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嗤う魔猫 【SIDE:サメ牙神父ヴァルス】その1



【SIDE:サメ牙神父ヴァルス】


 女神教徒幹部の神父。

 サメ牙男のヴァルスが目覚めたのは王宮で殺された――あの日から二日後。


 場所は王都を遥かに離れた大森林の最奥。

 聖なる力で満たされた大きな泉のほとりに佇む施設。

 修道院が経営していた孤児院。

 その跡地だった。


 朽ちた古木で作られた木漏れ日の中。

 朝露を求める鳥たちが騒がしくしている。

 

 かつてヴァルスが育った地でもあるここは、もはや誰からも忘れられた地。


 女神を祀る古き祭壇で、サメ牙男の意識は浮上していく。


 石の女神の膝の上。

 かつて孤児院のご神体として崇められた聖母に抱かれ、ヴァルスは喉を掻きむしる。

 彼の目覚めは悲鳴と共に訪れる。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁあああああぁっぁぁあぁ!」


 ぐじゃあ……!

 砕かれた魂と肉体の音が響いた、その直後――意識が覚醒したのだ。


「うぐ、ぐう、うぐがぁああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁあああああぁっぁぁあぁ!」


 叫んで、嘆いて、喚いて泣いて。

 掻きむしる。

 掻きむしる。

 掻きむしる。

 身体に巻かれた聖骸布を裂く爪が軋んで、やっと自分がリポップしたのだと気が付いて。


「なんでぇ……死んだだけかよ。脅かすんじゃねえよ、地獄かと思ったじゃねえか」


 ヴァルスは固い手のひらを額に当て、ぜぇぜぇと肩で呼吸をする。


 殺されることには慣れていた。

 死なんてモノはもはや一瞬の痛みのみで、恐怖は既に無くなっていた。

 卒業していた筈なのに。


 漏らす息は荒い。


 ――どうして殺された!?


 サメ牙男は考える。


 記憶を探る。

 思い出した。

 見た事も無い謎の黒猫魔獣に完全敗北して、殺されたのだ。

 それも二回も。


 男は思い出す。

 猫の赤い瞳と、言葉を思い出す。


『君――弱いね』


 ギリリリィ……!

 食いしばる歯から血が滲む。


 ハッと額を抑え、サメのような牙で腕を噛んで、叫びを堪える。

 潰された四肢と首が痛む。


 いつもとは明らかに違う。

 こんな筈ではない。

 刀で首を刎ねられても、内臓を抉られ殺されても、喉を描き切られても痛みなどなかったのだ。

 けれど。

 今回だけは違う。


「痛い痛い痛い痛い――っ! 痛い!」


 瞳の奥。

 紅い意識がある。


 猫が見ている。

 じっと猫が見ているのだ。

 ただ紅い真っ赤な瞳が、いつまでも脳裏から離れないのだ。


「クソ――クソクソクソクソ! 一体何なんだあの糞ネコ野郎はぁあああああああああああああぁぁぁっぁっ!」


 叫んだ言葉に、反応があった。

 ゆらりと佇む長身の男。

 軍服姿の相方、ウォールスである。


「目覚めたようだな、ヴァルス」

「ウォールス、てめえ……っ、あっさり死にやがってどういうつもりだ!」

「敵が強すぎた、それだけの話だろう」


 黒刀を抱えるウォールスの反応は薄い。

 戦いの高揚がないからだろう。武人然としたその態度が気に入らなくて――ヴァルスはイラ立つ感情をそのままに髪を掻き上げ。

 ぎしり。

 相方の背中を裸足で蹴り上げる。


「てめえ、おいこの糞野郎! アレは一体なんなんだ、てめえが再生している間に俺様は二度も殺されたんだぞ――っ!」

「さあな。我らが女神の導きにあのような化け物の記述は残されていない。イレギュラーとみるべきだろう」


 導きにイレギュラー?

 親指を噛み切りながらヴァルスは考える。


 ――多少のずれは前からもあった、だが、あれは多少どころじゃねえっ――、どうなってやがる。導きに従っていれば、必ず……っ。そういう話だったじゃねえか!


 更に牙を肌に喰い込ませ、ヴァルスは考える。


 あの黒猫はいったい何なんだ。

 半端な強さじゃねえ。

 誰にも解けない筈だった――神の瞳。女神の呪術を解呪するほどの大規模な儀式を行使し、戦闘能力もやべえ。

 冷静に考えるとアレはただのフォークだった。


 ――しかし、なにより怖えのは……。

 ――既に大魔女と金赤女帝、けして相容れなかった二つの勢力がアレを通じて間接的に繋がった事じゃねえのか?


 流れが明らかに変わっている。


 奴の能力が、味方同士にならない筈の連中まで無理やりに味方にしちまう、運命改変系の能力者だとしたら――。

 次から次へと敵が増える。

 そして。

 その中心には、あの糞ネコ野郎がドヤ顔をしてのさばっている。


 糞ネコ野郎めが……っ。

 思考の中でさえ忌々しくドヤる猫を見て、ヴァルスはふと気が付いた。


 じぃぃぃいいいいいいぃぃぃぃ。


 目線が、合ったのだ。


 なんだ。

 なんだこりゃ。


 嗤っている。

 嗤っている。嗤っている。


 思考の中で嗤う魔猫が、じっと見ているのだ。

 赤い瞳を細め。

 牙を覗かせる咢を開き。


 クハハハハ、クハハハハッハハハハハハハッハハハハハハハハ!


 ぞっとした。

 隆起する背筋に、冷たい汗が流れる。


「おい、ヴァルス! ヴァルス――!」

「んだよ、糞ウォールス!? 聞こえてんだよ、耳元で騒ぐんじゃねえよ! 考え事をしてただけだろうがっ」

「バカのおまえが悩むとは珍しいな。何かあったか?」

「喧嘩売ってんのか、てめぇ、殺すぞ」


 軍服男は珍しく悩む相方に、ナイフのような目をやり。

 黒刀の表面に呪力を塗り込みながら――淡々と告げる。


「まあいい――状況を説明する。事態は最悪だ。大魔女があの黒猫と手を結んだという情報が届いている」


 言葉を聞いてもヴァルスはヘラヘラとしたまま。

 まるで虚勢を張るように、耳をほじほじ。


「知ってるよ、てめえが死んで再生している間に教皇様から聞いたっての――」

「それだけではない。お前が暗殺に失敗した金赤女帝とも手を組んだとの情報もな。真偽のほどは不明だが、これは先ほど入った連絡だ。知らぬであろう」

「ああん? 俺様が悪かったって言いやがるのか!?」


 謎の黒猫に対するイライラが、普段は出さない言葉を漏らす。

 相方の軍服男は、ふむと考える仕草をし――ぼそり。


「いや……、お前で無理だったのなら誰でも無理だっただろう。お前はバカだが実力だけは信頼している。バカだがな」

「そ、そうか! そうだよな! なーんだよ、分かってるじゃねえかウォールス! まあ、そこまで褒められちまったんなら、てめえが先に死んじまった事は、アレだ、うん、許してやるよ!」


 機嫌が直ったことを確認し。

 軍服男は黒刀を眺めながらぼそり。


「それで、あの猫が金赤女帝と組んだとの噂、お前はどう思う」


 実際、ヴァルスはあの二人が一緒にいる場面を見ている。

 にたぁ――っと嗤い。


「この目で見たから間違えねえ。って、俺様を通じた神の瞳で教皇様は様子を見ていたんじゃねえのか? てっきり、その辺の情報はもう伝わっていると思ってたんだが。ちげえのか!?」

「なるほど……」

「何がなるほどだ、わかんねえよ、説明しろよ空気の読めねえ野郎だな!?」

「どうやら――あの黒猫の周囲にいると神の瞳の効果は発動しなくなるようだな。厄介な常時発動スキルを何重にも展開しているのかもしれん」


 厄介な相手なのは分かっている。

 震える身体を鼓舞し、サメ牙神父は言う。


「おもしれえじゃねえか、あの糞ネコ! 俺様がこの手で確実に殺してやる……ッ!」


 軍服ウォールスの片眉がピンと跳ねる。


「アレ相手に勝算があるのか?」

「いや――ねえ」


 ギシシシとサメ牙で笑う神父に、軍服男は嘆息をもらす。


「だーいじょうぶだって、ウォールスちゃんよぉ! こっちは不死なんだ。何度かやってるうちに弱点でもみえてくるだろうさ」


 ケラケラと笑いながらいつもの神父服を召喚。

 孤児院跡地から出ようとするサメ牙ヴァルス。

 その背に、軍服ウォールスは問う。


「どこへ行く?」

「教皇様からの次の命令はまだねえんだろ? ちょっと買い足しだ、買い足し。リポップしたばっかだから腹減っちまったんだよ。それに、そろそろ春になるだろうが! 父様と母様に新しい服を用意してやらねえと、駄目だろうが?」


 ん? ん? と、素晴らしいアイディアを褒め称えよとサメ牙を光らせ。

 木漏れ日の中でヴァルスは相方の言葉を待つ。


 対照的に。


 日陰となった修道院跡の闇の中。

 言葉を受けて、軍服姿の男は静かに瞳を伏す。

 告げる言葉を探すように、黒刀の輝きを追って――男はそのまま口を開いた。


「ああ……そうだな」

「まあついでだ、てめえの分も買ってきてやるよ」


 振り返らずに手を振って。

 神父は街へと繰り出した。


 ◇


 修道院の孤児院跡から転移し、影を渡ってやってきたのは――王都。

 煌びやかな街の片隅。

 娼街と歓楽街の住人がよく使う、場末にある寂れた市場。


 それでも普段は人の出入りが多いのだが。

 夜明けを迎えて日が昇り――まだ朝の時間もあまり経っていないからだろう、人の姿はまばらだった。


 その代わりだろうか。

 珍しく猫魔獣の姿がチラホラと見える。


 彼等は市場の食料目当てで集まってきたのだろう。


 三毛猫が、露店串の屋台に前脚を掛け、うにょーん♪

 主人にうにゃーんと甘えた声を出し、見事、タレの鶏もも串をゲットし、瞳を輝かせている。


 ハフハフと鶏ももを頬張りながら、三毛猫がドヤァ!

 かわいいワタシは貰えるけれど、人間のあんたじゃ貰えないでしょ?

 そんな顔で。

 ドヤァァァァッァァァァアア!


「――はぁああああああああぁぁぁぁぁ!? べ、別に羨ましくなんか、ねえし? っち、人間だったら殺してるぞ、てめえ!」


 まあ、そういうことにしてあげましょう。

 そんな顔をして三毛猫が、ふっと一切れ鶏モモを石畳において。

 憐みの微笑。


 お食べなさい?

 と、施しをするように残して、トッコトッコトッコ。

 別の露店でもおねだりするために去っていく。


 施された食べ物を無駄にするのは悪だ。

 そう判断したヴァルスは三毛猫が置いていった一切れをモショモショ銜えて、三白眼でジト目を作る。


 今日は何やら多くの猫魔獣が集まっているようで。

 朝の炊き出しの香りに釣られて――うなんなうなんな!

 そこかしこからネコの声が聞こえている。

 市場の人間達は珍しい光景に気をよくしたのか、それぞれの自慢の商品を分け与えているらしい。


 猫がうなんな、うなんな♪


 ささやかなご馳走を人間から施され、ムッチュムッチュムッチュ。

 美味しそうに頬張っている。


 物欲しそうに猫を見る神父を、彼らはじっと見つめ返して。

 ヒソヒソヒソ……!


 立派な髯も無ければ、しっぽもない。

 あれじゃあご飯は貰えないわね。

 かわいそうに……。


 そんな、ネコ達の声が聞こえるようで――サメ牙ヴァルスはくわっと口を開く。


「あー、くっだらねえ、くっだらねえ! いいか、てめえら! 狩りが出来なくなって滅んじまっても、知らねえからな!?」


 そんな朝の珍風景の中。

 普段はいない猫魔獣たちの広場を通り過ぎて――。


 殺戮の神父ヴァルスはいつものように歩いていた。


 口笛まじりに歩きながら、聖書を読むふりをして品定め。

 腹ペコ神父は考える。


 市場の食料を買おうとしたが金がない。

 そりゃそうだ。

 リポップしたまま来たのだから。

 ネコのようには貰えない。


 何故ならこれは自然の摂理。見知らぬネコに優しい人間はわりといるが、見知らぬ人間に優しくする人間は珍しい。


 けれど、問題ない。

 金はなくとも人はいる。

 こっそり殺して奪えばいい。


 猫がねだってエサを貰うのと同じことだ。

 必要だから殺して奪う。

 生きるための手段が少し違うが同じことだ。


 他人に施しを行う善人など、世界のどこにもいないと知っていた。

 だったら奪うしかない。

 それは生きるための知恵。


 ヴァルスにとってはそれが常識であり、平常だった。


 ただ――殺すなら役人が良い。

 安定した収入があって財布は分厚い、なによりも仕事で治安を守っているのだ、死んでしまってもそれは職務を果たしただけ。

 それともう一つ理由がある。


 ヴァルスという男は、役人を酷く嫌っていたのだ。

 ターゲットを探し。

 ひょこひょこ歩いて、ササササ。


 ちょうど良さそうな衛兵を見つけた。


 樹の陰に隠れて――ニヒィ!


「それじゃ、悪いけど――てめえはこれでおしまいだ」


 ヴァルスがいつものように街の衛兵の心臓と財布を、スゥッと抜き取ろうと魔術を発動。

 影の中を渡り歩いて。

 闇の中。

 手を伸ばそうとした。

 その時だった。


 想像を絶する痛みが――襲った。


「ぐがあっ……ッ!」


 痛い、痛い痛い。

 ナニかが、心臓をひっかいている。

 まるで爪とぎでもするかのように、バーリバリバリバリ!


 ――なんだ、これ……は!


 不意に。

 意識に赤色と黒色が過った。


 ぶにゃははははははははははは!


 赤と黒の正体がネコだと気が付いたのは、それが猫の声を出していたからだろう。

 市場に居たネコじゃない。

 やつらにこんな力はない。


 じゃあこれは、なんだ?

 いない筈の猫が、意識の中でだけ鮮明に見えているのだ。


 トテトテトテ♪

 黒い毛玉が――近づいてくる。

 じぃぃぃっとヴァルスの瞳を見て。

 ルビーのように紅い瞳を尖らせ。

 にひぃ!

 意識の中に居る、黒猫が――嗤った。


 刹那――。

 慟哭が、ヴァルスの喉を劈いていた。


「ああぁぁああああああああああぁっぁぁ、う、ぃいいぃぃ、がぁぁぁぁぁぁぁぁ――ッ!」


 黒いナニかが、心臓を掴んでぎしり

 引っ掻き回し始めたのだ。


 影から抜け出したヴァルスは、巨木の周りの土の上。

 のたうち回って悲鳴を上げる。


 耐えがたい苦痛が嘔吐を誘発する。

 何も入っていない、胃液だけが漏れる。

 筈だった。


 けれど、唾液の中からは黒い毛が、ジトジトジトジト……浮かんでいる。

 なんだこれは。

 神父は考える。

 土を抉るほど指を軋ませ、痛みをこらえて胸に結界を張る。


 少しだけ痛みが和らぐ。

 つまりそれは――外部からの攻撃。


 ――呪い……っ、バカな。ありえねえ!? リポップすれば全てがリセットされる筈じゃねえのか!?


 これが呪いだと気付いたのは、サメ牙神父が腐っても聖職者だったからだろう。


 原因を探るように、地面を濡らす液体を眺め。

 浮かぶ毛が何かの獣の毛だと気が付き。


 サメ牙男の三白眼が、ぎょっと広がる。


 解呪しようと聖書を翳す。

 日差しの下、伸ばす腕と聖書によって作られた影が蠢いていた。


『あー、よいしょ、こらせ♪ どっこいせ!』


 そろり。そろり。

 猫が、影からズズズ。ズズズと這い出てくる。

 市場でおねだりをしていたネコではない。


 それは、恐怖の対象でしかない黒猫。

 ひぃっと思わず漏れそうになった声を必死に堪え、三日月刀を召喚しようと手を伸ばす。

 が――。


『やあヴァルス君』


 声と共に。

 ぞくりとするほどの殺意が、影からザワザワザワザワ。

 浮かび上がってきた。


 シュン!


 音が鳴った。

 空気が揺れた。

 遅れて風が吹いて、周囲の樹々が揺れ始めた。


 ――おかしい、声が、でねえ……。


 木漏れ日を作る嫌味なほどに温かい太陽が――視界に映っていた。

 葉擦れの音が、聞こえる。

 爽やかな市場の声も届く。


 子どもの声だ。

 両親に甘えて寄り添って、頭を撫でて貰っている。

 手が物欲しそうに、伸びて。

 瞳が、美しい家族の姿を追っていた。


『いや、幸せそうな家族を殺そうとするのは……さすがにドン引きなんだけど』


 別に殺そうとしていたわけじゃない。

 けれど。

 血に染まった自分が手を伸ばせば――そう見えるのだろう。


「てめぇ……あの黒猫か」


 やっと声が出せた時には、ぐじゃりと音がして――燃える肢体が見えていた。

 殺戮の神父はようやく気が付いた。


 燃えているのは、自分の身体だ。


 慌てて消火の魔術を使おうと、胴体に命令し――魔術を発動させるが。

 ベーチベチベチ!

 生み出す魔法陣がキャンセルされる。


 柔い感触が、頬を叩き――ゴゥ!


 また、視界が飛んだ。


 ――なんで、首がぐるぐる……。


 ドサリ――ぐるぐると視界が回る。


 髪がぐるぐると地に引っかかる。

 地面をぐるぐる、砂利が口の中に入る。


 ――つぅ……っ! はぁあああぁっぁあっぁぁぁぁぁ!? な、なんだっていうんだ!


 叫んで瞳を開けると。

 そこにあったのは。


 赤。

 赤。赤。赤。

 赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。


 市場中の猫魔獣が集合し、紅き瞳をギラギラギラ。

 その中の一番大きな赤。

 黒くて大きくてふわふわな獣が一匹、のたうつ生首を睨んでいる。


 どす黒く深い赤色が、じぃぃいいいいいいいいいいい。

 目の前で揺らいでいた。


 視界も揺らいでいる。

 生理的な涙だろう。


『まずは一回目。それじゃあ、次はもっと頑張っておくれよ』

「な……んで――」


 断末魔の吐息が――黒猫の体毛を揺らす。


 獣の吐息が肌を濡らす。

 それが少し離れると、今度は黒毛が見えた。

 咢を蠢かし、獣はぎしりと嗤う。


『だって君、今――関係のない人を殺そうとしただろう?』


 肉球が見える。

 爪が見える。

 恐ろしい、目が見える。


 赤。

 赤。赤。赤。

 赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。赤。


 紅い瞳の下。

 猫が嗤った。


 ブチ。


 ◇


 浮上する意識。

 瞳に刺さる黒い魔力の奔流。


「ぎゃああああああああああああああああああああぁぁぁぁっぁぁぁあ!」


 絶叫と共に起き上がり、はぁはぁ……と汗で濡れた身体を揺らす。

 肩で息をし。

 周囲を見渡す。


「リポップした、のか……」


 あれは間違いない。

 あの黒猫だ。


「クソッ!」


 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 動物的な本能が、身体をゾクリとさせる。


 死にたくない。


 それはまだ子供だった時に何度も叫んだ言葉。


 バシンと大人になった手で、顔を覆い――ヴァルスは呼吸を整える。


 身体の震えが止まらない。

 確信したのだ。

 アレには絶対に敵わない。


 何か呪いをかけられたのは間違いない。

 亜空間に長い手を挿し込み――取り出した鑑定の魔道具を自身に使う。


 判定は、鑑定不能。

 相手が強力過ぎて、呪いを鑑定できないのだろう。


「呪いが解けねえと、人間を殺せねえじゃねえか!」


 いや、それよりも。

 自分の身の心配をするべきか。

 どういうことか。

 あの黒猫の攻撃だけには痛みという概念が発生するのだ。


 もはや捨て去ったはずの痛みが、ある。

 それは不死の男が久々に思い出した、現実的な恐怖だった。


 また殺されるのではないだろうか。

 そう。

 ごく当たり前の不安が、脳裏を支配し始めていたのである。


「あれ……なんで、俺。いやいや……はは、ありえねえだろ。この俺様が? 死ぬのが? 怖い?」


 不意に怖くなった。

 不安になった。


 だから走った。

 父様と母様が待つ部屋に向かい、足が勝手に動いていた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] うん、外道が苦しむ様は実に良いものです。 [一言] ケトス様の視線を幻視したり物凄い痛みはケトス様のかけた呪いですかね? うん、外道には相応しい呪いですね((o(^∇^)o))
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