! わたしはー! 隠し事ができないんですー!
「……テルー?」
「ひゃっ、ひゃいっ?!」
ついに声まで裏返ってしまった。シュラムさんに対して以上の冷や汗、たらーり。
「可愛いから永遠に眺めていたくなるね」
突然何を言い出すのですか、ランさん。
どう対処していいか分からずに顔を両手で覆ってみる。眺めないでください、という無言の抵抗である。
調子のいいランさんはたちが悪い。いや、調子が悪いと心配になるものの。
くすくす。
ランさんが笑いながら、ようやくわたしへの凝視を止めてくれる。
「ごめんごめん。もうしないさ、テルーの嫌がるようなことは」
わたしが顔から両手を離すと、ランさんは両腕を組んでいた。
「僕も公園へ行くところだったから、一緒に行かないかい?」
「ランさんも、ですか?」
「そう。目的は、図書館だけど」
「とっ」
「と?」
ふぅ。深呼吸、深呼吸。
はい、息を吸いこんでー。
「わたしの目的は大食堂なので、でしたら、公園まで一緒に行きましょうか!!」
「ブロートフェストは終わったのに? ……そうだ。素材賞、おめでとう!」
どこからその情報を。
そうつっこむ前に、ランさんは芝居がかったように、心底残念そうに左手を額に当てて長い溜息を吐き出した。
「僕としたことが……最初に言うつもりだったのに……」
「むしろ報告前に知ってくださっているとはさすがです。ありがとうございます。ランさんにもいろいろとご迷惑をおかけしたり、試食していただいたり、助かりました。来年は最優秀賞を目指しますので、また試食してくださいね」
「勿論。エアトベーレに戻ったら祝賀会だね」
「そんな大々的にはやりませんが……内々でやるときはランさんもお招きしますね」
なんとなくふたりで石畳を歩き出す。
「内々、ねぇ。僕と、魔王殿と、従者かい? 毎回感じるけれど、奇天烈な組み合わせだ」
「うーん。否定はしません。そして申し訳ないとは思うのですが」
王立中央公園が見えてくる。
「ハイトさんもランさんも拒否してこないので、甘えてしまっています。すみません」
「……まぁ、お互いに、何でこいつとという気持ちはあるけれど」
「うぐっ」
「テルーがそれを望む限りは、お互いにしかたないと思うことにしているのさ。多分ね」
ど、どうなんでしょう……。
ハイトさんにはこわいから確かめたくないな。
そろそろ目的地への分かれ道だ。
念のために確認しておかなければ。
「ところでランさん、野暮用が図書館っていうのは、一体」
万が一、図書館内で鉢合わせしてしまったら困るので。
「閉架書庫に用があってね。予約しなければ入れないから、こうやって日程を調整して来ているのさ」
「閉架書庫……」
いいなー。限られた人しか入れない場所だよね、それは。でも閉架書庫なら確実に魔王の情報を手に入れることができそうだ。
いやいや。
頼んだら入れてくれそうな予感もないことはないけれど、そんなこと口が裂けても言えない。わたしはわたしのできる範囲で調査をするのみだ。
とりあえず、閉架書庫ならばったり出くわすこともなさそうだし、一安心。
「では、ここで」
「またね、テルー」
ランさんを見送って、大食堂で時間を潰してから図書館へ行こう。
「……!」
遠くに制服姿のベルの姿を見つけて、立ち止まる。
隣にいるのはレモン色の瞳の男。
にわかに心臓の鼓動が速くなる。
「……大丈夫、大丈夫」
大きく深呼吸。
ぎゅっ、と紙袋を持ち直して、ベルたちに向かって大きく足を踏み出した。




