エピローグ ―澄んだ青を知ったケモノ―
これは雷雨も去り、宴会も終わった翌日のできごとだった。
場所は学校。
ランチタイムが始まる前後の時間。
天は一面の青空。
正午の陽射しはそれなりに強く、猫毛をふんわりと温めていた。
望郷のライカ。
日常が戻った学園で、この日――私は彼女と話をしたのだ。
ミンミンミンミン。
セミも鳴き始めた夏は暑いし、ぐでーんと手足を伸ばしてしまうが――齧るアイスはとても美味しくて、お塩をちょっと振ったスイカもうまし。
まあ悪い所ばかりじゃない。
木陰でぐっすり眠るのも好きだし!
なによりもだ、流れる風を求めて納涼スポットを探す楽しみもある!
まあ、面倒になると氷魔術で一面を吹雪にしちゃうんですけどね。
ともあれ!
大輪のヒマワリの道を歩く私は、トテトテトテ♪
とあるワンコの縄張りへと、足を踏み入れていたのだ。
異能力者達を正義扇動によって巻き込んだ宇宙犬――。
ライカ=ノスタルジアくん。
彼女が、入り浸っている校舎の裏にある花畑に私はやってきた。
理由は話し合いの続き。
黄色いヒマワリ畑。
そこにはピクニックを楽しむ一匹の犬がいた。
天に向かいその顔を伸ばす大輪も、周囲に程よい木陰を作る樹々も――風に揺れている。
ちなみに今、他の生徒は一応常識を学ぶ授業中なので、ライカくんはおもいっきし抜け出してきているのだが。
まあ……。
彼女は他の転移帰還者とは違う……人間の一般教養には、あまり興味がないのかもしれない。
そよ風に任せたモフ耳を揺らし、私は彼女に語り掛けた。
『ノスタルジアくん、君を探していたんだが……やっぱりまたここでサボっていたんだね』
「あらぁ、先生~! おはようございますぅ」
あいかわらず、ほわほわほわ~っとお花畑を飛ばしている。
『おはようって時間でもない気もするけど……まあいいや。ちょっといいかな?』
彼女はわんわんガジガジ♪
骨おやつを齧りながら……こてん♪
折れた耳を揺らしながら――ワフワフ言う。
「なあにぃ、先生。わたし、今、骨を齧るのに忙しいんですけどぉ?」
ヨダレがお腹まで垂れて、べちょ~♪
抱え込むお菓子をギュ~!
夢中になっている彼女には悪いが、私は肉球で頬をポリポリしながら言う。
『ちょっと真面目な話をしたいんだ。もう少しだけしっかり……というか、キリッとした方の君を前に出せるかな?』
「望郷の魔性としてのぉ、わたしですか~? 構わないですけれどぉ、本当にぃ、いいのかしら?」
心配そうにする彼女に、私は自信をもってえっへん!
太陽に向かい首のモフ毛を輝かせ、ニヒィ!
『まあなんかあったら即対応! 必殺のワンワンおやつ召喚で眠らせちゃうから、大丈夫さ! 犬用のオヤツなら、私がうっかり食べちゃうって事もないからね!』
「犬用じゃないならぁ、食べちゃうんですか~?」
無垢な顔で聞かれてしまい、ついつい肉球に汗を浮かべてしまうのである。
『細かい事は気にしないの! 君に説明してもいいんだけど、君……私の話を聞いていられるかい?』
「んー……」
言われてワンコはしばらく考え。
骨おやつをガジガジ。
エヘヘ~っと誤魔化すようにワンスマイル。
「じゃあ。変わりますねぇ、わたしは……心の奥で、スヤスヤ……」
宣言した、直後。
周囲の風が止まり――。
ズゥゥウゥン!
代わりに一般人なら噎せる程の濃い魔力が、学園内を取り囲む。
魔性としての彼女が、目を覚ましたのだ。
『やあ、目覚めたようだね。気分はどうだい?』
「眠っていた所を起こされて、気分がいいと思います?」
折れた耳をぴょこり♪
ちょっと魔性なワンコが瞳を赤く染め――くすりと嗤い、膨大な魔力を放ちながら宙に浮かぶ。
……。
まあ、骨おやつも抱いたままなので、結構シュールだが。
犬の瞳が、私の瞳を見て。
犬の咢が蠢きだす。
「まあ、いいですけれど。ふふふ。もしかして一緒に世界を壊そうっていう相談ですか?」
『いきなり物騒なことを言わないでおくれ。ホワイトハウル辺りが聞いていたら、面倒な事になる』
これはまあ、いわゆる洒落になっていない言葉だ。
私はジト目で彼女のジョークを嗜める。
「あら、半分は本気ですよ? 先生だって、心の奥ではそういう感情だって残っているんでしょう? いつか破壊の衝動に支配されそうになったら、わたし、あなたの方につく気があるから……声をかけて貰ってもいいですよ?」
ワフフフフフ。
骨おやつをバリンとかみ砕き……彼女が尾をブンブンと振っている。
これもどこまでが本気で冗談なのか。
『はいはい。そういう邪悪な会議は止めようね、もし本当にそうなった時には頼りにするけど……って、そうはならないよ! 今は別に壊そうだなんて思ってないし! ていうか……君、大暴走していた時とも微妙にキャラ変わってない?』
言われたワンコは寝耳に水だったのか。
驚いた様子できょとんと折れた耳を揺らす。
尾も揺らしながら、んーと考えだし。
「そう、なんですかね。自分ではよく分かりませんが」
眉間をギュギュッとした私は鑑定の魔眼で、彼女をチェック。
ちょっとだけ、大人びた口調になっているのが気になる。
暴走していないか、確認したのだが……。
問題はなさそうだ。
『大人しいライカ=ノスタルジアくんの心と、魔性である君との魂が混ざりつつあるのかな……えーと、君の事はどっちの名前で呼んだらいいかな』
「そうですねえ。今はライカでいいですよ。ふふふ、色々な意味でお星様になったライカですね」
そう言われてしまうと、こっちはなんとも答えにくいのである。
ブスっとする私に、彼女は慌てて言う。
「ははははは、ごめんなさい! だって……先生、たぶんシリアスなお話をしにきたんですよね? こういう明るい話も必要ですよね? それに、ついでですけど! ほわほわなわたしが言っていた、オヤツを食べるのに忙しいって言うのも本当なんですよ? だって、つい油断すると……また、あの時のわたしになってしまいますから。だから、もー! 先生、こういうやり取りはどうでもいいんで、早く話を始めてくださいな」
こっちのライカくんは話が早くて助かる。
ほわほわワンコは可愛らしいが……ほわほわ過ぎて話がなかなか進まないからね。
『さて、話っていうのはまあ簡単に言うと――君のこれからの事さ。えーと、確認したいんだけど、君はまだ……真なる意味での望郷を果たしていない、そう考えているんだろう?』
「そうですね、機会さえあれば……またああやって、大きく動くかもしれませんね」
素直でよろしい。
『とりあえず、世界の崩壊は避けたい所でね……そういうの、しばらくは止めにしとかない?』
「あら? 先生は既に何度も世界を破壊しているのに……わたしにはダメだっていうんですか?」
犬の眉を、むぎゅっと不機嫌に尖らせ。
彼女は皮肉気にいう。
「伝わり聞いた伝承がどこまで本当なのか、わたしは知りませんけど……。惑星の終焉を招いた経験のある獣だって事は、ちゃーんと知っていますよ? だって。畏怖の魔性のペンギンさんから聞きましたし。先生、あのペンギンさんの世界を既に破壊しちゃってるんですってね! それも完全なる滅び! 事情があったのは知っていますけど、やはりそれは、とてもいけないことなんじゃないですかあ? そんな先生に言われても、説得力がないと思いません?」
流れ弾がこっちに飛んできたが、気にしない。
校舎から聞き耳を立てている一部の生徒の顔面が、ビギっと固まったが気にしない。
しかーし!
私はこんな論法に負けはしない!
冷静な顔のままで、肉球をみせる形で肩を竦めてみせる。
『それはそれ、これはこれさ。まあ、私の過去の破壊はとりあえず忘れて――んでさ、こっちから提案があるんだよ。君、一度冷静になるためにも――しばらく魔王城に来てみないかい? 異界にある素敵な城なんだけど、君を転生させた冥界神もよく遊びにくるから――ちょっと会わせてみたいかな~、とも思ってるし。次元と時間を門で固定してるから時間軸のズレも生じないし、こっちにも帰ってこられるし。どうかな?』
ちょっと興味があるのか、ワンコの眉間の皺が緩む。
彼女にとっては、おそらくレイヴァン神は恩人。
昏くて狭い棺桶の中から拾い上げてくれた、異界の神なのだ。
「考えてもいいですけれど、それよりも。先生……、本当にあの冥界神様を知っているんですか? あの神、最高神クラスの偉大な神様でしたよね? ウソなんじゃないですか?」
証拠を見せた方が早いか。
頷いた、私は肉球の先から映像を投射!
冥界で本気モードになっている状態の、お兄さんの姿を映し出す。
ここで重要なのは、あのどっか残念な部分を隠して映像を流している事だ。
こんなの偽物だわ! なんて、面倒な話になっても嫌だし。
『たぶんこの神だろう? レイヴァン=ルーン=クリストフ……だったかな本名は。違ったらごめんねえ。私、四文字以上の名前って覚えきれてる自信がなくてね。まあ仲良くやってると思うよ。たまにこっちにもモフりにくるし』
「うわぁ。マジで……本人ですね。そう……先生、冥界神とも知り合いなんですね。そんなに丸いのに……顔は広いんですか」
丸い……のニュアンスに、ちょっと悪意を感じる今日この頃。
こっちのライカくんは、小悪魔的というか……じみーに口が悪いんだよなあ。
まあ、ここはぐっと我慢するけど。
『ちなみに、料理はかなり美味しいよ? グルメタウンもあるし』
ワンコはしばし考え。
じゅるり♪
尾を左右に振りながら、荷物をまとめて私に言う。
「返事の前に、言っておくわ! 別に先生に従うわけじゃありませんからね! けれど、魔王城がどんな場所か見てみたいですし! 案内してくれるかしら? してくれますよね! 別にグルメに興味があるわけじゃないですよ? お肉が食べたいけど! 変な勘違いはしないでくださいね? さあ! わたしのお肉はどこ!?」
瞳をグルグルにして、興奮気味にフンフンフン!
ワンコの食欲オーラ全開である。
えぇ? この子……。
これで、グルメに負けましたオーラを隠せてるつもりになってるのか。
旅行用バッグにむふー! っとオヤツを詰め込む彼女に、私は言った。
『そ、そういうことにしておくよ――じゃあとりあえず魔王城直通の転移門まで行くから……ついてきておくれ』
「ええ! そこを抜けるとグルメがあるのね!」
んーむ、やっぱり魔性って欲望に弱いのかなあ……。
私だけは常に冷静だから……全員の特徴ってわけではないだろうが。
既に彼女は次元を渡ろうと、空を駆け回っている。
「さあ、何をしているの! 行くわよ! 行くわよ! 音速だって超えてみせるわ!」
『ちょ! 君、道も知らないだろう!? それに、地球空間で音速を超えたらソニックブームが発生してって、ああ、遅かったか……』
バビュッゥゥウウウウウウウウウウウウゥゥゥゥン!
音速の壁を超えた衝撃が、校舎の窓を割っている。
ぜえぜぇと肩で呼吸をしながら私を睨んでいるヘンリー君が、結界で防いだようだが。
まあ、気にしない!
ありがとう! と手だけ振って、抗議の言葉を気にせず。
私は考える。
このライカくん……暴走ホワイトハウルを彷彿とさせるバカ犬っぷりである。
あいつもあいつで、この状態を嫉妬していないといいけど……。
今はまあたぶん、大丈夫だろう。
あのワンコ、実は今、けっこう忙しいのだ。
なにしろワンコにとっての夢のアイテムを、知ってしまったからね。
そう。
魔術カード:《わんわん大満足フェスティバル》である。
社長のハクロウくんに、例の液状オヤツ召喚魔術カードを譲るように脅し……。
じゃなかった。
交渉してくるって物凄いシリアスな顔で、次元を裂いて渡っていったからなあ。
『って、本当に道を知らないんだろう! 追いつくから待ってておくれよ!』
だからこそ今のうちに。
私達は、空をぷかぷかと飛び始めた。
◇
空を進んで転移門を目指すのは、黒猫とワンコ。
絵にすると結構かわいい光景だが。
地上から見たら、けっこう変な状況だろう。
田舎の子供が、あー、ワンワンとニャンニャンだ~!
と、空を見上げているので私は手を振ってやる。
ワンコも子供には甘いのか、手を振り返している。
もっとも、魔力ある者がみたらこれは世界の危機を彷彿とさせる景色。
思わず目をそむけたくなる程の魔力の塊が、二柱……プカプカと自由に飛んでいるわけなんだよね。
サササっと視線をそらしている住人は、それなりに強い魔力を持つ存在なのだろう。
そんな、普段と変わらない日常の中。
腕を前に伸ばし、耳と尻尾をバタバタさせ空を駆けるワンコが言う。
「異界のグルメ! そうね、それも素敵よね!」
『あんまりはしゃいで衝撃波を出さないでおくれよ?』
実際、もう何度も音速を超えてしまい。
その度に、私がソニックブームを防いでいるのだ。
まあ、魔王城とグルメに期待して喜んでいるのは、可愛らしいけどね!
そのまましばらく飛行が続く。
悠然と獣二匹で空を駆けていると、やがて我等は大海原へと辿り着いた。
「何もないじゃないですか! わたしのグルメは! ステーキは! どこなんですか!?」
『慌てない、慌てない。今出すから――』
まあ彼女がそういうのは無理もない。
ここにあったのは――誰もいない、一面の海と空。
青い世界が、周囲には広がっていたのだ。
誰もたどり着けない海。
現実とは多少異なる座標に、チョチョイ!
転移門の入り口を隠してあるんだよね。
「なーるほど。門はここにあったんですね、近づくまでは気付かなかったんですけど……凄い魔力を感じるわ。なんなんですかぁ。これ。この異常な魔術式は、ちょっとドン引きなんですけどお」
魔術師としての私が答えを返す。
『異世界と、更に別の異世界とは――時間の流れが異なっている場合がある。だから片方で一年が過ぎた時、もう片方の世界では既に五年が経っていた! 逆に過去に戻っていた! なんて事もあるんだけど……それを魔術式で誤魔化しているのさ。地球と私の世界を繋げた時にウニャニャって細工をしてね――そういったズレがでないようにしているから、これだけの魔力がでているわけだね』
ワンコが瞳をゆったりと閉じ、尻尾を泳がせ吐息を漏らす。
「ふーん……よ、よく分かったわ!」
って……ぜんぜん聞いてないな、このワンコ。
グルメの話ではないからか。
それほど興味はないようである。
ともあれ、私はノックを三回。
魔力を展開する。
転移門の膨大な魔術式を起動させているのである。
パシャリと跳ねる海の魚を見て。
私の猫目が、ギラギラ!
太陽を反射するモフ毛を光らせ、私はノリノリで言う。
『開門に時間がかかるから、しばらくここで待機だね。ねえねえ! 空も海も綺麗だしさあ! 青くて清々しいし、さあ! こう、海のレジャー日和! って感じだし、なんかしながら待ってる?』
釣りでもしようかとルンルンな私とは対照的に、彼女は困ったような顔をみせる。
「あー……ごめんなさい、先生。わたしはそういう気分にはなれそうにないですねえ。そもそもここ、あまり好きじゃないんで」
『え? そうなの?』
ワンコは、ムゥっと空と海を見て。
「だって青いじゃないですか? 嫌味なくらいに青い。わたし、キレイでーすって感じで……それってとってもイヤな色だと思いませんか?」
そう言って、彼女はツーンと横を向いてしまう。
空の青さから、目を逸らしたのだ。
私は召喚していた釣りセット一式を亜空間に戻し。
真面目な声で謝罪をする。
『ああ……、地球は青かった――か。すまない、ちょっと失念していたよ。君には、あまり良い思い出の色じゃないのかもしれないね』
「地球は青かった? なんですか、それえ? 大魔帝は詩人にでもなったつもりなんですかあ?」
なんかバカにされたのである。
私はムッとネコ鼻を揺らす。
『いやいやいや。私の言葉じゃないよ? 地球は青かった。それが君の後輩――君より後に空へと飛び、初めて帰還したニンゲンの宇宙飛行士が残した有名な言葉だろ? 私が言ったんじゃないし』
「あら? 魔力翻訳ミスですかね。わたしは……地球を見渡したが、神はどこにも見えなかった……。天に神が住んでいるとされた伝承を皮肉る、名言ですね、たしかそういうニュアンスの言葉を残したって聞きましたよ?」
二匹の獣はしばし沈黙。
にゃんスマホで確認すると――確かに両方の言葉がでてきた。
まあどっちも有名な話のようである。
『ああ、なるほど。同じ英雄でも、国によって一番有名な言葉が違うのかもしれないね。ただまあ……夢を壊すようだけど。本当に口にしたのは、出発前に言った言葉――さあ行こうだけって話もあるけれどね』
神の不在を語る言葉。
それは国によっては大きなインパクトがあるが、この国じゃあそこまで大きな発言じゃないだろうし。
『ともあれ。この国じゃああの宇宙飛行士が残した名言は、地球は青かった――これなのさ。実際、私も興味があって宇宙から地球を見てみたけど青くて……綺麗だったよ。まるでこの青い海みたいにね』
「えー、でも。空の青さと海の青さは違いますよね? 地球の青さは海からのモノ。けれど、空の青さ、あれはたしか――太陽の光が散乱して……そう見えているだけだってグレイス先生の授業で聞きましたよ?」
なかなかどうして、こっちのライカくんは夢がない少女である。
現実主義なのかな。
ほわほわドックな彼女なら、同意してくれると思うんだけどなあ。
『青くなる原理は違うけど、どっちも太陽の光が理由らしいからね。科学での答えは別物だろうけど、私に言わせれば答えは一緒。同じ青さ。青にさえなればなんだっていい、それが魔術師ってもんだろう?』
「まあ、そうですね。そういった法則を捻じ曲げるのが魔術なんですから……ああ、だからテキトーな先生はそんなに強いんですね」
またなんか、嫌味を言われた気がするが。
ともあれ、話を戻して私は言う。
『現実的な話をしてしまうと……だ。どっちの名言も実は、本人は口にしていない。もしくは意味が変わって伝わっているらしいけれどね。なんにしても地球は青く見えた……そう、君の後輩のニンゲンが、言ったとされているんだよ』
空と海の青色を見て、彼女は言う。
「ええ、地球は……本当に青かったですよ。澄み切った青とは言えなかったですけど、とても――綺麗だったわ」
ライカ君の空気が、また変貌する。
「宇宙に飛んだその人間もきっと、怖かったのでしょうね。帰りの道があったんですもの……わたしと同じではないけれど……怖かった筈。だって、ちゃんと戻れるかどうか、きっと不安だったんでしょうから。資料では見たけれど……なんて名前だったかしら」
『人類初の宇宙飛行に成功した英雄の名は、ガガーリンさ。彼についてなんだが……』
ここまで言って。
私は考えた。
伝えるべきか、伝えないべきか――悩んだのだ。
もしかしたら望郷を刺激し暴走させてしまう。そう思ったからである。
「先生、どうしたんですか?」
『ああ、すまない……』
神父教師としての私は躊躇していた。
けれど。
伝えておくべきだと判断したのだろうか――猫の口は、勝手に動いていた。
『ユーリイ・ガガーリン。英雄となった男だね。あまり知られていないが――彼にはとても頼りになる……専任の女性医師がいたとされているんだが。知っているかい?』
ワンコが肉球と爪で海面をペチペチしながら。
つまらなそうに言う。
「どうでもいいですよ……人間の飛行士だなんて、本当に……凄いとは思うけれど。わたしの方が先に飛んでいるんだから、勝ちですよ、勝ち」
地球に戻ってこれた者。
置き去りにされたモノ。
そこには大きな差が生じる。
当然、彼女がつまらなそうに言うのも理解できる。
ま、まあ何故か勝ち負けの話になってるけど。
勝者と敗者を決めたがるのは、群れとリーダーを作りがちな犬の本能なのかな……。
ともあれ。
私は――講義をするように教師の声音で話を続けた。
『ニンゲンだった頃の私の記憶と、この世界での史実が一致しているかどうか、それは分からない。どうやら……魔術の誕生によって世界は一度、転生――生まれ変わっているようだからね。だから誤差があるかもしれない。けれど、おそらく大筋は違っていないだろう。そんな私の講義を聞いてくれるかい?』
「構わないですけれど……結局、何が言いたいんですか?」
眉を顰め訝しむ彼女に、私は小さく詫びながらも。
話を続ける。
『そうだね、すまない。その専任医師だった彼女の名は……伏せておこう。けれど、その経歴だけは軽く触れておこうか。英雄の体調管理を担当した女性、その元の職業は生物学者。かつて宇宙犬の研究をしていた心優しい女性だったと言われている。これは歴史に残されている、事実だ。捏造されていない史実ってやつだね』
資料から取り寄せた写真を見せてやると――時が、僅かに止まった。
ライカの瞳が揺らいだのだ。
「もしかして博士と一緒にいた、わたしの世話をしてくれた……あの学者さん、ですか?」
『ああ、そうさ。君の望郷の対象でもある、その学者本人だよ』
戸惑う彼女に、私は丸いネコの口を動かしてみせる。
『おそらく間違いなく――君の死を嘆き泣いた、君に泣いて詫びた……彼女さ』
黙り込んだまま、呆然と写真を眺める彼女。
その表情の色を横目で眺めながら、私は言った。
『現役を引退した数十年後……彼女が九十歳の時に遺した言葉と話がある。それはガガーリンの逸話ではなく、君の話。犠牲となったライカへの懺悔と謝罪さ。空に飛びゆく前――最後の君との接触で、とうとう耐えきれずに……彼女は泣きながら君にこう言ったらしいね。「どうか……私たちを許して頂戴」と。君を撫でながら詫びたと、そう……老いた彼女が当時を振り返り答えているんだ。その最後の別れの言葉は、君の記憶の中にある学者さんの言葉と……一致しているんじゃないかな?』
「ええ、そう……ですね」
ライカは空を見上げた。
尾の揺れが止まる。ただただ落ち着いて……空を眺めていたのだ。
通り過ぎる雲の厚さを眺めているのだろうか、空の青さを眺めているのだろうか――。
彼女が、ぽつりと言葉を漏らす。
「そう、あの人……おばあちゃんになっても、わたしに詫びていたんですね」
ザァァァァァァ。
ザァァァァッァァ。
潮騒の音が鳴った。
誰もいない海原。
開く次元の扉と、海の鳴き声を聞きながら――。
しばらく、ライカは空を眺め続けた。
その犬の頬を、一筋の雫が濡らしたのはいったい、どれほどの時間が経ってからだろう。
望郷の魔性。
犬少女の唇が、動いた。
「本当に、どうして……かしら。どうしてそんなに老いてまで謝るくらい……本当に優しいのに、わたしに伸ばしてくれた手は、とても温かかったのに――どうしてあなたは、わたしを……」
言葉は途中で途切れて消えた。
太陽に反射する雫が、ポロポロポロポロ……。
零れていく。
そして。
獣の咢が、言葉を紡ぐ。
「どうしてわたしを、殺したの?」
ネコである私の耳が揺れる。
言葉にすると。
酷く残酷に思えていたのだ。
「わたし、とても苦しかったわ。暑かったわ。寂しかったわ――頑張ったわねって、撫でて欲しかったわ。ねえ、どうして? 先生なら、分かるかしら。それほどに優しい人が、どうして……わたしを殺したのか、分かるのかしら?」
死した彼女をどう英雄視しようとも、どう言い繕おうとも。
命を殺した。
その事実は変わらない。
実験動物とされたライカにとっては――愛する者に、殺されたのだ。
それが悲しい現実だった。
けれどだ。
自らの悲しい質問に――自らで答えるように。
彼女は言った。
「いいえ……そうね。もう……答えは知っているわ。あの頃はそれが正義だったの。だから、博士にも彼女にも……どうすることもできなかった。犬のわたしだって知っているもの、上には逆らえない。人間だって動物よ、それが人間という群れの掟だったんですものね」
当時はそれが正義だった。
おそらく。
それこそが――。
正義扇動能力の……大元なのだろう。
能力は心の影響を強く受ける。
国の威光を誇示するための正義。
冷戦時代の見栄のための正義。
その犠牲となった事を賢い犬は悟ったのだろう。だから正義を揶揄するように――正義を過剰に煽る能力を身につけたのではないだろうか。
『ライカ君……』
「いいわ、何も言わないで――」
言葉に悩む私に向かい、世間話をするかのように彼女は言った。
空を見ながら……呟いたのだ。
「わたしね。わたしの他にも候補の仲間がいた事を、知っているの。一匹はアルビナ、彼女は私よりも優秀だったけど、お腹に赤ちゃんがいたから……ダメだった。もう一匹はムハ。彼女もとても優秀だったわ、けれどね、あまり写真うつりがよくなかったの……国のための英雄犬になるのだから、見栄えがよくなくちゃダメだって、だから……候補から外れたわ」
ザァァァアァ。
ザァァァァァっと、海の鳴き声がする。
空は本当に、嫌味なほどに――綺麗に青く澄んでいた。
青い空を見る彼女の瞳には、何が見えているのだろうか。
あの日の景色が見えているのだろうか。
私には――。
拾われたあの日の温もりを思い出す、折れた耳が特徴的な犬の姿が見えていた。
「残されたのがわたし、健康で従順でなによりも一番我慢強くて、ストレスに強かった……けれど本当の理由は、たぶん違うわ。いちばん可愛いから。わたしね、写真うつりも良かったの。英雄犬になるのなら、見栄えが良い方がいいからって――だからわたしが選ばれたの」
彼女は過去を振り切るように、涙を肉球で拭い。
私に微笑んだ。
「可愛いって、いい事ばかりじゃないのね」
それは彼女の精一杯の強がりだったのだろう。
犬の見栄だったのだろう。
だから私はあえて道化となって、その強がりを言葉で抱きしめる。
『そうだね、じゃあ世界で一番かわいい私も、すんごい気をつけないと……ダメかもしれないね?』
「なにそれ、だっさ……先生、空気読めないって言われません?」
真剣に悩み続ける道化の私に、彼女はふふふっと微笑んだ。
しばらく笑って。
ライカは空を見上げたまま言った。
「やっぱり青色は好きになれそうにないですね。だから」
犬の手が、涙を拭う。
「先生、わたしにオヤツをくれないかしら。ほわほわしてるわたしに戻るから」
『いいのかい?』
何に対して、そう聞いたのか。
私にも分からなかった。
けれど――それは私の中にある魔性の心。
憎悪が彼女の涙に共鳴したのかもしれない。
このまま共に世界を滅ぼしてもいい。
そんな感情が――、一瞬だけ。
私の憎悪の中で、浮かんでいたのだろうか。
彼女が今、泣きながら私に滅びを訴えていたら――私はその肉球を握ってしまうのではないだろうか。
だから聞いたのかもしれない。
いいのかい、と。
それこそが――ずっと消えずに残っていた世界の滅びの予言の一つ。
魔性による滅亡の未来なのかもしれない。
青い空と青い海。
潮騒の鳴き声の中で――。
彼女は言った。
「わたしの死は無駄にはなっていなかった、それが分かっただけで……今は満足するわ」
そう微笑んで、彼女は再び眠りについたのだ。
ザァァァァザァァァァァ。
海の鳴き声を聞きながら、私は穏やかなライカくんの目覚めを待った。
綺麗すぎる青色がネコの獣毛を照らす。
潮風が、ネコの鼻を軽く揺する。
ロックウェル卿から、滅びの未来がまた一つ消えたと連絡が届いた。
それが彼女による滅びだったのか。
魔猫による滅びだったのか。
卿は何も語らなかった。
彼女が目覚めたら、とても美味しいグルメを食べよう。
魔王城自慢のグルメを披露しよう。
そう、思った。
彼女が目覚めるまでの間――。
猫の瞳は青い世界をただ静かに、眺めていた。
私は青色が嫌いじゃない。
けれど。
何故彼女が青が嫌いなのか、今は少しだけ……。
理解できたような気がした。
――了――
裏ステージ4
正義とニャンコとカード召喚 ~続・ソシャゲ学園編~クリア