死にゆく女神の断末魔 ~【SIDE:原初の神リールラケー】後編~
【SIDE:原初の神リールラケー】
殺される――それは女神リールラケーにとっては青天の霹靂で。
いざ、その瞬間が迫った時になって。
改めて彼女は考えた。
――死ぬって、どういうことなのかしら。
そうして、ふと怖くなった。
足元が急に、グラついた。
薄氷の上に立っているような、心細さが胸を掻きむしっていた。
そう。
死ぬのだ。
――滅びる。
――滅びる? 死ぬ? このあたしが?
女の脳裏に、様々な記憶が蘇る。
走馬燈だ。
たくさん、殺した。利用した。弄んだ。
挨拶が気に入らないわ。
そうして殺した。
貌が気に入らない。
だから殺した。
人も、神も。魔族も。
殺した。
たくさん、たくさん、たくさん。だって自分は原初の神。偉いのだから、遊んだっていいじゃない?
過去の自分が、何も知らずに笑っている。
殺される方が愚かなんでしょう?
悪いのでしょう?
過去の自分が、まるで今の自分を嘲笑するかのように嗤って――優雅に、呑気に、嬲り犯し、殺した聖者の生き血を杯に注いで、味わっている。
肉欲の宴を楽しむ過去の自分が、未来を知らずに嗤っている。
あら、あの男。死んだの?
仲間が死んだのになんでそんな笑っているのかですって?
どうでもいいわ。
関係ないですもの。
だって。
あたしはそんなヘマしないわ。
だって、あたしに敵なんていないんだから――。
全部、眷族にしてしまえばいいだけの話。
効かなかったらどうするですって?
そんなこと、考えても無駄よ。
何百年、ずっと現れなかったのよ?
だったらこれからも大丈夫。そんなことより遊びましょう? 踊りましょう? 絡みましょう?
ふふ、あはははは!
楽しいわ。
この世界はきっと、魔王を名乗るあの男のモノではなく、あたしのためにあるんだわ。
だって、この世はこんなにも美しい。
それって、きっと。
あたしのモノになるために、綺麗に作られたんじゃないかしら?
過去の自分が、笑って。
死にゆく他人の断末魔を聞いて、冷笑を浮かべている。
将来の自分も、同じように。
惨めに殺されるとは知らずに。
現実に戻ってきて――彼女の口は叫んでいた。
「そ、そんな――っ! あたしは、あたしは……っ! いやぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁっぁぁぁぁあ!」
余裕を失った貌で、けれどもはや手段もなく後退りする程度の反応しか示せない。
叫ぶしかない。
惨めに叫んで、縋るしかない。残された武器は女性という部分しかない。
「おねがい……っ、あたし、もう、わるいことはしないから……っ、罪を償うから……っ、虐げた人間のために、やってきたことの倍以上の、貢献をするから。だから、おねがい、ころさないで……、ころさないでよぉ――ッ」
黒猫の動きが止まった。
効いている?
「ゆるして、くれるの?」
『それを決めるのは、私じゃない』
言って、黒猫はしばし考え。
『君がいつから、どこから介入していたかは知らない。けれど今、エンドランドは君のおかげでめちゃくちゃだ。本部は滅び、どこで拉致されたのかも分からない電池にされた人間達で溢れている。何も知らなかった市井の民はこれからきっと、苦労をする』
紅き瞳をゆらゆらさせて。
黒猫は人間の未来を憂いて、牙を見せつける。
『裁判を受けたまえ。人間世界に介入し、混乱させたその責は――人間世界の法で裁かれるべきだろう。その場で誓えばいい。罪を償うと。曲がりなりにも君は本物の神だ。大いなる光のように、人々の未来を照らす主神の器たる存在にもなれるのだろう。もし、君が、本当に心を入れ替えて何年、何十年、何百年と人間に尽くしたのならば――道は変わるのかもしれない。君を許し、救国の神として人間は受け入れるのかもしれない。いつか……信頼を取り戻す日も来るのかもしれないのだから』
リールラケーは思った。
キラキラキラキラ。老いた顔で救いの言葉を受け止めて、心の底から思っていた。
やはり。
甘いわ。この男。
これはチャンスだ。
油断している今なら――。
噛んだ指先から血を滴らせ――女は魅了の魔術を詠唱する。
眷族化はレジストされた。
けれど、完全耐性を貫通していたことは敵自身も認めていた。
あくまでもレジストされただけ。単純な力比べで負けていたにすぎない、
そこに逆転の芽があるはずだ。
下等な人間のために動け?
罪を償え?
冗談じゃないわ。
一瞬でいい。
もしその耐性を貫いた先にある大魔帝ケトス本体を魅了出来たら? 体液を用いた儀式と並行して発動させれば、そのレジスト能力を超える事ができるのでは?
原初の神として、リールラケーは最後の賭けにでることにした。
大丈夫。
安心しなさい。
――だって、あたしはリールラケーよ?
いつだって。
勝利の女神は自分の頭上で輝いていたのだから。
女は手を翳し――そして。
「魔力解放……っ、――ん、ぐうぅぅ……あ、あああぁぁぁぁああぁぁぁ! な、なに……!?」
ザザ!
縋り、騙そうと大魔帝に近づく女の首筋に――何かが不意に飛びかかっていた。
図太くギラギラと照る、長い影だ。
尖るスネークアイ。
まるで宝石のような、紅い瞳。
シャァァァァァアアアアアアアアァァァ!
「――ッ!」
女は獣に噛みつかれていた。
白い肌に、二つの大穴がメキリメキリ――めり込んでいく。
「ど、……ぅ、して?」
噛みついたのは闇に這う、異形なる黒猫ではなく。
女神たる美貌を象徴とする肉体に纏わりついていた大蛇。
他者を堕落させる誘惑の化身――彼女の眷属であった、蛇神だった。
致命傷となる毒の牙を受け……それでもリールラケーはただ呆然としたまま。
佇んでいた。
女はゆったりと顔を上げて、猫を見た。
滾らす憎悪を無理やりに……黒猫という器に詰め込んだ、化け物を見た。
「この蛇が、あたしを裏切る筈がない。自分も滅びるはずがない。だからこれは、全部、まぼろし。ねえ、そうでしょう? ねえ、そうよね?」
口が、疑問を投げかけ動いていた。
答えるモノなど、いないはずなのに。
「だって、あたし……リールラケーなのよ? 楽園の……女神。滅びていい筈、ないわよね?」
そんな、何の根拠もない自信が――この状況を否定している。
けれど、痛みは本物だ。
毒から伝う痺れも、肌を伝う熱さも、死への恐怖も本物だ。
『本当に、そう思っているのなら……君は幸せ者だね』
女は自らの手のひらを鏡にするように眺めて。
自らを噛む蛇神に目をやって。
やがて。
ぽつり……と、言葉を漏らした。
「どうして……おまえが……」
『やっぱり。まだ気づいていなかったんだ。君の眷属、私が貰っちゃったんだよ』
ヒタヒタヒタ――と。
女が這う冷たい床に、肉球の音が鳴り響く。
『始原――解放。甘き林檎パイへの誘惑。ほら、君の権能さ。この蛇たち、元から君にそれほどの忠誠を尽くしていなかったんだろうね。魔術を使ったら、自ら協力してその身を任せてくれた』
ひたひたひた。
ひたひたひた。
肉球の音。
肉球の音。
滑稽で、コミカルな音なのに――自らの眷属に殺されかける今のリールラケーにとっては、とても恐ろしい音に聞こえていた。
それでも体は動かない。
『まあ蛇たちを責めてはいけないよ――それはお門違いな恨みさ。彼らは彼等なりに、忠誠を尽くした。この子達、私の眷属化を受けてなんて言ったと思う? 君の命乞いをしたんだよ。度し難いクズで、下品で、救いようのない女だが……それでも長年仕えた、主で女性なのだと。だから、最後のチャンスを与えて欲しいとね。私もね、できれば女性を殺したくはないんだ。だからね、本当に心を入れ替えるのなら……見逃してあげてもいいと思っていたんだ』
闇の中。
煌々と照る紅き憎悪の瞳が、ぎらぎらぎらぎら。
輝いて――。
けれど、その口は真実を告げるように。
『残念だよ――』
そう、囁いていた。
蛇たちも、もはや心から主人を入れ替えたのだろう。
毒で崩れていく女の足を見て、シャァァァァァァァと威嚇するように叫ぶ。
自分よりも上手く、眷族化の力を行使する魔猫を見て。
「なんで、あたしを……ほろぼすの――?」
女は大粒の涙を浮かべて言った。
崩れていく神殿。
人を捨てた愚かで哀れな肉塊の壁。
蟲人への進化などという理由も分からぬ理想を植え付けられた人間達の遺骸が、ぎしりぎしりと揺れる中。
まるで被害者の様な貌で、女は黒猫にそう聞いたのだ。
神たる蛇を引き連れ、猫はゆったりと歩み寄る。
『君が、その理由すら分からないからだよ』
眷族化の始祖たるその力を完全に盗み取り、彼女の味方だった筈の蛇神を全て魅了して。
猫は紅き瞳を輝かせ。
言った。
『過ちを指摘してくれる者すら操ってしまった。それが――君の最大の過ちさ』
女の視界が。
揺らぐ。
斜めに弾けて……薄れていく。
黒い獣の腕が、そっと横を薙いだのだ。
女は見た。
自らの落ちる首を。
反射的に掴もうと伸びた、腕を。
輝く肉体が、まるでガラスのように反射していて。
女の瞳は見た。
自らの腕に抱かれた、首を見た。
大魔帝の最後の魔力を受け、老いが解けたのだろう。
今までで一番の美貌で、それは輝いていた。
首が、自らの首に向かい語りだす。
「あぁ……やっぱり、ほら、ふふふ、あたしって……死ぬ時だってきれい……ぃ」
蘇生と転生の魔術を自らに掛けようと、身体と手は、複雑な魔術を刻んでいた。
冥府に魂を囚われる前に、魂を逃がそうとしたのだろう。
けれど、そうはならなかった。
時は既に遅い。
白く細い。
まるで粉雪を纏ったような美女の手は――自らの最も美しいその瞬間。
安らかな死に顔を抱き寄せる。
転生の魔術すらも中断して。
あるいは、自らに見惚れて術を中断しなければ――脱皮という形で逃げ仰せたのかもしれない。
彼女は、反射する自らの貌に魅了され。
それ故に、滅んだのだ。
やがて、女は動かなくなり。
蛇たちがざわつき。
蛇の言語で語りだす。
ああ、主は逝ったか。
楽園で踏みつぶされていた我等を憂い、掬い、拾い上げてくれたその瞬間。
あの日の温もり。女の手のひらには、心があった。
あの時はまだ、女神であった女。
あの日の救世だけは、たしかに本物であったのだ。
だから我等は付き従った。
どこで道を誤った。
どこで踏み外した。
それでも我等に力を与えてくれた、その恩だけは忘れまい。
女神よ。
力に溺れた哀れなる主よ。
あの憐憫だけは、確かに本当、だったのだから。
魔猫は小さく息をはいた。
『そうか。こんな女でも――長い間、君達の主人だったんだね。いいよ、君達はもう自由だ。弔いの権利も、きっと、あるだろうさ』
言って。
眷族化した蛇神に告げて――自らの身を人の姿へ変貌させる。
蛇たちは、女の動かなくなった手を銜え――静かに、瞳を閉じた。
それが彼らの弔いなのだろう。
まだ小さなヘビには、外道な主人が何故動かないのか――分からなかったようだ。
動かなくなった主を見て、不思議そうな目で親蛇に問う。
どうして、女神さまは動かないの――と。
きっと、女神は死なないモノだと教えられていたのだろう。
いままではずっとそうだったのだから。
親蛇は頭を捻り、何かを伝えたようだが――。
これが死なのだと、子蛇にはちゃんと伝わったのだろうか。
人の姿をとった大魔族。
憎悪の魔性たる大魔帝ケトスには、分からなかった。
蛇たちが最後の弔いをする最中。
主の魔力を失い朽ちていく神殿を眺めるのは、一人の男。
そこには現実味の薄い、神秘的な美貌を持った黒髪の男が佇んでいた。
長い前髪の隙間。
全てを憎悪する紅き瞳が、ギラギラギラギラ。
人間という器を捨てて、ローカスターになり果てようとした。
壁に埋まる肉塊達を見て、酷く冷めた視線を送っていた。
かつて人間だった男は、全てを憎悪する瞳で何を思っていたのだろうか。
次に男は――。
女の滅びに目をやった。
哀れなほどに愚かだった女神。
本当に大事なものだと言わんばかりに。
死しても尚、自らの美貌を守ろうと……首を抱き続ける女の遺骸に――男はそっと手を翳す。
壁に埋まった狂信者たちの遺骸が見守る中。
女神の身体が消滅していく。
美しいまま、消えていく。
それは、大魔帝が見せた僅かな憐憫だったのだろうか。
女は美しいまま、滅びる事が許されたのだ。
女の首は美しく朽ちていく自分を眺めて、ふふっと最後に微笑した。
満足そうに頬を緩めて。
この蛇たちは……わるくないから……、どうか――末永く。
と。
最後の力を振り絞り。そう――言い残して。
滅びた。
女は最後の最後で、自らの眷属を庇うような言葉を残したのだ。
それが黒い男にとっては不思議で、奇怪で。
心のどこかを揺さぶったのだろうか。
『どうして、その心を人間にも向けてやれなかったんだろうね……』
口だけをぎしりと動かし言って。
まるで猫のように、首を横に倒したまま。
しばらく。
男の視線は追っていた。
崩れて消えた女の跡を這い、かつての主人を探す無垢なる子蛇の行動を――追い続けていたのだ。




