人間だったモノ ~嘆き死霊と魔猫の心~
『ああ、そうさ。私も――昔、人間だったんだよ』
私はゆったりと口を開いていた。
この冒険者証を見る限り、名前も消失している。
もはや、私の魔力情報から人間だった頃の情報は薄れてしまっているのだろう。
元人間、嘆き死霊女王のナタリーは言葉の意味を反芻するかのように呟いた。
「かつて人間と死闘を繰り広げた魔族、大魔帝ケトス様が……元人間……」
『この世界に転生される前にね。まあ、もっとも、五百年以上も前の話さ。とっくに、人の心なんて……無くなってしまったよ。今の私は魔族さ。今は魔王様の方針もあって平穏を選んでいるが、もし再び人間と魔族が敵対するのなら、私は迷わず人を殺しつくす。これだけは確かさ』
それは猫としての言葉だったのだろうか。
魔族としての言葉だったのだろうか、私には分からなかった。
けれど、口元は微かに動いていた。
意識して作った微笑ではなく、本当の微笑が零れていたのだ。
魔王様に従うしもべ。
今の私がどれほど不安定な存在だとしても、それだけは確かなのだ。
「あの猫獣人の姿はもしかして、転生前のお姿に似せて作られているのですか」
言われて、私は眉を下げた。
見たいという事なのだろうか。
闇が私を包む。
魔力が猫の姿から獣人の姿へと、身体を変貌させていく。
『さあ、どうなんだろうね。どういう姿に変身するか意識しないと、どういうわけかこの姿になってしまうんだが……私にも分からないんだ。私の元の記憶は猫の器に入り込んだ時に、既に欠け始めていたからね。今はもう、思い出せないんだよ』
「思い出せない?」
『ああ、どういう生き方をしていたのかも。どんな人となりだったのかも。名前さえも……もう、消えてしまったんだ。まあ、父や母や家族がいた、世界はどうだったか、どんな文化があったのか――そういう記憶はおぼろげながらに残っているけどね』
彼女が近いうちに消えるバンシーだからだろう。
普段は聞かれてもはぐらかして答えなかったのに、私は自然と自分のことを話せていた。
ある意味、これは卑怯者の自分語りなのかもしれない。どうせ消えてしまうのだから、なにを言ってもいいだろう。
そんな辛辣な無責任さが、私の口を滑らせたのだ。
かつての仲間にさえ言えなかった事がすらすらと、口から洩れていたのだ。そこでようやく気が付いた。
私はもしや……誰かに聞いて欲しかったのだろうか、と。
そんな私の瞳を見ながら、彼女はすぅっと瞳を細めた。
優しい微笑だった。
「構いませんよ。いままで、誰にも……言えなかったのですね」
やはりこの人は勘が鋭い。心中に留めた筈の言葉の端が、僅かに透けて見えるのだろう。
私も稀に、そういう時がある。
何を考えているか、対峙する人間の魂から透けて見えてしまうのだ。もしかしたら長く生きた元人間が持つ特殊なスキルなのかもしれないが、真相は分からない。
『誰にもってわけでもないけれど、あまり、語る必要もないことだからね』
「それは――お可哀そうに……」
そう呟いて、彼女ははっと顔を歪ませた。
「す、すみません! わたくしったら、いま、大変失礼なことを申しましたわね」
『いや、いいさ。前にも同じ故郷からの転生者に同じような貌をされたからね。きっと、客観的に見た私はそういう風に映るんだと思うよ』
私とて。
口には出さないだけで、今、目の前で現世に留まる彼女を哀れなものだと思ってみているのだから。
「それでも、やっぱりごめんなさい。無神経でしたわ。わたくし、自分以外の元人間の方にお会いするのは初めてで――ちょっと、気が抜けてしまったのでしょうか。駄目ですわね、どうも、あの方の幸せな死を知ってしまった時から……何かが変わってしまって。頭がぼんやりとしてしまっているのです」
それは、消滅が近づいているという事だろう。
私は今日の出来事を思い出していた。
あのギルドで、彼女はとても信頼されていた。可能ならばこのまま現世に留まり続けている道も、選べるはずだ。
『君は、このまま消えてしまうつもりなのかい?』
彼女の脳裏には様々な思考が浮かんでいるのだろう。
自分の中の心を整理するように、瞳だけを横に向けながら彼女は答えた。
「どう、でしょうか。わたくしはもう人間ではございませんし。ギルドの皆さまと生活を共にし続けていいいのか、たまに悩むこともございますし。それになにより――わたくしがこの世界に留まっていた理由は……ギルハルト様にもう一度お会いしたい、その一心だけでございましたから」
遠くを見る眼差しは、とても美しかった。
嘆き死霊の瞳は涙で紅く燃えている。
憎悪を力とし紅く燃える私の瞳と似ているが、やはり、どこかが違う。
この世界への在り方が違うのだ。
「言い訳を、聞いてくださいますか」
『ああ、聞くだけならタダだからね。貰えるものはとりあえずなんでも貰う主義だし、安心しておくれ』
冗談で返すと、彼女もまた物悲しい微笑を返してきた。
「ギルハルト様にもう一度お会いしたかった理由。恋心……それもあったのでしょうが、本当の所はすこし違うのです。本当は――あの方と再会して。一言、ごめんなさいと謝りたかったのです」
『謝る?』
「あの方が戦地に赴いたのは、わたくしのせいなのです」
身に灯る未練の魂を魔力とし揺れながら。
嘆き死霊は、ぽつりと語り始めた。
「わたくしは当時、この街を治めていた領主の娘だったのです。自分で言うのも気が引けますが、世間を知らない箱入り娘でしたわ。そんなわたくしが、戦争準備のために父を訊ねてきた魔剣士様に、愚かな憧れを抱いてしまったのです……」
薄い口紅が、僅かに震える。
「わたくしは生まれて初めて恋を知りました。燃えるような……けれど、裂けてしまいそうな程に脆い恋。本当に、世間知らずで無知な娘が一瞬抱いただけの恋。届かない、届けようとも思わない、すぐに終わってしまうだけの一瞬の夢。わたくしは、それだけで満足でした……けれど、それを父は許さなかった。過保護が過ぎたのでしょうね。領主である父はあの方に、危険な戦場へ赴くようにしむけ……そして、二度と、帰っては来なかった」
百年前は、たしかにそういう時代だった。
死が近い場所にあったからか。今よりも、人の命の価値が低かったのだ。
「だから、一言――謝りたかった。ごめんなさいと、卑怯な言い訳を押し付けたかった。その未練からわたくしはただ泣き続け、泣き続け……命を失っていた事すらも気付かずに、こうして彷徨い続けておりましたわ。箱入り娘だったわたくしですら、魔力と力を手にし、ギルドの長をさせていただくほどに長く、在り続けましたわ。よくある、お話で御座いましょう。けれど、それももうおしまい、なのですね」
『ああ、徐々に……この世界との接点が消えて。君は消えてしまうだろうね』
残酷かもしれないが、私は事実を告げた。
彼女の想い人は幸せに消えていた。
それはバンシーとしての彼女の未練を断つには、十分すぎるほどの理由だった。
彼女はやはりと、瞳を伏せる。
「マーガレットさんの初クエストがうまくいったら、わたくしはおそらく、未練をなくして消えてしまう。そんな気はしていたのです」
『そうか、それが君の選択なら――私はあえて何も言わないよ』
彼女はくすりと笑った。
「厳しいのですね、けれど――優しい御方。普通、殿方でしたら……無責任に優しく引き留めて、バンシーとして生き続ければいいとおっしゃるでしょうに」
『人としての輪から外れ、永遠に彷徨い続けることがまっとうな在り方だとは……思えないからね』
私には魔王様がいる。
お眠りになられているあの方の目覚めを、ただ、待ち続ける。それは心の中に浮かんだ希望なのだ。
けれど、彼女には心の寄り所が既にないのだ。相手は満足して、自分のあずかり知らない所で幸せに逝ったのだから。おそらく、長く留まっていると、そのうちに壊れてしまうだろう。
まあ、答えのない問題というのは世の中には多いのだろう。
と、私は思う。
私ももし、魔王様がこのままお目覚めにならなかったら。
いや、やめよう、考えるだけ無駄だ。
「ケトス様、あなたは……もしかして」
『さて、夜ももうだいぶ更けている。あまり遅くまでいると他のギルドメンバーに誤解をされてしまう。今日はこれくらいにしよう』
そうですわね、と彼女は立ち上がる。
そして。
振り返って、薄い口紅を動かした。
「一つだけ、よろしいでしょうか」
『なんだい』
「もし、わたくしが消えてしまっても。覚えていてくださいますか?」
唇だけが言葉を繋ぐ。
「自分勝手な恋で想い人を死なせてしまったと思い込み、あの方が幸せに死んだとも知らずに、勝手にこの世に漂い続けた愚かなわたくしを……覚えていてくださいますか?」
きっと。
精一杯の勇気を絞った言葉だったのだろう。
だから私は言った。
『大魔帝を門前払いしたギルドのマスターを、忘れるわけないよ。あの時、自慢の猫毛を汚された事、実はまだ根に持っているんだからね』
冗談に乗せて絶対に忘れないと伝えると。
彼女の紅い瞳が、ぽっと揺らいで。
「ありがとうございます、ケトス様」
おやすみなさいと、言い残し、彼女は部屋を去った。
さて。
彼女のいなくなった部屋。
静まり返った寝室。
私はこれから、とても大事なことをしなければならない。
本来の猫の姿に戻り。
魔力で身体を浮かし――決意を込める。
爪を磨き、牙を尖らせ。
私は目を見開いた。
バリバリバリ! もしゃもしゃもしゃ!
そう!
マーガレットが予定よりも早く退室したおかげで、お菓子が大量に余っているのだ!
にゃっはー!
独り占めだにゃ!
テーブルに乗って、大魔帝たる偉大さを象徴する直接の皿食いである。
ぐでーん、ぐでーんと脚を伸ばし皿の上で横になってボリボリボリ!
これ、前に一度やったらクセになってしまったのだ。
うむ、我の天下である!
夢中になっていて気が付かなかったのだが。
「えーと、すみません。明日のマーガレットさんの出立の時間をお伝えし忘れていたので……戻ってきたのですが」
困ったような声が私の猫耳を揺らしていた。
どうしたものかと固まっているナタリーに。
私はチョコスティックを口に銜えたまま、ふっと微笑を洩らした。
『そうか、ありがとう――』
「やっぱりケトスさまは――ケトスさまなのですね。ふふふ、それでは、今度こそおやすみなさい」
彼女は心から笑っていたし。
まあ、いいか。




