大司祭アイラの祈りと影 ~ピザはあつあつチーズに限る~
その日、大司祭アイラに仕える護衛部隊、影の一人。
包帯で見せられぬ貌を覆い、闇に生きる影の男は人影のない食料倉庫の片隅で待っていた。
大事な。
そう、とても重要な。
約束があったのである。
約束の相手はあの大魔帝ケトス。
歴史に名を残す実在する大魔族。荒れ狂う魔猫、殺戮の大魔帝。
そろそろ約束の時間なのだが。
そう思った、その時。
ザアアアアアアアアア……。
空間が、歪み。
「大司祭の忠実なしもべよ。どうやら待たせたようだね」
声と共に突然、あの強大な魔は現れた。
もっきゅもっきゅと肉球音をたて、それはやってきた。
一見するとただのふてぶてしい黒猫。しかしその魔力は計測することすら出来ぬほどに膨大だ。
影は大魔帝に跪き、礼をした。
「いえ、既に手筈は整っております」
「うむ、よろしい。では術を授けよう――」
言って大魔帝は肉球を鳴らした。
影の男の身に、膨大な魔術構成と発動理論が刻まれていく。
大魔帝の魔術。
ピーナッツから中身だけを奪い取る術。
相手の装甲を無視し、中の身、すなわち人体を抉り出す禁断の魔術。
魚の骨を柔らかくする術。
相手の骨を糸の如く脆くする、すなわち、対象に骨さえあればどんな強靭な相手でさえ効き、戦闘能力を大幅に奪う邪術。
あるモノと引き換えに。
この二つの禁術を大魔帝に授けてもらう予定になっていたのだ。
習得さえしてしまえばかなりの強敵だとしても打ち破ることが可能だろう。流石は現存する最強クラスの魔、大魔帝の力といったところか。
無論、知り合ったとはいえなんの代価もなく教えてもらえるわけではないが。
その邪術の継承条件が、これ。
「これでよろしいですか?」
「にゃほおおおおおお、ピザじゃああああああ!」
とある小さな町。そのギルドマスターであるダークエルフが最近になって売り出したという名物料理。
ピザ。
パン生地に似た土台にチーズを塗し、乾燥肉や野菜、果てはフルーツまで乗せて特製の窯で焼く独特な料理である。異界からの転生者が発案したという噂もあるが、真意のほどはわからない。
けれど、その味だけは保証されていた。
大魔帝に出していいほどの味なのかどうか、先に、一度確認させたからだ。
独特な紙製の包みをパカりと開き、目を輝かせ大魔帝は唸る。
にゃっは! にゃっは! にゃっほーい!
どうやら気に召した頂いたようだと、影は安堵の息を吐く。
「どうした、お前も食べんか」
「よろしいので?」
「こういうのはね、囲んで食べるのが一番なんだよ」
亜空間から猫毛を汚さぬエプロンの前掛けを召喚し、大魔帝はピザを食す。
チーズのとろけ具合を確認し。
剣技の達人でもある影の目からも追えない速度で、爪を一閃。
ピザが見事に均等の八等分に分かれた。
その妙技は神の領域に違いない。
魔術でも、武術でもおそらく一生届く場所にない領域だ。
ただ。
猫の身体なのに、その食欲はすさまじい。
大量にピザを用意しておいて正解だったと、影はほっと胸をなでおろす。
「どうして、あなたの魔術を教えて頂けたのでしょうか」
「ん、だってピザ欲しかったし」
大魔帝はあっさりと言ってのけた。
嘘を言っている気配はない。
これほどの凶悪な大魔術も大魔帝にとってはピザと同じ価値程度のモノにしかすぎないのだろう。
影は多少の呆れを覚えながらも、思わず言ってしまった。
「教えてもらっておいて恐縮ですが、あなたの邪術は強力過ぎる、人間が手にしていいレベルの術ではないでしょうに」
「君、大司祭さんを守りたいんだろ」
声は、とても落ち着いていた。
バグバグ、むっしゃむっしゃ。パリパリパリ。
こんな咀嚼音さえなかったらきっと、もっと、心に刺さっている声だと影は感じた。
「それは……はい」
「私にはね、とても大事な主がいた。けれど、守れなかった。守り、きれなかった――だからかな、君にはそういう思いをして欲しくない」
影は感じた。
思わず息を呑んでいた。
大魔帝の横顔は、まるで悟りを開いた僧侶、酷く高潔な人間のように思えたのだ。
この方は。
道化にみえるその裏で、どのような思いを抱いて生きているのか。
影は思った。
自惚れは承知していたが。
主人を想う自分の心が――大魔帝の心を揺らしていたのではないか、と。
守れなかった。
その言葉の重みは影の胸を僅かに軋ませた。
「絶影よ、これはなかなかに美味ではないか。偉いぞ、貴様。人間にしては褒めるべきところがある」
「絶影?」
「お前の名前だ。名がないと言っておったからな、勝手につけさせてもらったぞ。超かっこういいだろう?」
大魔帝は心底ドヤ顔である。
ヒゲはぴんぴんで、尻尾はもふっと歓喜に膨らんでいる。
よほど自信があるらしい。
ありがとうございます、と礼を言おうとした、その前に。
何者かの影が近づいていた。
常人ならば、いや並み以上の使い手であっても気付かない距離ではあるが。
「おや、誰か来たようだ」
大魔帝もその気配を簡単に察していた。
やはりとんでもない御方だと影は内心、肝を冷やす。
もし敵対していたら、絶対に……敵わないと。
大魔帝はピザの包みを魔力で浮かせると、自分もまた宙に浮かび亜空間を生み出す。
「いかれるのですか?」
「ああ、また騒ぎになっても面倒だしね……私も勝手に抜け出したって、めっちゃ怒られるし……」
肉球に、じとじとと汗が浮かんでいる。
これほど強大で絶対的な大魔帝を怒れる者がいるのかと、影は苦笑してしまった。
魔族との戦争など、起こすものではない。
「いつでも、きてください。ご指定がありましたら名産物を用意しておきますので」
「それは素晴らしい。じゃあピザは君達の分の一箱だけ残して全部貰っていくからねえ。にゃっはああああああ!」
大魔帝は世界最高峰の結界すらもすり抜け、消えていった。
本当に、常識が通じない存在なのだろう。
大魔帝が消えた部屋。
そこに訪れたのは――。
「……!」
大司祭アイラ。
絶影と呼ばれたこの影の恩人。何があっても守ると誓った生涯の主であった。
大司祭アイラは清楚な美貌で周囲を見渡し、影に向かい小さく優しい笑み……挨拶をして見せる。
「ごめんなさいね、突然来たりして」
「これはアイラ様。なにか御用でしょうか」
「いえ、なにか明るい邪気の波動を感じたもので――」
周囲を探るアイラ。
言うべきか。言わぬべきか。
影は迷った。
あくまでも可能性の話だ。
もし大司祭アイラの周辺に裏切り者がいるのだとしたら、必殺の邪術を習得したことを知らせるわけにはいかない。
これは主人を裏切るためではなく、忠義のための迷いなのだ。
「まあ、それは」
「俗世の食べ物。ピザでございます」
しばらく、外をそっと覗いて。
アイラは小声で、影の耳元に口を寄せた。
「あの……その……わたくしも、いただいてよろしいでしょうか?」
身近にかかる聖女の息が、包帯の隙間の眼光を僅かに動揺させる。
「無論でございます。では、自分はこれにて」
「待って、いっしょに、いただきましょう?」
「しかし」
主人は従者を引き止め、微笑んだ。
「だって二人でいただいた方がきっと、美味しいでしょうし。しぃぃぃぃ……あ、これで共犯ですからね!」
大司祭アイラが無邪気に笑う。
影である自分に、微笑みかけている。
案外に強引な主人は影の手を取り、座り込む。
「さっそく、頂きますね――まあ! おいしい! ほら、あなたもお召し上がりにならないと全部たべてしまいますわよ」
「いえ、自分は――」
「いけませんよ、これはなかなかに栄養豊富過ぎる食料の様です。あなたは女神さまに御遣いする大司祭を太らせる気なのですか?」
冗談めかして、笑っている。
いつか見た。
見てはいけない憧れの情景。
これは――。
影は、思った。
もしかしたらあの大魔帝は気を遣って――。
影はピザを口にした。
「美味しい、ですね」
「ええ、とても」
真相は分からない。
けれど結果として、こうなった。
絶影と名付けられた彼は天を仰いだ。
大魔帝の魔術はその信仰心が深ければ深いほど、効果を増す。ならば、きっと。
どんな敵でも、打ち破る力が出てしまうだろう。
と。
彼はきまぐれな猫に対し、深い感謝を心に刻んだ。
その日を境に、影は絶影と名乗る事となった。
その名付け親があの殺戮の魔猫、大魔帝ケトスであることを知るものはいない。
けれど。
「ふふ、あの方は――本当に人間を誘惑するのが、御上手なのですね」
大司祭アイラだけは。
――……。
アイラは絶影と名乗り始めた影を見た。
いつもと変わらぬ無愛想。
けれど、どこかが変わって見える。
まるであの日の自分の様に……きっと、無邪気な悪戯心に救われたのだ。
アイラは黒の聖母像を眺めた。
そして、祈りを捧げた。
「あの方は、またどこか遠い場所。もしかしたらここではない別の世界。自由に散歩なされて――気まぐれに人をお救いになるのでしょうね」
大魔帝ケトス。
魔でもあり、神でもある大いなる存在。
願わくは、その気まぐれが誰かの救いになっていますように。
アイラは祈った。
「どうか皆さまが平和な日常を送れますように」
幕間2
ピザはあつあつチーズに限る ―終―




