炎帝の挑戦 その2 【SIDE:ジャハル】
コレは。
間違いなく本物だ。
本物の混沌だ。
神や魔王に匹敵するほどの理不尽な存在。どれほど鍛えたとしても届かない果てにある虚ろの闇。
猫という器に無理やり入り込んだ、混沌。
『弱い。あまりにも脆弱だ。分からぬ。我にすら遠く及ばぬ雑魚がどうして偉大なる魔王様を侮辱できた。分からぬ。分からぬ。我には分からぬ!』
力強き唸り声を聞きながら、ジャハルは察した。
全ての基準が魔王なのだ。
魔王に比べれば自分は弱い。魔王を眠らせた勇者に比べれば自分は脆弱。その驚異的な基準だけがモノサシになっているので自分が絶対なる魔であるとの自覚に欠けている。
いや。
自覚してもなお、魔王への忠誠の前では自らの存在を軽んじるのか。
『豚は我がこの場で喰う! だが我は魔王様のしもべ。うぬらに僅かな猶予を与えよう、誰ぞ、この豚の助命を嘆願する者はおらぬか?』
このままでは幹部の一人であるオーク神は魔力の重圧に耐えきれず絶命するだろう。それは魔王軍にとって大きな損失だ。
けれど誰も何も言えない。
ジャハルが知る限り常勝無敗を誇る最高位の存在、今は執事の職に納まっている最強の悪魔サバスさえも声を出せていない。
古参幹部達も自らの身を守るので手一杯だろう。
誰もがこの闇を止められない。
しかし。
これは試されているのだとジャハルは感じた。
自分という存在を魔王軍に刻むための、成り上がるための試練だと。
野心がギラギラと燃えていく。
存外、自分は幸運の星の下に生まれているのだと根拠のない自信もあった。
「お待ちくださいケトス様」
声は震えずに出せていた。
それだけでこの場にいる古参幹部への牽制となっただろう。
グギギギギギギギ―――ッ。
『ほう』
と、首を傾けた闇がジャハルを見つめる。
底の見えない闇の重圧。
息が詰まりそうだった。
猫が、見ている。
目が合った。
赤い。
ただ赤い瞳が闇の中に浮かんでいる。
吸い込まれそうになるのに、視線を逸らしたくて仕方がない。
魔力の胎動に反応した王冠を怪しく輝かせ、地獄の業火さえ燃やし尽くす紅蓮のマントを靡かせ――大魔帝は口を開いた。
『勇気ある者よ。貴様のその勇猛を我は称賛しよう。しかし何故だ。我が主を侮辱したこの豚を見逃す理由。我が怒りを鎮める理由を述べよ』
声は魔力を通し魂を揺さぶった。
敬語だ、とりあえず敬語だ。
魔族にだって礼儀が大切だといったのは、この闇自身だ。
「畏れながら申し上げます。彼の者を滅してしまえば我ら魔族の戦力は大きく減少してしまうでしょう」
『何故に、それが問題となる』
「魔族全体の力が弱ってしまう、それはかつて人間に支配されそうになった暗黒時代への回帰。魔族という種の存続を危ぶませる一歩。問題となる筈です」
正論の筈だ。
しかし。
闇は嗤った。
闇の中で猫の口だけがシニカルに動き出した。
『そうか、貴様は魔族全体の未来を考えられるのか。いいぞ、悪くない。だが、すまぬな。そんなもの我にとっては』
どうでもよいのだ。
と、牙をギラギラと妖しく光らせ彼は言った。
『魔王軍にも新参者が増えた――考え違いをしている者もおるようだからな、そうだな、もう一度我の立場を宣言、いや、警告しよう。
我は魔王様のしもべ。確かにその事実は変わらない。
だが、よいか、ジャハルとやら。皆もそうだ、心して聞いておけ。
なれど我は、魔族全体の味方というわけではないのだ。
本来は中立なのだ。
もしも、貴公ら魔族が我が主を蔑ろにするのなら、滅ぼそう。慈悲を捨てその喉笛を噛みちぎろう。贓物を喰らいて全てを血の海で染めてみせよう。
もしも魔王様の目覚めに人間の助力が必要なら、すまぬが、我は魔を捨て人間につく。
ただ、貴公ら魔族が魔王様の意志を尊重する限り、魔王様が愛した貴公らを我は愛そう、慈しもう、守護しよう。
だが――それは絶対ではない、それだけは肝に銘じておくことだ』
魔王への羨望だけが彼の口を雄弁に語らせた。
ジャハルは知った。
この獣は魔王の事になるとタガが外れる。
猫であることを捨てる。
いや、忘れるのか。
おそらく。
主を守るために、必死なのだ。
それは酷く悲しい事ではないかとジャハルは感じた。
ジャハルは前を向いた。
目が合った。
『だから――どうか私に、君たちを殺させないでおくれ。たぶん。きっと、それは、魔王様が悲しむことなのだから』
それは酷く穏やかな声だった。
魔力を通しての会話は基本的に嘘を付けない。心の底からの本音なのだろう。
人間。
魔族。
神。
種族の存続など彼にとっては些事。
どうでもいいのだろう。
力ある魔族だけが大魔帝ケトスの本性を知っている。
本質を知っている。
ただの門番や一般兵たちはこの凶悪で強大な闇を知らずに笑いかける。可愛い魔獣だと無防備に撫でる。庇護してやらなくてはと思い上がる。
だが違う。
これは歩く混沌だ。
世界に放たれた災厄だ。
猫のようにきまぐれで、猫のように自由に全てを破壊する。無邪気に力を垂れ流し続ける。魔族そのものが滅ぶ原因ともなりかねない。だから力ある魔族はみな畏怖と尊敬の念を持っていたのだろう。
魔王という鎖が眠る今。
闇の咢が魔族全体の首元にも喰らいついているのだ。
それに気付けなかったということは。
――オレは。井の中の蛙……ってことか。
炎帝ジャハルは己が未熟さを知り、恥じた。
そして同時に思った。
この化け物を鎮めるにはどうしたらいいか。
考えた。
「オーク神を滅ぼさぬこと。それが魔王様のためでもですか?」
慎重に言葉を選び、ジャハルは続ける。
『魔王様のため?』
「はい――彼の者は確かに魔王様を侮辱いたしました。目覚めぬ魔王様は魔王ではないと、愚かにも口にいたしました。
しかし。しかしです。
かつて人間に討伐されていたオークを保護したのは魔王様であると聞き及んだことがございます。彼らは愚かにもその恩を忘れてしまったようですが、魔王様が拾い生かした種であることに違いはありません。
慈悲を受けた彼らを、魔王様がお目覚めになる前に滅ぼしてしまうのは魔王様の望むところではない、そう愚考致した次第です」
『なるほど――そうか、確かに、そういう考え方もあるのか』
闇の獣は静かに毛繕いを始めた。
しぺしぺしぺ。
蠢く闇。大魔帝の名を冠する化け猫の巨大な影が魔力の焔につられて揺れる、肌をさす冷たい殺意と共に、猫の形を纏った瘴気が円卓の間をぐるりぐるりと回り歩く。
悩んでいるのだろう。
この場にいる者は皆、各々の種族の王と呼んでもいいほどに力ある魔族。彼らでなければこの悍ましい魔力の影に押しつぶされ存在自体が消えてしまっていた筈だ。
しばらくして。
闇の獣の姿が元の黒猫魔獣の姿へと戻っていく。
円卓の間に充満していた圧倒的な魔の気配が消えた。
『豚の神よ。心優しき新人に精々感謝するといい。私は君を許そう。今のところはね。文句があるのならいつでも戦いを挑んできておくれ、それが魔族だ。私は君の意志を尊重しよう。いいね。じゃあ、今回の話はここで終わりだ』
どうやらオーク神は許されたようだった。
それが一時の許しなのかどうか、それは今後のオーク神自身の貢献で変わるだろうか。
なんとか息を保ったオーク神を見向きもせず。
もっきゅもっきゅもっきゅ。
肉球で円卓を歩く音が響く。
猫はジャハルの前に歩み寄り、
『さて、ゆたんぽよ』
そう呟いた。
聞きなれぬその言葉は魔王の側近しか知らぬ言葉だろうか。ジャハルはごくりと息を呑んだ。
ゆたんぽとはなんだ。
問いかけか。なぞかけか。試されているのか。
これは運命を左右する問いかけなのか。
ジャハルは考えた。
まずこの言葉は、ゆ、できるのか。ゆたん、できるのか。
考えろ。考えろ。
悩んでいるうちに、闇の獣は紅蓮のマントを揺らす。マントの中。奥に見えるのはただ黒い虚無。亜空間か。
何かが出てくる。
――異界召喚……っ、こんな容易く!?
赤い瞳の光を反射するのは長方形のシルエット。表面には光沢がある。そこには見たことのない文字が刻まれていた。
ジャハルは恐る恐る目を滑らせた。
徳用カリカリ。我が家のニャンちゃん大満足♪ 鮮度安心個別パック。
なんだ。なんだ。なんだこれは。
異界文字? なんと読むのだ。
辛うじて読めたのは、かつて遺跡で目にしたカリカリという単語のみ。
動揺するジャハルの目の前で、闇に蠢く獣がその封印を解いた。
ガリッ、ガリッ――。
音が響く。
がさがさごそごそ。
獣の前脚が、獲物を探すように中を掻きまわす。
ガリ……ッ。
何かを噛み砕いている。
欠片が。
床に落ちた。
魚。星。心臓。そして、豚を模した固形物が噛み砕かれ、喰われているのだ。
これは暗喩しているのか。
分からない。どうしたらいい。思い出せ。
答えを間違えたら。
死ぬ。
ゆたんぽ。カリカリ。ゆたんぽ。カリカリ。
カリカリで死ぬ。
――オレはゆたんぽとカリカリに殺されるのか!?
なんだ。なんだ。ゆたんぽとは、カリカリとはなんだ。
死を間近にした一流の戦士は、死の淵で一筋の光明を見出す。
ジャハルははっと思い出した。
この闇の獣は言っていた。何かわからないことがあったらちゃんと聞けと。
己が無知を承知で問う。
「ゆたんぽ、とは?」
『おっと、ごめん。いや、気にしないでくれ』
「それに、そちらの固形物……異界召喚の意図は、どうか教えていただけないでしょうか」
『これは――そうだね、まだ……話すべき時ではないのかもしれない』
闇は遠くを見つめていた。
その肉球にはうっすらとジト汗が浮かんでいる。
一見するとただ匂わせただけで意味のある言葉でない。しかし、この闇は強大だ、おそらくとてつもなく深い意味があるのだろう。
『ともあれ、ジャハルくんだっけ。炎帝の名は伊達じゃないと知ったよ。どうやら今回は私が間違っていたようだ。ありがとう。礼を言う』
答えは得られなかった。
けれど死の淵で選んだ選択肢は、どうやら正解だったようだ。
怒りは収まったのだろう。
大魔帝はジャハルの膝の上にいつのまにかその身を滑り込ませていた。
――見えなかった……。
それは魔道や魔力だけでなく、身体能力も怪物なのだというアピール。
警告なのだろう。
大魔帝は静かに瞳を閉じた。
魔王とケトス以外には冷淡で高圧的な古参幹部達も、ジャハルの勇気と行動を認めたようである。
――どうやら、オレのつきはまだ十分に残っているらしい。ここからだ。オレはここからもっと上り詰めてやる。
野心は尽きない。
この絶対なる力に近づきたい。戦士として、英傑として力を求め続ける美しさを誇りに思っていた。
強くなりたい。
そう願う心は間違っていない筈だ。
しかし。
その過ぎた野心を自覚している彼も、これだけは固く心に焼き付けていた。
今も薄目を開けて、全てを監視している闇。
これには絶対に届かない。
無防備に寝息を立て、道化を装っているがその真意は――。
ジャハルは感じた。
魔王様のペットは我らを監視し続けているのだ。
我ら魔族が魔王様への忠義を忘れる、そんな不忠が起こるのならば容赦なく皆殺しにする、そう寝ながらに睨み続けているのである。
もし。
もしもだ。
この化け物が魔族と敵対する道を選んだら。
そこでジャハルは思考を止めた。
無駄だと思ったのだ。
おそらく。
ここにいる全員が全力で襲い掛かったとしても、勝てない。
と。




