戦争、女神の双丘にて、その2【三人称、教会軍視点】
【SIDE:教会軍】
「大魔帝ケトス……。あの混沌の降臨だ……、と!」
司教の漏らした絶望の言葉。
その意味に気付いた教会軍の視線が、一挙に押し寄せる。
ざわざわざわ!
全員が戦場に蠢く闇の猫を目に焼き付けた。
「大魔帝……ケトス、だと!?」
「ひぃ……っ――、さ、殺戮の魔猫!」
「荒れ狂う混沌の君……、おしまいだ……もう、なにもかも破壊される!」
存在を消された聖騎士とは別の男が悲鳴を上げる。
恐怖は伝染していく。
一人が悲鳴を上げると、混乱は瞬く間に広がった。
帝国軍は好機と見たか。
その一瞬のスキをつき。
皇帝が名乗りを上げて支援魔術を展開しようとする。
「神を騙る反徒どもよ。心して聞け! 我はバラン帝国が皇帝、ピサロ=マルカッツ=バランティーヌ。統治者たる余の名の下に貴様らの首を――」
が。
その言葉を遮って、高らかな声が響く。
女騎士の魔力ある鼓舞だ。
「続きなさい! 臣民よ! 教会の圧政に苦しめられた誇り高き民たちよ! 苦しみ耐え抜いたその心を、神はどこかで見ておいでなのです! さあ、今こそ我らの正義を神に示す時です! 正義は我らにあり! 我らが神を我らの手に取り戻そうぞ!」
続いた白百合騎士メンティスの号令に従い、怒声と勝どきが響き渡る。
白銀の剣が天の輝きを浴び、神々しく照る。
聖女さながらの女騎士を先頭に、民と正規軍は突撃した。
賢者が民たちの進行速度を風の支援魔術で強化する。
完全に一致団結。
皇帝は掲げた自らの手を、さびしそうに眺めていた。
教会軍は焦った。
大魔帝ケトスに、軍と民を巧みに扇動する女騎士。
異界魔術を操る賢者。
地味ながら強大な支援魔術を扱う皇帝。
もはや勝ち目はない。
どうする、撤退するか。
いや、もはや簡単には逃げられまい。
悩む司教。
――なぜだ、なぜだ、なぜだ!
そのぐにゃりとねじ曲がった視界に。
黒猫が映った。
その猫口がニィと歪につり上がる。
『やあ、久しぶりだね。お偉い司教さん。私から奪った魔道具の使用感はどうだったかな?』
はるか遠くにいるのに、声がした。
黒猫が見ていた。
ただじっくりと、紅い瞳をテラつかせ黒猫が見ていた。
「あの時の……当主代理、そうか……既に、あの頃から!」
『罠に嵌められるって、どんな気分だい?』
この距離なら。まだ、逃げられる。神の奇跡と魔道具を使い切れば、まだ。
その筈だったのに。
言わずにはいられなかった。
でっぷりとした身体を前のめりにし、司教は叫んだ。
「なぜだ、なにゆえ! 東王国に加担していた貴様が、今度は西の暴君ピサロに加担する!」
『君達は、やり過ぎたんだよ』
耳元で。
声がした。
すぐそこに、黒猫はいた。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!」
隊を守る聖騎士がパニックを起こして、叫んだ。
取り乱し、腕を振り乱し――戦場を逃げる。
「ひぃ、俺は! 俺は関係ないからなあ!」
「待て、この愚か者が! 他の者は列を崩すな、魔道具の結界を維持すれば大魔帝とて容易には近づけんはずだ!」
それでも逃げる聖騎士。
次の瞬間。
ズズゥ……。
逃げる聖騎士の足が平野の土の中に埋まっていく。
黒猫が大地を沼に転化させたのだ。
ふよふよと魔力で浮かんだ黒猫が聖騎士の顔を、じっと覗き込む。
『おめでたいね。まさか、大魔帝から逃げられると本気で思っているのかい?』
「たすけ……たすけて……っ」
『君は、そう願った民を何人殺した?』
血の様に燃える赤い瞳が怯え固まる聖騎士の瞳を見る。
「ころしてない……おれは、ほんとうに、できなかった……ころせなかった」
『へ―……どうだろうね』
「本当だ、しんじて、おねがいだ……しんじてくれ」
そこにやってきたのは。
クワを持った民兵。
「ケトス様! こいつか、こいつがオラの娘を!」
その瞳は憎悪で染まって赤く尖っている。
しかし。
黒猫は肉球でそれを制止し。
『ストップ、んー……あ、本当だ。たぶん君の娘さんを酷い目に遭わせたのはこいつじゃないね。この人は本当に一歩留まったまともな人間だ。何人か裏で人を助けているね――殺したら君の手が汚れるだけさ』
再び、ふよふよと宙に浮かび。
赤い眼から六重の魔法陣を展開し。
『君の仇はたぶんアレだね。あの赤髪さ。はい、支援魔術をかけるからちゃっちゃと仇をとってこーい、にゃははは! 人助けって気分がいいねえ』
筋力強化、魔力増強。速度上昇に一度だけ攻撃を必ず弾く絶対障壁。
黒猫はたった一瞬でそれら全てを同時に掛けた。
足を取られていた聖騎士は戦場の遥か遠く、安全な場所に転移させられている。
大魔帝が罪なしと判断し逃がしたのだろう。
格が違う。
いや、次元が違う。
これは神の領域だ。大いなる光にすらも匹敵する、絶対に敵に回してはいけない闇だ。
それなのに。
教会はそれを敵に回してしまった。
絶対に敵対してはいけない相手を、戦場に呼び込んでしまったのだ。
こんな闇に対抗できるのは。
司教は空を仰いだ。
暴虐を働いていた修道士たちも、一斉に空を見た。
神しかいない。
神に縋るしか、道は残されていない。
司教は膝を付き崩れたままの姿勢で、神に祈りを捧げた。
おそらく。
近年ずっとしてこなかった本気の祈り。
「神よ、主よ。汝のしもべたる我をどうか守りたまえ」
しかし、なにも起こらない。
少なくとも防御結界は展開される筈だ。
なのに。
なにも起こらない。
黒猫が見ていた。
キャンセルされた?
いや違う。
神が見ていたのだろう。
「なぜだ! なぜ神は我らをお見捨てになる!」
動揺が広がる。
黒猫が、にひぃっと嗤った。
『どうして公平であるはずの神が、不公平な君たちを助けようと思うんだい?』
「く、くるなああああああああぁぁぁああああ!」
司教の手から浄化の奇跡が無数に展開される。
高位アンデッドですら屠る司教クラスの最高位の技。
魔族が相手ならば少なくともダメージは通る筈だ。
それなのに。
光は……消える。
黒猫を包むが、なんの変化も起きない。
『だいたい、神がちゃんと人間を見ているのなら、今回の騒動も起きなかった筈さ』
「黙れ……っ」
ふーむ、と黒猫は上を見て。
「魔族ごときが、神を語るなぁああああ!」
『きっと――神はそこまで暇じゃないんだろうね、私と違って』
言って。
黒猫は司教の額に肉球を押し付けた。
ちょっとバッチィなあ、といった表情で。
黒猫の魔術なのだろう。
司教の行ってきた悪事が、映像となって空に映る。
どこまでも、どこまでも。
帝国全土の空に映像が拡がっていく。
女を殺した。
抗議しに来た男を殺した。その娘を弄んだ。
何回も。何回も。
何度、家族が壊れたのだろう。
何度、心が穢されたのだろう。
けれど。神の名の下に、それを握りつぶした。
神の信徒を名乗る司教は、家畜を弄ぶ感覚で人を弄び続けていたのだ。
さしもの信徒たちもここまでの暴虐は知らなかったのか。
信徒たちは一斉に、一点を見つめた。
ぎょろりとした眼光が司教に突き刺さる。
「司教様……これは、いったい、どういうことでありましょうか!」
「ちがう……これは。そう、黒猫のまやかし、まやかしだ! 幻術であると何故分からんのだ!」
疑いの眼差しが戦場となった平野、女神の双丘に拡がっていく。
その時だった。
黒猫は天に向かい大声を上げた。
『おーい、神ぃ。忙しいところ悪いんだけど、ちょっと使いでも寄越してくれないかなあ? こんだけ大規模な魔術を連発しているんだ、見てるんだろぉ! 早くしないと、私ィ、どんどん教会の不正を暴いちゃう気なんだけどぉ! 全世界に同時中継しちゃう気だけどお!』
その声に反応したのか、空が騒ぎ始めた。
次の瞬間――。
ゴオォォォォォッゥゥゥゥゥゥン!
天から、雷が降り注ぐ。
雷雨すらもないのに。
一条の雷が大地を貫いたのだ。
雷は大地を這い、魔力を伴った印を刻んでいく。
それは一種の召喚魔術。神の御業だったのだろう。
黒猫の挑発につられて、女神の双丘の大地に巨大な魔法陣が描かれる。
サアアアアアアアアアア!
召喚陣の中心から、白き煙が巻き起こる。
『まったく……人間界に我を呼ぶとは。ケトスよ、これは何の騒ぎか』
声が響いた。
獣の唸り声だ。
黒猫は召喚された相手を確認すると目を見開き。
ぎしりと瞳を尖らせ。
大魔帝ケトスとして言った。
『へえ、百年ぶりだね。元気にしていたかい、白き獣。元大魔帝ホワイトハウル』