大司祭アイラと報告書 ~串団子は罪の味~後編
それは映像で見ていた筈の、あの大魔帝。
魔猫がよいしょよいしょと手をかけて、ヴィジョンの中から実体となって這い出てきたのだ。
瞬間転移。
しかも遠見の魔術の場所まで把握して。
それほどの圧倒的な使い手。
「大魔帝……ケトスさま……でいらっしゃいますね」
「そうだよ、君は?」
相手が絶望的なほどに強力だからこそ、むしろアイラは冷静になっていた。
どうせ歯向かった所で勝ち目はない。ならば――。
「不躾な遠見、失礼いたしました。わたくし、この黒の聖母様に御仕えする大司祭、アイラと申します」
丁寧に詫びと、自己紹介をする。それだけだ。
「黒の聖母様?」
「はい、かつて魔導帝国ガラリアを滅ぼされたあなたならばご存じだとは思いますが」
「も、もちろん知っているよ。黒の聖母ね、うん、知っている」
まるで誤魔化すように言いながら、大魔帝ケトスはもっきゅもっきゅと肉球足で聖なる中庭を歩き回る。
まるで自分の庭かのように堂々とした姿だった。
影たちが調べ上げた報告書を目にし、猫目をスゥっと細めた。
報告書が宙に浮かび、ケトスの前で一枚一枚捲れていく。
「そちらの報告書が今回、あなた様を遠見させていただいた理由で御座います」
「へえ、良く調べたね。まあだいたい合ってるよ。これを調べた部下? かな、その人たちは優秀だ。ちゃんと労ってあげなよ」
大司祭を守るため警戒態勢で隠れている部下たち。
闇に潜む彼らに向かい、黒猫はふふんと眼差しを送る。
コレには絶対に勝てない。
どんな些細な反抗さえしてはいけない。
確信したアイラは片手をスッと影に向かい差し出した。部下たちを止めたのだ。
「西にも東にも加担しているようですが、何が目的なのでしょうか」
「別に目的なんてないさ、魔王様がお目覚めになるまでただ退屈だから暇をつぶしているだけだよ」
これほどの偉業をあっさりと暇つぶしと言い切った。
大司祭アイラは口元に手をあてて、くすすと微笑した。
「可愛い笑顔だね」
「これは失礼を……ふふ、申し訳ありません。魔族の方はもっと恐ろしい者だと思っておりましたので」
「今の魔族は平穏なのさ。君たち人間同士が争っているおかげで無駄な戦いをする必要もないからね」
痛烈な批判、ではなく。
ただ純粋な感想といった風だった。
大司祭アイラは数少ない貴重なこの機会に胸を躍らせていた。
この黒猫は案外に紳士だ。
もしかしたら――。
「一つお願いがございますの」
「ん? 聖職者である君が魔族である私にかい」
「その、あの……あなた様がお持ちになっている、串団子という名物とわたくしの所有している葡萄酒を交換していただけないでしょうか」
言って、大司祭アイラは差し出した手のひらから一本の祝福された酒瓶を取り出した。
英雄級の人間たちがようやく使うことができる特殊魔術。
亜空間収納である。
大魔帝は亜空間収納にまったく動じた気配を見せずに、酒をじぃぃぃぃっと眺める。
「葡萄酒って、それ神の力が込められた神酒、ネクタルだろう? たしかにこの御団子はものすっごぉおおおおおおおおおおおおおおおく、美味しいけど、さすがにネクタルほどの価値はないよ」
「わたくし、この神殿からでたことがないのです」
大司祭は無垢な乙女の表情で神木に覆われた神殿に目をやった。
「籠の鳥か……可哀そうに」
「鳥ほどに愛らしければよかったのですけれど」
大司祭アイラは思わず微笑んでいた。
亜空間収納をみても驚嘆したり、怪物扱いしない大魔帝に心を許しそうになっていたのだ。
「わたくしにとって、神に祈りさえすれば量産できるネクタルよりも……生涯手に入らない串団子の方が価値あるものなので御座います」
「まあいいよ、こちらとしてはネクタルを持ち帰った方がみんなの反応もよくなるだろうし」
大魔帝は魔力でネクタルを浮かせると暗黒空間に収納する。
そして。
トテトテトテと肉球歩きをし、人型の姿へとその身を変貌させた。
高位魔族のみが扱える変身魔術。
幻術や幻影ではなく存在そのものを変貌させる失われた幻の術である。
それを一瞬で。
大司祭アイラの目の前に立っていたのは、端整な顔立ちをした黒猫獣人紳士。
長い前髪の隙間から、吸い込まれてしまいそうな程に美しい赤い瞳が覗いている。
魔族の魔性の波動は酷く蠱惑的だ。
「さあ手を出して、これは君のモノだよ」
アイラに串団子の笹包みを手渡し、そして魔獣は乙女の手のひらに触れた。
あくまでも紳士的な接触だったので不快感はない。
いや、それどころか。
「え……? これは……っ」
アイラは思わず、息を呑んだ。
「これはオマケだよ。さすがに御団子でネクタルを貰ったとなったら魔王様に叱られてしまうからね」
「なにを、なさったのですか」
「魔力のつきかけていた君の魂に細工をしてちょっと補充しただけだけど、もしかして余計なお世話だったかな?」
言われて、はっと自らの変化に気が付いた。
「そんな、まさか――うそ」
既に朽ちかけていた生命力が、補充されている。
短命で終わる筈だった運命を受け入れていた。その筈だったのに。
アイラは、唇を震わせた。
まだ、生きられる。
なぜだろうか。
視界が、霞んでいた。
「どうしてわたくし、泣いているのかしら」
「綺麗な心だね、君」
魔族の指が乙女の涙を掬う。
「優しい君の魂の心は、魔王様に少し似ているんだ。だから、特別だよ」
涙を拭った指が、薄く透明になっていく。
消えようとしているのだ。
アイラは思わず叫んでいた。
「お待ちになってください! なにか、お礼を!」
「どうかその心を忘れないでおくれ、捨てないでおくれ」
言葉と共に。
大いなる魔帝は、闇の霧の中へと消えていく。
噴水に映っていた景色も、ザアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっとノイズだけを漏らし、消えている。
僅かな出来事だった。
本当に、たった数分のできごと。
なのに。
その数分は――大司祭の運命を大きく変える事となった。
「わたくしは、まだ……生きていていい、ということでしょうか」
アイラは黒の聖母像に目をやった。
聖母の像はなにも答えてはくれなかった。
「ケトス神……ですか。たしかに、心弱ったモノであったのなら気まぐれな奇跡に心を奪われてしまう瞬間も、あるのでしょうね」
自らの腕に視線を移す。
魔力で、満ちている。
ネクタルなどでは釣り合わない奇跡だ。
なにかもっと、他に取られているのではないか。
大司祭は、考えた。
胸が、微かに赤く痛む。
「わたくしのここ……いえ……それはさすがに、乙女過ぎますわね」
そう思っていたら。
「アイラ様、大変です! 食糧庫の結界が何者かによって破られ、貯蓄してあったブドウが一箱、奪われました」
聞けば、結界の片隅に猫が一匹通れる程度の穴が空いていたのだという。
対価という事だろうか。
それは大魔帝の悪戯の名残か。
「ふふ、なら今度また、あの方がいらっしゃる前にたくさんのブドウを用意しておかないといけませんね」
大司祭アイラは天を仰いだ。
中庭という名の牢獄。
奇跡を謳い、清浄を尊ぶこの鳥籠の中で。
何年ぶりだろうか、少女としてのアイラは静かに微笑んだ。
笹包みを解き、串団子とよばれる菓子を口にする。
「これを美味しい、というのですね」
聖職者としての厳しい修行。
度重なる責務に追われ、いつの間にか失っていた味覚までもが、戻っている。
その日。
初めてアイラは一度だけの背徳の許しを神に祈った。
今だけは。
見知らぬ俗世の味を堪能するこの一瞬だけは、仕える神ではなく、気まぐれな神に祈りを捧げさせてください、と。
おそらく。
いや絶対に。
彼女は思った。
生まれて初めて口にしたこの串団子の味を、二度と忘れることはないだろう。
と。
大司祭という重圧に潰されてかけていた乙女の笑顔を、叱責する者はいなかった。
食べ終えたその次の瞬間には。
いつもの敬虔なる信徒である彼女に戻っていたからだ。
それにそれどころではない事情もあった。
歴史に名を残す魔猫ケトス神の再臨。
皆が皆、あの大魔帝の降臨に慌てていたがあの穏やかな邪気のせいか、それほどの緊張感はない。
代々の大司祭がその生涯を祈りで費やし終える中庭。
その鳥籠に光が差した。
眩しさにアイラが振り向く。
「聖母さま……?」
彼女は思わず問いかけていた。
それは偶然だったのだろう。
大魔帝ケトスが闇の霧に紛れて転移する際に、樹々が揺れ、ただ光が差し込んだだけ。
光の角度が変わっただけ。
口元の印影が。
ほんのすこし動いただけ。
その筈なのだ。
けれど。
黒の聖母像は笑っていた。
彼女の一度だけの背徳を許すかのように、穏やかに。
優しく微笑んでいたのだ。
幕間
大司祭アイラと報告書 ~串団子は罪の味~ ― 終 ―




