大司祭アイラと報告書 ~串団子は罪の味~前編
鳥達が鳴き始める早朝。神木に包まれた大聖堂の中庭。
聖水の噴水で守られ闇を寄せ付けない神殿は、汚れなき乙女の力で満ちている。
女神と崇める偶像の魔道具、黒の聖母像の前。
女性の身でありながら大司教の地位まで出世したアイラは、静かに、神に祈りを捧げていた。
飛び立つ鳥の悪戯か、緑から滴る朝露の雫が彼女の胸の谷間をそっと伝う。
祈りの内容は――。
ここ数か月に起こった世界の出来事。
黒い何かが蠢く異変。
邪を感知する聖女でもあるアイラは妙な胸騒ぎを覚えた先日、周辺国の調査を依頼したのだが――。
「神よ、これもあなたが与えたもうた試練なのでしょうか」
もう一度。
アイラは深く手を握り、心からの祈りを捧げた。
彼女は信じられない報告書を目にしてしまったのである。
魔族による人間世界への介入。
その報告が事実かどうかは分からない。
けれどそう噂されているのは確からしい。
英雄級の魔術の使い手であり稀代のネクロマンサー、紅の死霊姫ナディアの戦争放棄宣言。その従者であり本人も英雄級の実力を持つ聖騎士アーノルドの騎士団脱退、及び暗黒騎士への転向。
不穏な影はその他にもある。
東の国家プロイセンの第一皇子、かつて神童と呼ばれた天才召喚術師ダルマニア急逝の噂。
異世界から降りし紅の魔剣の目撃報告。
霊峰に隠れ住むロックウェル卿の数十年ぶりの降臨。魔を引き寄せる異常な地域、かつて戦争に負け滅び、歴史の裏で処理されたとされるダークエルフの里の発見。その浄化。
遠き島国の魔女、先見の巫女マチルダが手にしたという伝説級の魔杖。
それら全てに得体のしれない瘴気――黒猫の影があるというのだ。
真相は分からないが、その他にも、稀少な鑑定スキルを持つ少女、トップレベル冒険者でギルドマスターでもあるダークエルフの両名すらもその黒猫と関わり、手懐けられたとの疑惑も上がっている。
力ある黒猫。
誰もがまず最初に思い浮かべるのは――。
降臨する度に歴史に名を刻む災厄の魔猫、大魔帝ケトス。
魔王の擁する強豪の中でさえも格の違う一柱。
最強の座を欲しいままにした伝説の魔獣の名だ。
ありえない。
大司祭アイラは黒の聖母像の無機質な微笑の前で、僅かに眉を潜める。不安が、過ったのだ。
百年前の再来。
魔族と人間の戦争。
「まさか……っ、いえ、わたくしの考えすぎでしょう」
大司教アイラは思わず浮かんだバカげた考えを一蹴した。
一部の地域で神としても崇拝される大物が、限られた寿命しかない短い自分の在任期間に降臨する筈などない。
アイラは自らの腕を眺めた。
まだ若い。けれど魔力は既に枯渇しはじめている。
大司祭として既に様々な奇跡を行使し、若さとは裏腹に、命の焔が朽ちかけている。自らの死期の接近を自覚する彼女はほんのすこし、俯いた。
漠然とした不安は胸を伝い続けている。
アイラは貌を上げ、きゅっと唇を強く結んだ。
違うにしてもだ。
調査するくらいはしておいた方が良いだろうと、影に向かい透き通った声を上げた。
「誰かいらっしゃいますでしょうか?」
「お呼びでしょうか大司祭アイラ様」
神殿の柱の影から現れたのは、護衛であり影と呼ばれる部隊の一人。
事情は明かされていないが、何らかの理由で冒険者ギルドを追われた世捨て人である。影の男は貌にまで巻いた包帯の隙間から主人の表情を眺めた。
アイラは包帯の隙間から覗く影の男の虚ろな瞳に、無防備に目線を合わせ。
微笑んだ。
「よくぞ来てくださいました。わたくしなどの護衛をしただき、いつも感謝しております」
大司祭アイラは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、家臣の心を悪戯に動かした。
ただ。美しいのだ。
無自覚は罪だと彼女に仕える家臣は皆思っているだろう。
「拾われた恩は忘れません、ただそれだけのことでございます。して、大司祭様が影に何の御用で?」
「早速で申し訳ないのですが、本日は遠見の魔術を頼みたいのです」
遠くにいる相手の魔力を探り、映像として投影する儀式魔術の一種である。
「承知いたしました。何をみればよろしいので」
「猫魔獣です」
「……? どなたかが御飼いになられてるネコでも失踪なさったのですか?」
「違いますわ。わたくしが申しておりますのは、猫魔獣……伝説の大魔帝ケトスの影がないか念のため見て欲しいとお願いしているのです」
「は、はあ……」
何を馬鹿な、そんな同意見な顔をしている影にアイラは苦笑してしまった。
「そのような貌をなさらないでください。祈りばかりで耄碌したわけでもございません。ただ、念のため。心のどこかに潜む不安を取り除くためのお願いでございます」
言って大司祭は服の中から古ぼけたブレスレットを取り出した。
「これはかつて大魔帝によって命を落とされた勇者様のおつけになっていた腕輪。これには強力な大魔帝の魔力がしみついている。おそらく、これを目印にすれば、近くに降臨しているか、していないかぐらいは分かりましょう」
「畏まりました」
影はそんな貴重な品を預けてくれる主人の信頼に歓喜し、気付かれないよう、小さく唇を噛んだ。
「では、お願いいたします」
儀式は数人の司祭と影の部隊の手によって執り行われた。
噴水の正面にヴィジョンが浮かび上がる。
アイラは思った。
ただの杞憂だ。
そうに決まっている。
影の部隊たちもこう思っていただろう。
心優しい大司祭様の慈愛が少し過敏に反応してしまっただけ、と。
誰しもが、なによりも彼女自身もそう思っていた。
ザザ。
ザアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。
映像が、反映される――。
ガタリっ……!
「これは……っ」
「まさか!」
恐るべき杞憂は、現実のモノだった。
おびただしい魔力波動を帯びる黒猫が、鶏を連れて――道を歩いている。
これは西帝国の街道か。
「これが大魔帝、ケトス神……なにを……なさっているのでしょう」
アイラの呟きに影の一人が、言った。
「串団子を食べておりますな」
「串団子? 串団子とはなんでしょうか。わたくしの知らない魔道具、でございましょうか」
不安そうに映像を眺めるアイラの横顔に、皆は答えられずにいた。
串団子を知らない大司祭への憐憫。大魔帝ケトスがなぜ串団子を食べているのか理解できない、その二つの感情に動かされていたからだろう。
包帯で貌を覆う影が無垢な大司祭に進言した。
「串団子とは西帝国道中の関所名物、甘い菓子に御座います」
「お菓子? どういうことでしょうか、大魔帝ともあろう者が……お菓子を?」
「さ、さあ我らには……その心は理解できないので」
いったい、なにごとだ。
そんな疑問に皆が混乱する中。
ふと、猫が振り返った。
『おや、誰だい。無断で私を見ているのは』
猫が見ていた。
『よいしょっと、おや、ずいぶんと綺麗な人じゃないか』
真っ赤な眼球が、噴水全体にぎらぎらと映っている。
次の瞬間。
にゅうぅぅぅっと、猫の貌が出現した。
「やあ、お嬢さん。私に何か御用かな?」




