炎帝の挑戦 その1 【SIDE:ジャハル】
◆◆【SIDE:ジャハル】◆◆
「――……っ……、………………!!!!!!!!!」
喉の奥から、空気が漏れる。
炎帝ジャハルは身の内から湧き上がる汗に動揺していた。
ぎりっと唇を噛む。
――なんだこの瘴気は。
自分が責められているわけではないのに、顔を上げられなかった。
『なぜ脆弱なる豚ごときが我が主を侮辱できる?』
黒の魔獣の穏やかな声。
感情を感じさせない静かな声での淡々とした問い。
膝の上で丸まっていた猫、駄猫だと思っていた大魔帝ケトスが、ただ一言、そう囁いただけで空気が死んだのだ。
それはまるで教え諭すような、徳の高い敬虔な僧侶を意識させる温和な音だった。
けれど。
死を間近に感じさせる黒い声。
これは魔力を孕んだ魂の言葉。
公用語を介して言葉にする発声法ではなく、魔力のみで会話を成立させる上位存在のみが行える会話方法だ。
魔力の会話はその発する者の力に左右され、大きく変動する。
――これが……あの駄猫……っ、だと。
部屋全体に拡がったのは濃厚な死の香り。
憎悪と怨嗟の魔力の渦が形ある力となって円卓の間に充満している。ただ魔力会話を実行している、それだけで全てを黙らせる威圧感を放っていたのである。
円卓の上に。
闇がいた。
とてつもなく大きな憎悪の塊が蠢いていた。
ジャハルはごくりと唾を飲み込む。
今、動いたら死ぬ。
きっと皆がそう感じているだろう。
静寂が空間を支配する中。
瞳だけをようやく動かしたジャハルが瘴気の中心を確認する。
まず足が見えた。
獣の足だ。
尻尾が蛇のようにズッズッズと揺れている。
明らかに激怒している。
怒りの魔力を孕んだ体毛の全てが、豪槍のように猛っている。
なのに。
静かだ。
恐ろしいほどに穏やかなのだ。
そこから先は――見る勇気が出なかった。
瞳が意思に逆らって、逃げる。
どこまでも、逃げる。
逃げる。逃げる。逃げる。
どこまでも逃げてしまう。
――直視……できねえ……っ。
息を呑むことがこれほどまで難しいと、彼は今、初めて知った。
静かな怒りの魔力を感じたジャハルはガタガタと震える歯をぎりりと噛み締め、己の矮小さと浅慮を後悔する。
――なんだこりゃ、ありえねえ、聞いてねえ。こんな化け物がこの世界に存在するなんて、オレは……。
知らない。
身の内から燃え続ける精霊。
炎帝とまでも言われる彼が汗を発したのは何年ぶりだろうか。
額から伝う汗が、瞳の業火に焼かれ蒸発する。
先ほどまではただ手触りの良い猫先輩を撫でているだけ。
握りつぶしたらそのまま息絶えてしまうほどに弱い生き物だと思っていた。
だが。
――違う。
ジャハルは不思議に思っていた。
いくら魔王様の飼い猫とはいえ、おこぼれで勇者を倒し最高幹部に入り込んだとはいえ、所詮はコネ魔族。
猫魔獣ごときに平伏す道理はない。
弱者に従うのはありえない。
それは魔族の本質。
いわば本能。
平伏はそれを裏切る行為だと感じていた。なのに皆があの猫に忠誠を誓う。最強を誇る古参魔族すらも心からの忠誠を捧げているのか、それが分からなかった。
気に入らなかった。
それにだ。
ただの猫魔獣である彼が戦場に駆り出されるのは哀れだとそう思っていた。
ジャハルは常々思っていたのだ。
強者は弱者を守るべきだと。
猫魔獣は弱き生物だ。彼の故郷でもその狩りやすさから人間の冒険者に狩られ、毛皮にされていた。エサにすぐかかる。人間を信用しやすい。温かい場所にもすぐ群がる。まさに恰好の的なのだ。
その猫魔獣が幹部。
最高幹部という危険な席に就けているのは我慢ができない。
もし無理をしているのなら、もしその座に自惚れ、引くタイミングを失っているのなら、自分が挑発し退いてもらうのが本人のためだ。
だから挑発した。
これ以上、弱き者が死ぬ姿を見たくない。
そういう意図もあった。
それに、自分の出世のチャンスでもあった。
おそらく大魔帝は権力に固執していない。猫は責任を嫌う。注目を集めることも嫌う。そう確信していた。
その証拠に、少し挑発しただけで大魔帝は辞任ともとれる意思を表明した。
全てが自分を主役にするための流れができていると感じていた。
事実。
思惑通りになった。
存在をアピールできた。
ジャハルには夢と決意があった。
魔王軍に保護され戦力増強する前の精霊族が、人間に魔道の道具として囚われ使役されていた時代。精霊族にとって暗黒時代と呼ばれた歴史が存在していたのだとジャハルは学んでいた。
二度とその時代を再来させないために、女の部分を捨てたジャハルは精霊族の英雄として力をつけたのだ。
力こそが正義だ。
まずは力がなければ始まらない。
だから、弱き最高幹部をどうにかしてやりたいと思ったのは本音だった。
自分こそが次代の魔王になるべきだと驕っていた。
しかしそれはとんだ勘違いだった。
――弱者どころじゃねえ……っ、これは……っ、この御方は。
……。
絶対に敵に回してはいけない。
底知れぬ闇だ。
……。
そんなジャハルの葛藤を知らずに。
黒の魔獣は音もなく歩き出す。
大魔帝として。
皆殺しの魔猫としての本性を覗かせたのだろう。
――なんだこの音は。
音がないのに音がする。
タン。
タン。
タン。
――円卓、オリハルコンが……壊れる音?
信じられないものを見た。
議論が過熱し机をたたき壊す者がいるからと、魔力を遮断する素材で作られた筈の円卓が、黒の魔獣が肉球を落とすだけで軋んでいく。
足音が怖い。足跡も怖い。
やがて。
憎悪の塊が口を開いた。
『何故だ。どうして豚ごときが我が主、魔王様を侮辱できた、分からぬ。我にはどうしてもそれが分からぬ。答えよ、脆弱なる豚の神よ。答えよ、魔族であるなら力で主張を示せ』
はやく謝れ。
詫びろ。
命乞いをしろ。
圧し潰されるようなプレッシャーの中、ジャハルは愚かな当事者に、念じた。
けれど。
オーク神は答えない。
いや応じようと口を開くが、それが言葉になることはなかった。
人間の皮膚を裂くオークの牙が、がたがたと震えている。殺される直前の家畜のように揺れている。
答えられないのだ。
あまりの恐怖に、全ての行動がキャンセルされてしまうのだろう。
これはあまりにもレベル差の離れたモノと相対した時の現象だ。まだ駆け出しの人間冒険者が己の力量を過信し、身の丈に合わぬ相手と敵対してしまった時と同じ。
恐怖。
強者はただそれだけで相手の全てを奪うことができる。
それを猫魔獣が、やっている。
部族の神と崇められ、人間からも畏れられるオーク神をムシケラのように眺めている。
恐怖に負け、目を瞑ってしまった。
見たくない。
見たくない。
見たくないが。
ジャハルは薄らと瞳をあけた。
魔王の座を目指す者がここで逃げていいはずがない。
円卓の上。
異形な猫が、見ていた。
神獣を彷彿とさせる黒々とした四つ足の獣が、ただ静かに豚を見ていたのだ。
その背。猫の背後にはこの世界にあってはならない量の憎悪の塊が、魔力となって浮かんでいる。
これが百年前、勇者を殺した伝説の魔獣。
皆殺しの魔猫、殺戮の大魔帝ケトス。
『なぜ何も言わぬ、何故答えぬ、人に憧れ、人を真似た亜人類。太古より存在せし豚の神よ。何故。何故。貴公は我の問いに応えぬ? 脆弱なる我に怯えるようなムシケラ以下の塵芥が何故偉大なる魔王様を侮辱できた? ああ、分からぬ』
闇の獣は魔王を侮辱したオーク神の前に鎮座すると、
『くく、くははははは! なんだその貌は。そんなに怯えないでくれ。分かった。大丈夫。安心しろ。深呼吸だ。はい。そうだ、いいじゃないか。落ち着いたな。さて、ではもう一度だけ問おう。どうして我が主を侮辱した?』
黒の魔獣の吐息が空気を裂く。
『仕方ない。魔族のやり方で話し合おう。その方が手っ取り早い。豚よ、貴様も魔族ならば我に歯向かって見せよ』
刹那。
オーク神のいた空間がぐにゃりと軋んだ。
「う、ぐ、あ、ああがががががががががが!!!!!!!!」
周囲は皆、ぞっとした表情でその悲鳴を聞いた。
皆が皆。
自分が殺されるわけでもないのに手を震わせ、目を泳がせ、下を向くことしかできなかった。
なぜあのオーク神が答えないのか。
黒の魔獣は本当に理解できていないのだろう。
ぎしりと歪んだ真顔を傾げ、赤々と照る瞳を鋭く尖らせるばかり。
哀れに潰される豚はようやく、言葉を絞り出した。
「あ、あなたさまにこ、心からの忠誠をちか……」
『我に忠誠を誓うと?』
「は、はい!」
それは。
誤った答えだった。
彼の出すべき答えは、魔王への忠誠。
闇の中で瞳だけが赤く光る。
酷く冷たい眼差しだった。
声が、続いた。
『違えるなよ、豚。貴様が忠誠を誓うのは魔王様の筈だ』
それは。
道化であったあの猫から出たとは思えない程、昏い唸りだった。
これがこの魔獣の本性なのだろう。
伊達で最高幹部になったのではない。
コネで最高幹部に上り詰めたのではない。
憎悪。
怨嗟。
凝縮された恨みの感情だけが原動力の力強き魔獣。
コレは。
全てを瘴気で包み込めるほどに禍々しい闇そのものだ。
この闇は。
魔王という絶対的主にしか従わない暴走する力そのもの。
炎帝ジャハルは思った。
もしあの時。
大魔帝が魔王様を好きかと問うた時。
答えを間違っていたとしたら――。
ぞっとした。
重圧が背中を押す。
意識をしないと魔力を取り込む呼吸ができない。
初めて死を意識した初陣よりも、恐怖した。
それでも悲鳴を上げずにいられたのは自分が幹部の座まで上り詰めた英傑だからか。
もし過ちを犯していたら。
――潰されていたのは、カエルのように惨めに潰れていくこいつではなく、オレだった。