価値観 ~鉄板ステーキに近づき過ぎると猫毛が焦げる~
警告の書を読み終え。
嘆き死霊の女王ナタリーは、静かに吐息を漏らしていた。
「お父様……」
不死者特有の悲壮な美貌の影響もあるからだろう。
微かに嘆くその横顔。
父の残した書を抱く彼女の姿は、昏く染まる空によく栄えていた。
美しいのだ。
物悲しい乙女を写した肖像画の様に、浮世離れした美しさが漂っていたのである。
皆、声をかけるのを躊躇ってしまう。
嘆きの魔力が漏れ出ているせいか、こちらの肌や猫毛を冷たい風が揺らすのだ。
「いやですわ、お父様ったら……本当に、変わってないのですから」
何か彼女だけに分かる深刻な内容でも記載されていたのだろうか。
それとも。
既に亡くなった父への、複雑な想いがあったのかもしれない。
私たちは彼女の言葉を待った。
ごくりと、息を呑むが――。
「もう! あいかわらず、字が汚いですのね……! それになんなんですの、この文章は! パパとか、ちゅきだよ~とか、文字として残さないで欲しいですわ! 娘として、元人間の一人として……わたくし、とっても恥ずかしいですわ……!」
私のモフ猫耳が、一瞬びくりと情けなく跳ねる。
あー、そっちか。
確かに、娘としてみればあんな恥ずかしい文章を残す父に思う所がかなり、あっただろう。
パパとか平気で書いてあったし。娘自慢も凄かったし。
ま、まあ気を取り直して。
こほんと、私はわざとらしい咳ばらいをし、真面目な表情で彼女に問う。
『それで、何か分かったことは?』
「この書には詳しく書かれていませんでしたが――わたくし、アレについては生前に聞いたことがありますわ。子供のころから何度も聞かされていたので、創作の昔話か童話だとばかり思っていましたけれど――真実だったのですね」
『にゃるほど、あれを倒すヒントがあると助かるのだけど』
「ヒントといえば……少なくともアレがどのようにしてこの世界に呼び出されたのか、誰が残していったものなのかは、聞き及んでおりますわ」
彼女は何故か私をちらり。
言いにくそうに口を開き、おっとりとした口調で語った。
「えーと、そのぅ……怒らないで聞いてくださいね」
『どうして私を見ているんだい?』
あれ――このパターンって。
いやいやいや、さすがに私じゃないぞ。
あんな不気味な異界死霊は一度見たら忘れないし。
「五百年前、魔王……さんが、異世界召喚魔術の研究をしていらっしゃった時期に、ついうっかり、世界と世界の狭間に漂う呼んではならない『憎悪を抱いたままこの世界を呪い、這い回り続ける異界の死霊』をこの世界に招き入れてしまった、と。カリュストーン家では伝えられております……の、ですが……」
え、なにそれ。
うそ、今回の事件、魔王様が絡んでるの!
「それでですね――まだ続きがあって。コ、コホン。いきますわよ――アレの対処は我が将来の一番弟子でえ、将来の最強の魔猫、我が一番に愛する超絶可愛い後継者に託すことにしたからあ。あとはその子に任せるからね~、くわぁいい黒猫ちゃんだから、出逢えばすぐに分かるからね! ――とも伝わっておりますの……。おそらく、あなたの事だと思うのですが――ケトス様……、なにかご存じありませんか?」
『え? いや、なにも……五百年前っていったら……』
私がこの世界に転生させられた時期である。
あれ。
もしかして……魔王様が異界召喚を私に禁じていた理由って。既に一度やらかして、手の付けられない異界魔獣を封印という形でなかったことにしていたからなんじゃ……。
私には世界が壊れるかもしれないからダメと言っていたが。
ありうる。
すっごいありうる。
『まあ、魔王様。あれで結構テキトーなことあったからなあ……魔王様なら責められないし、このまま人類放置して、黒マナティの人類滅亡を観察しちゃうって手も』
「そんな手が許される筈ないでち!」
あ、しまった。
つい口にだしていた。
抗議するウサギに向かい、私はふっと猫微笑。
『冗談だよ。まあ魔王様が招いてしまったんなら仕方がない。私がやるよ。魔王様からの伝言もあったみたいだしね』
「ちょっと待つでち! 猫さん、あなたさっき大陸を壊しかけそう的なこと言ってまちぇんでちたか!?」
それが。
なんだっていうのだろうか?
魔王様は五百年も前から私の成長を信じていたのだ。
当時はまだ、ただの猫魔獣だった私が最強になると既に考えてくれていたのだ。
それって、すっごい嬉しいのである。
五百年前。
そうだ――私が……人間に殺された時期だ。
口が、勝手に動いていた。
『だって魔王様案件だったら仕方ないだろう? 魔王様の事は全てに優先されるんだ。この大陸の一部がちょっとなくなるぐらい、些事だよ些事』
チッチッチと肉球おててで宣言し。
魔力を溜め込んでいく。
これはきっと。
魔王様が私に残した仕事なのだ。
ぐわぁぁぁああん、と世界が、視界が歪んでいく。
鼻がスンスンと揺れる。
たしかに。魔王様の魔力の香りだ。
アレを封印する時に使った魔力が、残滓となって散らばっているのだろう。
懐かしさが、私の憎悪の魔力を擽っていた。
愛猫として、魔王様との幸せな暮らしを思い出すには十分すぎるほどの香りだ。
私を撫でてくれた、優しい魔力だ。
私を助けてくれた――優しい魔力だ。
助けてくれた?
そうだ――私は魔王様に助けられたのだ。なにから、助けられたんだっけ……。
ああ、そうだ――。
人間だ。
人間だよ。
私を嗤いながら殺し続けた、人間だ。
ギシリ。
世界の色が、変わっていく。
そうだ、なんで私は――。
人間なんかを守ろうとしているのだろう。
私の中で、何かが切り替わった。
『ああ、魔王様なら確かに、あれほど悍ましい死霊魔獣を呼びこんでしまったとしてもおかしくないね。どうして気が付かなかったんだろうね。ああ、魔王様が残された存在なら私がどうにかしてあげないと可哀そうだよね。そうだね』
魔王様。
魔王様。魔王様。
魔王様。魔王様。魔王様。魔王様。魔王様。魔王様。
地鳴りが、起こる。
空が割れるほどに憎悪と絶望の魔力が波打ち始める。
ざわり。ざわり。
「そ、そんな魔力、駄目でち! この世界を壊す気でちか!」
『魔王様のためだ、仕方ないだろう?』
「な……っ! 猫さん、正気でちか!?」
『魔王様のためだ、仕方ないだろう?』
私の口は淡々と言葉を紡ぐ。
魔王様が世界に残した異界の魔獣。
魔王様はきっと私のためにこれを残してくれたのだろう。
私が退屈にならないように、遊び相手を用意してくれたのだ。
人間の誰かが――私を追い出した受付の中年が叫んだ。
「ま、まってくれ! 本当に、その魔力はちょっと、ヤバクねえか!」
『魔王様のためだ、仕方ないだろう?』
グギギと。
振り返り私は脆弱なる人の群れを見た。
あれ……変だな。
ちょっと視界が赤い。
世界全てが――私を殺した人間に見える。
ああ、私の憎悪の魔力が暴走し始めているだけか。
何故か恐怖の感情を抱き始めている人間たちに向かい。
私は猫首をぶにゃんと傾ける。
『汝ら人間が知らぬ場所、知らぬ時間。魔族を敵と決めつけ、のうのうと正義を謳っていた裏で何度も魔王様が守ってきた世界だ。そりゃあ――たまに世界を危険にしたこともあったけれど、救った数の方が多いんだ。だったら、魔王様のために壊れてしまうぐらい、仕方のない事だろう?』
魔王様の配下としての私の口が、淡々と語り続ける。
何かおかしなことをいっているだろうか?
魔王様。
魔王様。魔王様。
魔王様。
魔王様。魔王様。
膨大に込み上げてくる魔力が漏れ始める。
マーガレット以外の人間の顔色が、変わる。
ざわり。ざわり。
恐怖が伝達していく。
人間ってやっぱりよく分からないなあ。
尻尾がびたーんびたーんと揺れる。
魔王様に関わる事柄は全て最優先事項。どんなことすら優先される。
たったそれだけの事なのに。
どうしてそんな簡単な事が分からないのだろう。
私にはよく分からなかった。
私を殺し続けた醜い世界。
私を虐げ続けた醜い世界。
私の大切なものを壊し続けた醜い世界。
私は憎悪の魔性。
本来なら憎きこの世界を塵一つ残さず破壊しつくしたいのだ。
それを壊さずにいるのは魔王様の慈悲、優しさのおかげなのに。
ふと、紅い瞳を輝かせて私は考える。
最近、距離が縮まったとはいえ。やはり私と人間は既に根本的な部分で違いがあるのだろう。
少し馴れ合いが過ぎたか。
無差別な殺戮は嫌いであるが。
魔王様の事だけは、どうしても譲れない。
それを阻み、拒絶するというのなら。
ザザ、ザザザザアアア。
口元が瘴気で歪む。
『邪魔をするのならば、我は汝らを灰燼と帰す。塵芥すらも残らぬ無へと転化させよう。お前たちも我の本質を知っておろう。我こそはケトス。我こそが魔王様を守りし大いなる魔。全ての敵を滅し、消し去る――殺戮の魔猫なのだからな』
魔王様のことになると、私は私を制御できなくなる。
けれど。
心の奥にある、温かさがほんのりと胸を伝った。
不意に、今まで出会ってきた人間たちの顔が浮かんだのだ。
ヤキトリ……フィッシュアンドチップス。
エビフライにイチゴパフェ……っ、ドラゴンステーキ。
他にも……たくさん……。
全て大切な思い出だ。
制御しなければ……。
私は、告げた。
『だからどうかここは身を引いて欲しいのだ人間よ。我は――できるならお前たちを一人たりとも殺したくはない。それは――きっと、魔王様が悲しむことなのだから。私も……君たちを殺したくは……』
いや、殺したくなった瞬間もあっただろう?
だって私は。
張り裂けそうな程の恨みと憎悪で、魔性となったのだから。
猫の、声がする。
私の中で、何かが鳴いた。
傷つき倒れた魔王様の傍らで、哭き喚く弱い魔猫――私だ。
まずい……破壊の衝動が抑えらなくなっている。
怨嗟と憎悪の魔力が透けて浮かぶ。
心のどこかが駄目だと叫んでいる。
抑えろと理性が言っている。
しかし。
こうも思っていた。
私はもう十分、頑張った。
頑張って、世界を呪わぬように耐え続けてきたのだ――と。
闇の中で、私の中の魔猫としての心が鳴いた。
魔王様は人間全てを憎まないようにと言ってくれたが、心のどこかでは納得できない部分もあった。
魔猫として。
愛する主人を奪われた感情を堪え続けるのは――辛い。
私は――。
少し疲れていたのだ。
そう。
疲れていたのだと思う。
私の中で一番存在を主張している魔猫の部分が――主の仇討ちのために、世界を壊そうと爪を磨き始める。
私の中で漂う猫の感情は、いまだにこの世界を呪い続けているのだ。
その憎悪を、食欲という欲望に変換し耐えていたが――。
懐かしい魔王様の香りのせいか――もう、抑えられそうにない。
私の中の人間も、魔族の部分も抑える気がなくなりつつあった。
だって私は。
魔王様の猫なのだから。
魔王様を眠らせたこの世界が――憎い。
私と人間の間に立ち、マーガレットが必死にフォローをしているが。
何を言っているか、よく聞き取れない。
魔王様の事ではないからだろう。
そんな私に。
一人だけ、好意的な視線を送ってくるものがいた。
「ふふ、まあケトスさまったら……! ふふ、ごめんなさい。嬉しくて、おかしくて、笑いが止まりませんの……やっぱりケトス様は……わたくしに性質が近いのですね!」
情熱的な視線と、歓喜の吐息。
優しい瞳で私を見ていたのは――嘆き死霊のナタリーだった。
彼女だけはただ一人。
怯えず。
宝物をみつけた少女のような眼差しで、暴走する私の魔力を嬉しそうに眺めていた。




