楽園 ~その者、黒きモフ毛を纏い、気高く~後編
カピバラさんから変身したのは、大天使を彷彿とさせる無数の翼をもつ神。
私ほどではないが、まあ美形な聖父クリストフパパ。
さて、これから少しシリアスをする。
街造りが行われているダンジョン内。
大魔帝ケトスこと華麗なる優秀ニャンコな私も、ネコ手を伸ばし――キリリ!
黒い霧を纏っていく。
ザザザ、ザアァァアアアアアッァァァァァァァァ!
ネコと人と魔族。
三種の心と魂が合わさった全盛期の姿へとなった私は、神獣を彷彿とさせる細い顔をスゥっと尖らせる。
狂える魂を睨む私の咢が、犬歯を覗かせ言葉を紡いだ。
『我はケトス。大魔帝ケトス――。偉大なる御方、魔王陛下の忠臣。終末の獣の名すら喰らう、憎悪の魔性よ』
名乗り上げに従い、私と聖父クリストフが世界から独立。
闇の異界へと隔離される。
魔力の塊である太陽よりも明るい美貌の男。
それは変貌した私をただ、まっすぐ。
眺めていた。
ごくりと息を呑む男の瞳は――モフ毛を反射し、黒く染まっていたのだ。
炎の柱を背に抱く聖父は周囲を見渡し、片眉を僅かに下げた。
機械染みた人間味の薄いその口が――丁寧な神の言葉で、周囲を揺らす。
「なるほど、盗み見と盗聴の妨害ですね。それで、我が息子すらも凌駕するケモノ――圧倒的な力を振りかざす魔猫の神たる者よ。かつて滅んだ神々の園、古き楽園を治めた我等に何用ですか」
後光を睨み、私の口が蠢く。
『知れた事よ。我が欲するは魔王陛下が追放される事となった事件、そして魔王陛下が楽園を滅ぼした事件。加えるのならば、冥界神レイヴァン……あの他者に甘い男を謀殺した、その真実の情報である』
楽園の関係者は楽園の悲劇をあまり語らない。
「知ってどうなるというのですか? あれはもはや過ぎ去った出来事。終わりの楽園。我らの命と共に、全てが尽きた終焉の世界です。それこそです……かつて楽園で奴隷であった人間達の伝承の中ですら、忘れられてしまったほどの過去。すでに死に絶えた世界でしょう」
事実。
マーガレット君は楽園についてあまり知らなかった。
ニンゲン達の中からも消え去るほどの昔――失われた神話なのだ。
『魔王陛下が嘆き悲しんだ。そして絶念の魔性へと魂を転じさせてしまわれた。その悲しき記憶を知りたいと願うのは、使い魔の傲慢であるか? 否、我はそうは思わぬ。我は知りたし、我は把握したし。同じ過ちが二度とおきぬよう。同じ哀しみがあの方を襲わぬよう――我はその真実を知る必要がある!』
「しかし、もはや終わってしまった物語です」
あれほど楽園を夢見たモノが、そう語る。
解せぬ――私の獣毛は逆立ち尖る。
『楽園の再建を望んでいたモノの言葉とは思えんな』
「我等は新しき光、いいえ常しえの闇を見つけましたから」
その視線にあるのは――大魔帝ケトス。
私である。
『気に入らんな。我の機嫌をこれ以上損ねぬうちに、語れ。真実を、我が欲する情報を。故にこそ、我は汝を再誕させた。あの場を治めたことなど、児戯に過ぎぬ』
ふしゅぅぅぅぅぅっと、咢を蠢かす魔獣の影が大天使の翼を覆う。
虚偽を盛らせば噛み殺す。
カピバラと混ざり合ったままのあの邪悪で無邪気なケモノの魂は見逃すが、再誕したキサマは消す。
本気だった。
私の殺意を知っているくせに――。
聖父クリストフは氷のような冷たさで微笑みながら、私に問い返す。
「そうですか――分かりました。けれどその前に、こちらも確認がしたいのですが構いませんか? どうしてあの子の名を奪ったままにしているのですか」
私への質問に答えずこの傲慢な問い。
見かけや物腰は嫋やかだが、根底にあるのはやはり古き神としての驕りか。
たしかに。
聖父が言うように――私は魔王陛下の御名を独占し、封印している。
『愚問である。理由は様々、なれど最も強き理由は――決まっておろう? 魔王陛下、あの方の無尽蔵なる力をキサマのような愚者に悪用されぬよう。その力を借りた魔術が発動できぬよう――我はあの方の真名を喰らった! 二度と明かさぬよう! 二度と表に出さぬよう! 封印した――! それがあの方への忠義。我なりの献身。我なりの忠誠と答えである』
悍ましき者にさえ魅了される顔で、男は言う。
「世界に掛けた呪い、魔術式の妨害ですか。それほどの儀式魔術ができてしまう、その時点でケトスくん、あなたは魔術の祖であるあの子よりも既に、優れているのかもしれないですね。ああ、すばらしい。あの子を超える存在を、よもや我の意識があるうちにこの瞳で目にすることができるとは。それはね、ケトスくん。とても素晴らしい事だと、我等はそう、思っているのです」
だんだんと、狂えるその魂の底が見えてくる。
この男は力に魅了されている。
いつから――そんな事は決まっている、魔王様が生まれたその時から、ずっとだ。
空気を切り替え、私の耳がギシリと蠢く。
『魔王陛下を愚弄するか。聖父よ、以前も告げたが我は血筋に興味などない。忠誠は唯一つ、魔王陛下のみに捧げておるのだ。いかに聖父といえど、魔王様を軽んじるのならば容赦はせぬ。キサマの魂を掴み、今この空間ごと焦土と化してやっても構わぬのだぞ』
「それは怖いですね。けれど、いいですか――どうかもう一つ確認させてください。あなたはもしや、何か勘違いをなさっているのではありませんか?」
『なに……?』
教祖のように、男は朗々と語る。
「魔王陛下ならばもっと強い筈。そう思っているのでしょう?」
『何をたわけた事を、当然であろう――直接的な魔力のぶつかりあい、そして遊戯ともいえる触れ合いの中では我が勝る――しかし』
言葉を遮り、男は続ける。
「いいえ。もはやあなたこそが魔を統べる者だ。なれど――きっと、今の貴方はこう考えているのでしょう。あの方は弱体状態になっているか、理由があり力を抑えている。自分があの方を超えているなど、ありえぬ。違いますか?」
大天使を彷彿とさせる男からの次の問い。
一蹴できなかったのは、思い当たるふしがあったからだろうか。
言われてしばらく考えて、私の咢はぎしりと蠢く。
『確かに――いかにレベルが一になろうと。我よりもレベルの上昇が遅いといえど、キサマとの戦いで魔王様は手を抜かれていた。攻撃できぬとはいえ、他にいくらでも手段があったはず。そうは思うておる』
「ハッキリ言いましょう、ケトスくん。あなたは既に魔王を超えている。数多くの種族、数多くの世界、そして遠き青き星にさえその肉球を踏みしめ――他者の心を奪っている。それは信仰の光、我等が求め続けるあるべき神の姿、そのもの。あなたは既に、多くの信仰を集めその力を増している。あの時のあの子が弱く見えていたのなら、それはですね――あなたがあの子さえも超えられなかった領域、神を超えし頂上へと昇ってしまっている。ただそれだけの話ですよ」
空気が再び歪に曲がっていく。
目の前の男。
狂える聖父クリストフ。
今の彼からは、ナニかが抜けている。それは常識か。或いは心か。このダンジョンにグルメ街を新設しようと微笑んでいた、その面影は――。
皆無。
狂える者を眺める私の瞳。
憎悪の魔性の証が、赤く染まっていく。
『聖父よ……何がいいたい』
「もう二度とこの問いかけはしません。ただ一度きりです。だからどうか答えて欲しい」
聖父は、まるで教祖の様な独善的なカリスマを滾らせ。
翼を広げ、天に吠えた。
「大魔帝ケトス! 憎悪の魔性よ――! あなたは我々の神になってくれるつもりはないのかな!? ああ、我等は知りたい! その黒き獣毛を震わせた先にある栄光を! 気高き神として君臨する、あるべき楽園の神たるあなたを! 全知全能の存在として! 新たなる三千世界全てを支配する君を――!」
これが。
魔王様を悲しませた男の、心の奥に眠っていた。
闇。
狂気に囚われた瞳で、聖父は狂信的な表情でそう告げていたのだ。
瞳は紫色に染まっている。
私の魔力に魅入られているのだろう。
おそらく、魔王様が生まれたその瞬間に――絶対的な力に魅入られてしまった、あの日のように。
『やはり、あの方の御名を封じたのは正解であったか』
魔王様の真なる名を解放すれば、このように狂ってしまう存在が必ず現れる。
この男はその代表だ。
あの方が今の私よりも戦闘面において劣って見えてしまうのはおそらく。私がその名を封じているせい。
きっと、そうなのだ。
「いーえそれは違いますよ! 我が子はあなたをここまでの神、大いなる闇、大いなる混沌猫として育てるための存在だった! そのためだけに生まれたのだと、確信しました! あなたこそが我が神、あなたこそが支配者! さあ、どうか答えてください、神よ! あなたは我等を従え、新たなる楽園を作ってくださるのだろうか! さあ! さあ! どうか我等に導きを!」
魔王様がこの男を諦め滅ぼした理由が、よくわかる。
これは。
いつ、また狂ってしまうかも分からない爆弾か。
今はただ、私の魔性たる魔力に魅入られ。
魔力酔い状態になっているからこうなっているのだろう。
だが、本質はこれ。
言い方が悪いが、生まれた時から圧倒的だった魔王様と出会ってしまったあの地点で、ナニかが壊れてしまっていたのだろう。
考えようによっては、だ。
あのカピバラパパ状態よりも危険かもしれない。
あくまでも善意で、人々を殺戮する恐れすらもある。
……。
やはり。
様子を見るために、我がこの地に残ったのは正解だった。
魔王様に先に帰還して貰ったのは、正解だった。
側近サバスを召喚し、連れ戻させたのは正解だった。
今回の件は、全て私に一任されている。
故にこそ。
私は哀れな愚者を見る瞳で、目の前の狂信者を眺めていた。
たとえ道が違ってしまっても、実の父を消し去る場面をもう一度。
見せるわけにはいかなかったのだから。
肉球が、蠢く。
『言いたいことはそれだけであるか?』
漏れたのは――。
憐憫の言葉だった。
幾重に広がる翼を震わせ男は言う。
「ああ、きっとあなたもあの子と同じように……我らの誘いを拒絶するのだろう! 分かっている、分かっているさ――あなたはあの子の弟子。あの子の家族。本当に本質がよく似ているよ。けれど、いやだからこそ! あなたはあの子を超えた神になれる! あの日に砕けてしまった我らが悲願を叶える、真なる救世主の器となりうる唯一の存在だ!」
やはりこの男は危険だ。
魔王様の御名を解放し、ふたたび魔王様を悲しませる事件を起こす可能性がある。
私は狂う男の中から、過去の記憶を盗み見た。
断片的な記憶の渦が、賢き私の頭脳を通り過ぎる。
魔王様を楽園の絶対神として君臨させ、全ての運命を管理しようとしていた古き神々。
その代表だったのが――。
狂信者クリストフ。
そしてその狂える行動を止めたのが、魔王様。
ニンゲンの魂まで隷属させ支配しようとしていた神々に抗い、その意趣返しにと、魔術を人へと授けた魔王様の反抗。
人に魔術を授けた事を糾弾される魔王様。
翼を捨て、諦めるように、追われるように――下界へと去った魔王様。
そして嘆くレイヴァン神。
兄帝が憤怒した先にあったのは――同胞からの裏切り。
魔王様への交渉材料として捕縛され。
殺された。
しかし、魂を拘束されそうになっていた実兄は魔王様の兄。
その実は案外に強かだった。
堕天し、反骨心を滾らせ、復讐のために冥府に下った死者。
全てを喰らう悪食を自らの魔性とし、冥府を乗っ取り冥界神となった――魔兄レイヴァン。
そこにも多くの物語があったのだろう。
けれど、それはこの男の記憶の中にはほとんど存在していない。
実の息子。魔王様ではない息子の死した後の妄執と行動を、知らなかったのだろう。
そして。
その転輪を、当時の魔王様も知らなかった。
兄の死を知った魔王様の嘆き。
絶望。
哀しみ。
その果ての感情の暴走――魔性化。
絶念の魔性の誕生。
そして、楽園は滅んだ。
聖父クリストフも死んだ。
それはなぜか。
魔王様は一連の事件に悪意をもって関わった存在、全てを魔術で消し去った。
そこに――今私の目の前で、力に溺れ狂う男も含まれていた。
ただそれだけの話。
冥界神が力をつけ、復讐に楽園を訪れた時には――もはや全てが終わっていた。
それが神々の園の終わり。
失楽園。
……か、
やはり。
生まれたばかりの魔王陛下の魔力に魅入られていた聖父は、その時点で既に正気など失っていたのだろう。
私は見た。
今。
目の前で私をうっとりと眺めるこの男も、同じ。
私の中の殺意を見たのか――男は翼と両腕を広げる。
「さあ殺しなさい! 大魔帝ケトス! あなたのような真なる支配者に滅ぼされるのなら、それは運命! 本望でありましょう! さあ大いなる闇、大いなる混沌猫! あなたの魔力を受け、我等は消える! そして永遠に、あなたの心の中に残り続けよう!」
理性を保ってさえいれば、子どもたちにも学問や魔術、奇跡を教える優れた教師ともなれる人物なのに。
一枚、皮が剥がれれば――魔王陛下に魅入られた狂気を忘れられず、こうして狂ってしまうのだろう。
まさに狂気の魔性、か。
実際に魔性化しているかどうかは、一度滅んだ神なので判断はできない。
けれど。
残念だが。
『狂気に囚われた哀れなる神よ――さらばだ』
処分するか――と、殺意を解放しようとした。
その時だった。
空気が目に見えて、緩む。
冗談を言ったわけではない、本当に、緩んだのだ。
ブブブ、ブモモモモ!
大天使風の冷たき美貌から、急にお間抜けモゴモゴボイスが漏れ。
ふが!
「なーにが! あなたの心の中に残り続けよう、だ! 勝手に決めるな優男! だいたい貴様ぁぁぁぁぁぁ! 我の身体を乗っ取る居候の分際で、勝手にフォームチェンジをするでない! 分を弁えよ、分を!」
いきなし、シリアスを崩さないで欲しいんですけど……。
私。
めっちゃ決意した神獣の貌だったんですけど。
『なんだ急に、カピバラと混ざり合った残念な魂の方が前にでてきおって……』
漏らす私の吐息に、ガバっと振り返った男は眩しい美貌のまま。
コミカルに瞳を尖らせ言う。
「ざ、残念だと!? 大魔帝ケトォォォォス! キサマが我の身体ごと、この愚かな男を焼こうとしたから慌てて出てきたのだろうが! こやつがどれほどにキサマに心酔しようと、我の気は変わっている。いまさらキサマのような神輿は要らん! だーれが、キサマを全知全能の神と崇めるモノか! どーだ、悔しかろう?」
『いや、別に――』
否定する私に、なぜかカピバラボイスが私に勝ち誇ったように言う。
「今の我が認めるのは、バター醤油のトウモロコシのみ! あの豊潤な甘さ、喉を通り過ぎる湯気の香り。まこと、真実の楽園。そう、楽園とはトウモロコシであったのだ! 故に! 賢き我は悟った! 大魔帝ケトス! キサマは所詮ネコ! 街で人間どもとグルメを喰らって、呑気に生きているのがお似合いの小者よ! ガーッハッハッハ!」
え、ええ……。
残念カピバラパパ……いつのまにかトウモロコシに篭絡されてたの?
魔王様を悲しませる事になりそうな、危険思想の聖父をこっそり処分し――都合よく書き換えたコピーと取り換えておこうと思っていたのだが。
……。
完全に、気がそがれてしまった。
神すらも燃やす殺戮魔術。《真理の業火》を放つ直前だった私の肉球から、プスプスと小さな煙がでてしまう。
ペチンと、肉球で顔を抑え――私はため息に言葉を乗せる。
『なるほど……我は汝へのブレーキとしてあの聖父を復活させた。事実、汝の暴走を抑え、今までは平穏に、穏便に仕事を果たすまでになっていた。しかし、この瞬間は逆となるのだな』
「労働など、奴にやらせておけばよい! 我はただ、この世界を発展させ楽園を増やす事のみに心を注ぐことにした! なーにが古き楽園再建だ、バカバカしい!」
ガーハッハッハと、笑うカピバラさんの魂が前面にでたせいか。
その身がポンと、ずんぐりむっくりタワシボディに戻っていく。
これ。
カピバラさん本来の性格が、だんだんと比率を増しているのかな。
ようするに。
こっちのモードの思考はもう、ほとんどが魔獣カピバラなのである。
『あの澄まし顔の聖父が狂気に落ちれば、すかさず汝が前に出現。そして、その暴走をその黒き肉球で張り飛ばす。互いが互いの暴走を食い止める、ある種の共生関係が築かれているとは、実に都合よく回っているモノよ』
いつかはカピバラさんの魂が独立するかもしれないし。
もしそうなったら、聖父の方の魂が悪さをした時に処分もできる。
今ではないが、いつか……。
まあ、もう暴走なんてしないで欲しいモノだが。
複雑な心境な私は、はふぅ……っと全盛期モードで吐息を漏らすが。
器用に腕を組んだカピバラさんが、バター醤油焼きトウモロコシを顕現させ言う。
「ダーッハッハッハ! やはり我の予想通り! ふん! あの偽善者のせいで滅びるのはごめんだからな! キサマは無実のモノを殺せない。うっかり殺してしまう事も稀にあろうが、こうして認識してしまえば最後――もはや安全!」
ビシっと顔までずんぐりむっくりな体躯でポーズを取り。
獣は言った。
「無辜なるカピバラの魂、すなわち我がいる限り! キサマは我に手を出せん! 自らの定めた倫理観に従う、それがキサマの矜持! あの魔王に従う上での自分に定めたルールなのであろうからな! 後は我の思うがまま! 気高きトウモロコシの誇りをもって! この欲望のままに、生きるのみ!」
『いや、汝が悪さをしたら今度こそ両方、焼き尽くすわけだが?』
いまのところ。
楽園の増殖に心を奪われているから、まあ心配はないだろうが……。
どうするの、この空気
どーしたもんかと、頭を悩ませていると――。
「なに? 冷静になったから、主導権を返せ? 大魔帝ケトスと話がしたい? ふん! バカ者が! もはやこの身体、キサマに渡す事はせん! ……せんと言っておろうが!」
カピバラさんの顔が、僅かに引き締まっていく。
愉快でおだやかな聖父クリストフパパに戻ったのだろう――。
トウモロコシの食べかすを舌で舐めとりながら、珍獣が言う。
「やあケトスくん。すまない、少し興奮してしまったよ。けれど、君が神形態になれだなんていうのがいけないんだよ? それは分かってくれるよね?」
『ふん。澄ました顔をした下衆が――その笑顔の下に潜む常闇を我は確かに垣間見た。処分は保留だ。なれど、心しておけ。魔王陛下を、あの優しき御方を再び絶望させる未来を引き寄せようとするのなら、我は躊躇わず汝を消し炭とする』
告げて、私の身もいつものスマート黒猫ちゃんに戻っていく!
『ま、見たい記憶は見えたからそれでいいけどね。いや、本当に頼むよ? 魔王様のためならば私はなんだってしてしまう、全ての優先順位の頂点にあの方がいる。つまりだ、私は君を本当に消してしまう必要があるなら……やっちゃうからね?』
そもそも蘇生したのは私なんだし。
魔王様も反対していたわけだからね。
たぶん、魔王様には見えていたのだろう。
この男の底に眠る闇が消えていないことに、気付いていたのだろう。
そして、その闇が私を見続けている事も。
「そうか――そうだね。我々はあの子を神と崇め、その力に魅入られてしまった。どうしようもなく狂おしいほどに……そう、結果として楽園が滅んでしまったように。そして今は君に惹かれている。うん、それはどうしようもない事実さ。否定はしない……え? なに? 否定しろ? 我は違う? カピバラの君は……本当にケトス君に対抗意識を燃やしているんだね……」
まーた魂内で戦いあってるし。
まあテストはこんなもんでいいかな。
そう。
これは、この男をこのままにしておいて大丈夫かの最終テストでもあったのだ。
今までの流れ。
特に互いが互いの魂の、なんか残念な暴走を止めるシーンを記録クリスタルにばっちり保存し。
よーし!
これで今回の件の言い訳映像は完了!
気が抜けた私は、頬のモフ毛を揺らし言う。
『さて、新市街建設も順調そうだし――とりあえず聖獣カピバラモードと神モードの君が同居している限り、過度な暴走をしても互いに止め合う事が分かったし。一応、問題ないかな? 私も大いなる導きも、そろそろ監視する必要もないと思い始めている、今日はそれを伝えに来たのさ』
「帰ってしまうという事かい?」
残念そうに、聖父クリストフが眉を下げる。
んーむ、こうしているとだ。
どこからどうみても、まともな存在に見える。
『君ほどの聖人がどうしてあれほどの野心を抱いたのか、どうして楽園が滅ぶきっかけを作り出してしまったのか――不思議だし、理解ができないよ。いや、魔王様の魔力に魅入られて狂ったのは知っているけれどね――それでも。その聖人顔の下は真黒だなんて、本当に……残念だよ』
しかし彼の言葉ではないが――楽園の物語は終わっている。
既に過去の滅んだ世界の寓話のようなもの。
この男のせいで魔兄レイヴァンは一度死んだ。魔王様はけしてその事を許さないだろう。
それでもいつか。
許せる日がくるのかどうか。
私が、グルメと交流を通じニンゲンとある程度和解したように……。
いつかなんて日が来るかどうか、私には見えなかった。
それは私の未来視でさえ確認できないほどの先なのか。
それとも、本当に世界の終りまでこないのか――それは分からない。
結局、どうなんだろうね?
まあいいや。
カピバラさんのアイテム欄から食料を全てこっそり盗んで――私の身は霧へと消えかける。
『それじゃあ、またね――』
監視妨害結界を解こうとした、その時だった。
カピバラさんのヒゲが、揺れる。
「待ちたまえケトスくん。此度の件、全てへの感謝と謝罪といってはなんだが――君に一つ神託を下そう」
『神託? ああ、君、本物の古き神の大物だもんね。それくらいは当然できるか』
本人が聞いたら怒るかもしれないが、出逢った当初の大いなる光の超強化バージョンみたいな存在だし。
今の彼女は色々な心を学んで、けっこうまともになっているが。
ともあれ、聖父は力を発生させる。
カピバラさんの瞳が、シリアスに赤く染まっていく。
狂気に満ちたその瞳で、けれどその心を制御しながら聖父は言った。
「あのヘンリー君という少年……いやもう好青年か、ともあれ彼の未来を助けたいと願うのなら、一度学園に戻りなさい。あそこにはまだ君も知らない侵入者がいる。女神クレア嬢以外の存在が、ひっそりと微笑んでいる。彼女の調査は信用できるよ。なにしろ情報収集に関しては本当に優秀だったからね。君の弱点をつき、ある程度まっとうに戦えた――それが証明しているだろう?」
『まだ潜んでいる侵入者ねえ。いったいどんな奴なんだろ』
今のヘンリー君の死神名簿なら、それも判明するだろうが。
聖父は穏やかな指導者の声で言う。
「おそらく君たちと同じく、感情を暴走させた者……魔性だろう。そして滅びを知る者……我々が楽園の滅びを知る存在であったように――今、君を取り巻く案件には全て滅びを知る者が関わっている。神の勘だ、あまり喜ばしい話ではないかもしれないけれど――頭の片隅に置いておいておくれ。我が子の弟子、そして我等を蘇生させた主――大魔帝ケトス、黒きモフ毛の気高き神よ」
『ま、覚えておくよ。ヒトガタくん……部下に任せたままになっているし、これから学園に帰るからね』
礼はしないが一応、頭を下げる私に――。
カピバラさんがスゥっと手を伸ばす。
その肉球の先から生まれたのは、一冊の聖典。
「聖父クリストフ、そして神獣カピバラパパ。我等が魔導書を君に託そう――これは償いの機会を与えてくれた礼だと思って貰っていい。そこには君が知りたがっている楽園の情報も載っている。きっと何かの役に立つ。かつて古き神を束ねていた老害の力、存分に使ってくれたまえ」
聖獣なのか、神獣なのかハッキリしないが、まあ私達も似たようなもんか。
ともあれ、私はじぃぃぃぃっと魔導書を眺め。
ぼそり。
『これ……使ったらいつのまにか、残念カピバラの口調が移ったりしないよね……?』
うーんと、宙に浮かべて遠巻きに見る私に。
くわっとネズミの巨大歯を覗かせ、ぐぬぬぬぬぬぬ!
「だったら返せ! 色々と迷惑もかけたからせっかく気に掛けて我が魔導書を授けてやろうと思ったのに! 我はキサマなど絶対に認めんぞ! というか、我の食糧庫からアイテムを盗みおっただろう! 返さんか、泥棒ネコ!」
よーし! からかい大成功!
『ニャハハハハハハ! 一度貰っちゃったもんは私のもんだからねえ~! それじゃあ、今度こそバイバイ~!』
私のモフ毛は黒い魔力を放ち輝き。
その口はがしりとトウモロコシを銜えて、ぶにゃははははは!
大魔帝こと私の身は――。
闇の中へと消えていった。
◇
転移亜空間の中。
黒猫が駆ける。
聖父の逸話を綴る魔導書。
真実の物語を語るその書を開くと――そこにはまず、こんな言葉が刻まれていた。
すまなかった我が子らよ――。
と。
それは誰に向けた言葉だったのか。
あえて、私は考えなかった。
けれど――おそらくは……。