【SIDE:ラヴィッシュ】路地裏の記憶と港町防衛戦
【SIDE:ラヴィッシュ】
奇怪な音に導かれ、彼らは教会を飛び出していた。
そして思わず。
ばっと空を見上げていた。
まだ三時過ぎだったのに、黄昏色の空へと変貌していたからである。
次元の狭間で、なにかがググググっと蠢いているのが見える。
見習い魔女の少女――ラヴィッシュは奥歯が見えてしまう程に口を開いた。
「なによこれ!? 夕方!? 街が歪んでいるの……っ?」
『ホワイトハウルの結界さ。被害を最小限に食い止める神の奇跡だね――。彼が結界を維持している間に、敵を片付ける。すまないが手伝っておくれ!』
言われるまでもない。
少女は魔導の杖をくるりと回し――詠唱する。
「――――の風よ、我が駆ける道筋に汝の加護を与え給え。お願い、力を貸して!」
詠唱と祈祷により生まれた風が、少女の足を瞬足へと変える。
風のように駆ける少女は考える。
向かう先は狼でも鶏でもない魔力の発生地点。
おそらく……。
もう、だれかが既に戦っている。
トランプにそっくりだと評判な、王陛下の命令で配置されている家臣。
街の衛兵と騎士団だろう。
敵の気配は……魔導の杖から映像を受信する。
「サカナヘッドに……うわ、なによこれ。貴婦人……って! タコ足の女魔術師?」
映像に移っていたのは、豪奢な日傘にパーティ用ドレスを纏った微笑を湛える貴婦人。
なのだが。
その下半身からはウネウネぬめぬめと、湿ったタコの足が踊っているのだ。
衛兵と騎士団相手に巻き付いて、水属性を主体とした毒の魔術を放っていた。
駆ける少女と並走する神父ケトスが映像を覗き込み。
『風属性の元素魔術。効果は進行速度の向上だね、悪くない魔術だ。そしてそれは遠見の魔術か。この世界ではまだ私達は発現できていないから、うん、頼りにしているよ。街が襲われているようだし……少し急ごうか、ついてきておくれ――!』
言って神父は強化された少女の健脚を追い越し、ズバシュゥゥゥゥゥン!
その神速は正に光。
魔術強化された少女の速度をはるかに勝るスピードで、黄昏の街をズカカカカカ――ッ、と走り抜ける。
剥がれる石畳と土煙を少女は追い。
猛ダッシュ。
全速力で息を切らしながら言う。
「あぁああああああああああぁぁぁ! ちょ、ちょっと!? 待ちなさいよ……! 早すぎるわ、あたしにはついていけない!」
『仕方ないね――少しの間、我慢しておくれ』
告げた神父は少女を腕に抱き――。
「え? ちょっと!」
『あまり喋ると舌を噛む。気を付けておくれよ』
少女のボサボサの髪が、疾風に揺られてさらに膨らんでいた。
スタタタタタタ!
神父は少女を抱いたまま、石畳を掻き分け尋常ならざる速度で、街の闇を駆けだしたのだ。
これがお姫様抱っこなら、乙女の中にときめきも生まれたのかもしれないが。
どちらかというとタルを抱えて走るような姿で――。
(なーんか、情けない格好だけど……仕方ないわよね。それにしても、こうやって街を駆けるのって初めての筈よね? 初めての筈なのに……)
なぜだろうか。
少女は妙な既視感に襲われていた。
ずっと昔。
こうやって――誰かと狭い路地裏を駆けた記憶が、おぼろげながらに浮かんできたのだ。
少女の意識が、まどろみの中に落ちていく。
◆◆◆
それは誰かに追われていた記憶。
太々しい顔をした誰かと共に、人間から逃げていた記憶。
何故だろうか、少女の脳裏には自分の手が焦げたパンの色のように見えていた。
それはまるで――。
そう。
猫の手のようだった。
よく分からない記憶だった。
けれど、妙な現実感があった。
もしかしたらそれはずっと昔。まだ人間として輪廻を迎える前の、既に失った魂の記憶の残滓なのかもしれない。
少女は記憶にない記憶を思い出す。
酷く冷たい世界。
路地裏の隠れ家。
ゴミのように千切れた自分の身体を、必死で舐め。
温めようとする黒い何かがいる。
もう既に自分は死んでいるのよ? そう語りかけようとしても、返答はない。
なぜなら自分は死んでいるからだ。
(ああ、これは……たまにみる夢ね。なんで今、思い出しているんだろう……)
自分を大切にしてくれていた黒い何かは、毎日毎日鳴いていた。
もはや動かぬ自分に、狩った獲物を置いてくるのだ。
そして、にゃぁ……と鳴く。
何度も何度も。
にゃぁ……と鳴く。
たまに腕を銜えてみて持ち上げて。
力なく、ペシャンと落ちる冷たく硬くなった自分を見ている。
またにゃぁ……と鳴いた。
死体となった自分が、魂となったネコが言う。
あなたって本当にバカなネコね。
最初からそうだった。ネコのくせに人間みたいなことをしだしたり。
かと思えば、ろくに狩りもできなくてネコとしては失格。
ああ、本当にバカ。
どうして人間みたいに賢い事もできるのに。
あたしが死んだって事を理解できないのかしら。
あーあ……ほら、そんなに舐めたって。
温めたって無駄よ。
もうあたしは死んだの。二度と動かないわ。
もうあなたと一緒に逃げる事も、ご飯を食べる事も、笑う事もできないの。
どうしてわからないの?
あぁああああああああああああぁぁっぁあ! しまいには怒るわよ!
もう、死んだの!
そんな顔をしたって駄目よ。
どれほどに温めても、もう冷たい身体は治らないの。
なのに。
あなたはどうしてそんなに、悲しい顔をして鳴くのかしら。
ああ、本当に、あなたってバカなネコね……。
バカなのに偉そうで、バカなのに賢い時もあって……。
バカなのにあたしに優しくしてくれた。
だからあたしは――。
(あなたのことを……――)
いつもの夢だった。
けれど、妙に今日は鮮明だった。
夢の中の黒いネコは、いつの日かその瞳を赤く染めていた。
世界を、全てを睨むように、呪うように。
憎悪するように。
人間にゴミのように捨てられたネコの死骸。
焦げパン色の手をしたネコの死骸。
ネコを眺め。
彼は全てを憎悪した。
時間は流れた。
記憶の中を泳いでいた少女は、なぜだろうか。
深い深い眠りの中にいた。
長い間、本当に……それこそ五百年ぐらいはそこにいたのではないだろうか。
魂の奥、生まれてくる前の記憶……なのだろうか。
声がした。
兄弟だろうか、二人の神が何かを喋っている。
ノイズのような声だった。
力なき魂の転生は……基本的に……不可能。
けれ……ど。
お前さんの夢の中ならば……。
しかし、無防備に……。
それでも……ワタシは……あの子の……。
そう……か。なら俺様の力を貸して……。
ありがとう、兄さん……。
ケトスには伝えて……。
いや、もし不可能だった場合……ぬか喜びをさせる……だけだ。
不意に、意識が浮上した。
声が――したのだ。
◆◆◆
まどろみの中に落ちていた少女は、はっと我に返った。
ここは路地裏だ。
けれど、あそこではない――。
神父の腕の中にいた。
まだ駆けている途中だ。
(あたしはラヴィッシュ。オハラ先生の弟子の……そうよ、なんだったのかしら、今のは――神父の魔力に中てられた?)
悩む少女に、道を駆ける神父が問う。
『大丈夫かい? 気分が優れないのなら私一人で現場に向かうが……』
「いえ、なんでもないわ――遠見の魔術が使えるあたしがいないと困るでしょ? まあ、こんな速度は初めてだからちょっと混乱しているみたいかも」
強がりではなく本当に平気だと、少女は目線で訴える。
神父は了承し、少女が案内する道筋を駆けた。
『あと少しで顕現現場につく、我慢しておくれよ!』
「ええ、分かったわ!」
ズジャジャアッァァァァァァ!
跳躍した神父が着地したのは、船が並ぶ港。
既に戦闘が開始されている。
革靴の焦げる摩擦臭がする中。
瞬時に動いたのは見習い魔女のラヴィッシュだった。
「風を使って着地するわ! 襲われてる騎士団の前に投げて!」
『死なないでおくれよ!』
潮風を肌に受けながらも少女は神父の腕から飛び出し、魔導の杖を翳す。
同時だった。
神父が少女の身体を風に乗せる形で――解き放つ。
ぶわぶわぶわ!
ボサボサの髪を揺らし――少女は口の端をつり上げる。
顕現した火属性の魔導書が、港の風を受け開かれる。
「偉大なる火の異神、――――――。彼の神より産み落とされし同胞よ。我等の祈りを聞き届け給え! お願い、力を貸して!」
詠唱で生まれた灰色の炎。
冷気さえも凍らせる焔の氷が、ビギギギギギ!
周囲に散っていた水と毒を瞬時に凍り付かせる。
焔での熱攻撃は周囲の味方、騎士団までも焼いてしまう恐れがあった。
更に毒を火によって飛ばしてしまうのは愚策。
ならばと、凍らせる手段を取ったのだが――。
サバシューン!
海から弾丸のように、何かが飛び出してくる。
彼らはぎょろりとした瞳で周囲を眺め――べちゃべちゃ。
ヌメヌメな口で、詠唱を開始。
いあいあ! くとぅるふ、ふたぐん――!
いあいあ! くとぅるふ、ふたぐん――!
いあいあ! くとぅるふ、ふたぐん――!
強化バフなのだろう。
神を讃える賛歌をもって、自らの水死体のような腹に魔術紋様を描き出す。
「サカナヘッドの追加顕現!? もう、勘弁してよ!」
サカナヘッドの群れを凍らせても、すぐに海からサバーンとサカナヘッドが補充されてしまう。
ならば、先にタコの貴婦人魔導士を倒すべきか。
探すも身体を霧にでもしているのか、正体も場所も掴めない。
「神父! 毒は凍らせたけど、水の侵食は止まってない! 海が近くにある限り、こちらが不利よ!」
『そのようだが――。ロックウェル卿は……、ダメだ。避難した怪我人の治療で手が離せないようだね。となると――』
神父は考え、少女に手を翳す。
『今詠唱した君の書を私に!』
「なにをするつもりなの!」
問いかけに、邪悪な笑みを浮かべた神父ケトスは影の中から魔猫の声を漏らしていた。
『海が機能できなくなればいいのさ』
「……。って、ちょっとまさか!」
制止するよりも先に――神父の影が伸び。
くくく、くはははははは!
巨大な魔猫の哄笑を上げ始める。
『汝――その真名は、アフーム=ザー! 我が呼びかけに答え、この世、全てを凍てつかせる憤怒の炎となり給え。さあ、力を貸そう。私と共に、君の憎悪をぶつけてやろうじゃないか!』
ふふふふ、ふははははは!
その姿はまるで悪役そのもの。
味方であるはずなのに、騎士団からはものすごい目で見られている。
次の瞬間。
灰色の焔が、海を――撫でた。
ビギ、ギギシシシシイイイィイイイイイイイイィィッィィィ!!!!
海は一変。
水平線の彼方までの銀世界。
海が氷の世界へと変貌してしまっていた。
当然、騎士団は腰を抜かし。
サカナヘッドは海ごと氷結。
戦況を一回の魔術で覆してしまう魔術の使い手に、皆の視線は集まっている。
神父は魔導書を、大きな手の平の中でパタン。
優雅に閉じ。
皆に向かってこう告げた。
『遅くなってすまないね、私はケトス――見ての通りの、異教の神父さ。人間諸君。助けに来たよ』
ダークヒーローの登場といったところなのだろうが。
何人か、騎士団も氷に巻き込まれているので、怯えの方が勝ってしまうようだ。
死に至るほどの氷結ではないので、後遺症などの問題はないだろうが。
衛兵も騎士団も困惑気味である。
ここでラヴィッシュが仲介するべきと、動き出す。
だが、その前に――。
くわっと猫のように髪の毛を逆立て、少女が唸る。
「いきなり何するのよ! これじゃあどっちが敵か味方か、分からないじゃないのよ。もう!」
あまりにも突然な大魔術に、少女が抗議をした。
次の瞬間。
空気が、どんよりと湿り、おどろおどろしい瘴気が周囲を包み込み始める。
「なに……あれは……敵?」
『まあ、味方には見えないね――そもそも私の魔術で凍っていない。その時点で異形なる存在だろうさ』
くるりくるりと傘が回る。
それは濁流色の闇だった。
闇の渦の中。
女だろう。
声が――した。
「真なる名を解放しての魔術解放? あらあらまあまあ! 名前を言ってはいけない方々の名を告げてしまうほどの狂人。あなた……だれ? 敵、よね? 敵ね、敵かしら!」
凍り付いた銀世界。
船も凍る港。
そこには――異形なるナニカがいた。
氷海の上に佇み……グジョリグジョリ。
タコの足が蠢いている。
豪奢な傘を差した、貴婦人だった。
貴婦人は濃い口紅をブチュっと上下させ、優雅な笑みを浮かべている。
美人かどうかは――不明。
なぜならばその貌は歪だった――コウモリの羽にも見える傘の下。覗く淑女の顔に、六つの瞳がギラついていたからである。
神父は言った。
『なるほど、君が今回の襲撃の指揮官だね』
「ええ、そうよ! さあ、強い人! わたくしと一緒に遊びましょう!」
平然と会話をする神父と貴婦人。
けれど、それを眺める人間達の目は、違う。
平然とは真逆だった。
タコ足の貴婦人。
その異様な気配は……毒そのもの。
人間ならば、誰しもがこの恐怖を感じ取っただろう。
少女ラヴィッシュもまた、杖を握る手を震わせていた。
明らかに――レベルが違う敵だ。
そんな直感が、少女の足を竦ませていたのである。




