エピローグ ~聖女騎士カトレイヤ編~1/3
【SIDE:聖女騎士カトレイヤ】
先の遠征での活躍、神の試練を突破した一人の英雄。
聖女騎士カトレイヤ。
朝鳥のさえずりで目を覚ました彼女は、昨夜の宴の余韻を打ち払うように身体をぐっと伸ばしていた。
酒が入ったままの就寝だったせいだろう。
気怠く身体を伸ばす彼女の頬には、ほんとりとした赤みが浮かんでいる。
惰眠と現実の間を行き来しながら彼女は考える。
そろそろ起きないといけないのは分かっているが、だるい。
このまま二度寝をしてしまおうか?
そんな彼女の邪気を諭すように、起床を知らせるノックの音がする。
トントン。
おそらく、この独身女性専用の神兵寮――通称「女傑たちの硬き守り」の管理人である有翼人だろう。
「おはようございますカトレイヤ様。そろそろ起きて頂かないと――」
「ん……っ、なーに、もう朝なの……?」
目を擦り、ふわぁ~と欠伸をしながら答えるカトレイヤ。
また遅刻ですか? そんな呆れを滲ませるため息が、彼女の地獄耳にはハッキリと聞こえていた。
「はい。本日は下界降臨の日で御座いますから。英雄であるあなたにも参加して貰わなければ、みなさん、困ってしまいますわ」
「分かったわ。すぐに起きるから……そう、すぐに……心配をかけてごめんなさいね」
言って、伸ばす聖女の手はブドウ酒の瓶を抱いていた。
中身は既に入っていない。
もし瓶の中身が入っていたら、そのままガバっと飲み干して――深い惰眠を貪っていただろう。
それは彼女にとって幸運だったが。
起きない気配を知ってか知らずか、管理人は翼を広げて苦笑を漏らす。
「私は起こしましたからね。遅刻なさっても知りませんよ」
「はーい、分かってるわ。起きます、ちゃんと起きますって」
飛び去る翼の音を聞き、本当に起きないと不味いと悟った彼女は――なんとか睡眠欲求を振り払い、重い瞳を開けた。
身体をぐっと伸ばし、はぁ……と息を吐く。
酒はだいぶ残っている。
ならばすることは簡単だ。
朝食を作るより前。
彼女が手のひらに垂らしたのは、葡萄酒の瓶の底に残っていた一滴の雫。
その粒を魔力で浮かべて、
「主よ、我が肉体を蝕む穢れを払い給え」
そっと祈りを捧げる。
次の瞬間。
無駄に眩しい輝きが、彼女の自室に展開された。
それだけでカトレイヤの身体からアルコールが浄化されたのだ。
上級奇跡――解除の極光である。
神の奇跡を二日酔い回復に使うなど本来なら言語道断なのだが――。
遅刻するよりは数段、マシ。
そう判断していたのである。
シーツから抜け出した彼女は急ぎ、着替えを済ましていく。
目覚めは良好、何の問題もない。
もっとも。
知らぬ者が先ほどの虹色の輝きを見ていたら、上級神族が何か壮大な目的のために奇跡を行使した。
そう勘違いされてしまっていただろう。
聖女騎士カトレイヤ。
彼女は本当に先日の試練で大幅なレベルアップを果たしていたのである。
それが大魔帝ケトスの手による恩寵なのだと知っているのは、彼女と恩寵を与えた本人。
それと上司であるホワイトハウル。
そして――大いなる光ぐらいだろう。
彼女の成長は神による奇跡、ということになっているのだ。
別にカトレイヤにとっては大魔族の加護でも恥じることのない、むしろ、嬉しい出来事だったのだが――。
神族の間では、大魔帝ケトスの介入自体がなかったことになっているので仕方がない。
先日の試練。
神が与えし難関を乗り越えたカトレイヤはそれなりに有名となり、語り掛けてくる者も多くなっていた。
それがいけなかった。
昨夜は、ついつい勧められるままにお酒を飲んで、最終的には酔って魔炎をまき散らす寸前まで泥酔してしまったのだ。
ちゃんと他人を燃やす前に自室に戻っただけでも大した進歩だと、彼女自身は思っていた。
そんな彼女の今一番の自慢は――。
自室に飾ってある、一つの輝き。
試練突破の報奨として与えられた勲章だった。
白銀の魔狼ホワイトハウル。
皆の憧れであり、目標でもあるあのクールで孤高な美丈夫――白銀の君。
あの魔狼から直接に賜ったこの勲章は、彼女の誇りとなっていた。
白銀は大魔帝ケトスとも親しいのだろう。
カトレイヤが与えられた黒猫からの試練を知っていたようで、この勲章を渡す時にこう言っていたのだ。
『そなたにも苦労を掛けたな。試練を通じ我が友の心に触れてくれたこと、我は感謝しておる。言葉では言い表せない程にな……。あれは哀れな男なのだ――だが、とても儚き心を持つ弱い男なのだよ。おそらく、汝のまっすぐな心に……あの者の闇も少しは拭われたであろう。あー、すまぬな。我ばかりが一方的に語ってしまったな。聖女カトレイヤよ――その名、覚えておこう。我が他者の名を記憶することは稀だ。その……なんだ、これは我にとっては最大の……いや、なんでもない。ともあれ、その名を心に刻むと、かつてあの者と共に戦った魔帝の一柱として約束しよう』
と。
全ての命を平等に扱う公正な神獣が。
たとえ位の高い神族とて、罪あらば遠吠えの一つで消し去ってしまうほどに厳格な魔狼が。
あの白銀の君が――特別に名を覚えてくれると約束してくれたのだ。
寡黙で冷淡。
必要以上の言葉を一切、語らないとされるあの白銀が――これほどまでの言葉を語りかけたのだ。
それは他の神族達にとっても大事件で。
あの白銀様にあそこまで語らせるあの者はなにものだ! っと、ちょっとした騒動になったくらいなのである。
それが彼女の心には、ぐっと来ていた。
そう。
幼い頃からガキ大将気質だった彼女は、目立つことが嫌いではなかったのだ。
彼女は気合一発。
自らの頬をピっと両手で軽く叩いて、キリっと勲章に目を合わせる。
「さて、白銀様にもこの勲章にも迷惑を掛けないように頑張らないと。それで――今日の予定は……あれ、なんだったかしら……」
一切れのパンとミルク。
軽食を済ませながら彼女は今日のスケジュールを確認する。
そして。
パンを噛み切る口が少し、モソモソとしてしまう。
――女神の末裔ダイアナ、彼女の起こした事件の後処理……か。朝からは重い仕事ね。
彼女が迷惑を掛けた人間に謝罪をする。
それが白銀の魔狼ホワイトハウルの打ち出した方針だった。
あの時の遺恨を残したままでは、いけない。
恨まれて当然だ。
おそらく、今の神族の言葉などあまり快くは思われないだろう。
許されない罪もあるだろう。
取り返しのつかない案件も多々ある。
神の使いの手に刈られた魂は……そう簡単に再生できないのだから。
けれど。
それでも、許されないと分かっていても――謝罪はするべきだとカトレイヤ自身も思っていた。
この責任から目をそらしてはいけない。
この穢れは後に大きく育ち、棘となり神を貫く。
主神であり大神――大いなる光の弱体化が再び起こる事は目に見えていた。
それになにより。
単純な答えだ。
迷惑を掛けたのなら謝るべきだ。
そう、彼女は思ってもいた。
だから、せめて直接――神の使いが顔を出すべきだろう――と。
聖女騎士カトレイヤが異例の出世をした裏にはこういった事情もあったのだ。
ただの下っ端が使いとして降臨するよりも。
神族の英雄、聖女カトレイヤとして降臨した方が言葉も行動も重くなる。
――怒られるための出世、か。ま、仕方ないわね。
それを知りつつも彼女は出かける支度をした。
今日は恐らく、下界の者に白い目で見られるだろう。
驕り高ぶっていた過去の自分だったらどうなっていたか、彼女はふと考える。
そして最悪な答えが思い浮かんで、少しだけ眉を下げた。
それはあまり考えたくないわね――と。
モソモソとこびりつくパンをミルクで流し込み、彼女は自室を後にした。
◇
下界への降臨は――やはりそれほど甘いものではなかった。
略奪だけで済んでいた街や村は聖女の降臨に歓迎的だったが、人の命が既に奪われていた土地では……やはりそれなりの対応で迎えられたのだ。
彼女と共に降臨していた部下たちは既に精神を摩耗し、消沈している。
人間だった頃はエリートだった者が多い。
だから、こうして謝罪行脚には慣れていないのだろう。
それでも素直に頭を下げていたのは、あのダンジョンでの経験が活きているのだろう。
けれど。
――もうそろそろ彼らは限界ね。それに……、そうね、やはり彼等とは行動を別にする必要がある……か。
聖女としての能力、未来を読み解く力――神託がそう告げていた。
「今日はこれくらいにしておきましょうか。みんな、よく頑張ったわね」
清楚な聖女の微笑を意識して、カトレイヤは部下に告げる。
最近、こうした皮を被るのも上手くなっていた――と、彼女は内心で苦笑する。
「おそらく主も貴方たちの働きに満足しておいででしょう。わたしも満足しています。よく、自らを律しましたね――」
英雄であり聖女であるカトレイヤが見せた高潔な態度に、皆の表情が緩む。
安堵した様子をみせる部下達。
カトレイヤはふぅと息を吐く。
やはり、この判断はおそらく間違ってはいなかった。
皆、緊張が解けたのだろう――明らかに空気が軽くなっていた。
そんな中。
既に帰還の準備を進めている彼らの中で、新人の青年が申し訳なさそうに立ち上がった。
「けれど、よろしいのでしょうか。あと一件、略奪にあった隠れ寺院のような場所への降臨予定があるのですが」
聖職者から召し上げられたという事で、珍しく男性だ。
まったく好みではないから食指は動かないが、悪い子ではない。
カトレイヤは気を遣わせないように、少しだけ成長した胸を張って宣言する。
「大丈夫! そこにはわたし一人で行くわ。少し離れた場所にあるみたいだし――……あー、べ、べつに、自慢するわけじゃないのよ? けれど、わたしの転移魔術について来れる子はいないでしょう」
転移魔術にも距離や力量によってタイムラグがある。
今のカトレイヤなら瞬時に目的地に飛べるが、部下達にはまだそれほどの力はない。
それでも青年は聖女の顔をちょっと赤くした顔で見つめ、心配そうに告げる。
「ですが――やはり女性おひとりとなると……」
「わたしは救国の聖女カトレイヤよ? あ・の・聖女騎士カトレイヤよ! 大丈夫に決まっているじゃない! それじゃ、帰るまでのリーダーはあなたってことで、ね? 皆の帰還、よろしく頼むわよ!」
仕事の終わった彼女はとてもフランクで、青年は面食らってしまったのか。
ますます顔が赤くなる。
この女。外向きの顔が剥がれてしまうと、だいぶ残念になる。
聖女カトレイヤの本質はこんなものなのだと、青年は知らなかったのだろう。
「え?! ぼ、ぼくがですか?」
「そ、君がよ――大丈夫。今日のあなたを見ていたら、ちゃんと謝罪もできるイイ子だって分かったから。これからの貴方にも期待しているわ。また明日ね!」
言って、彼女は転移魔法陣を展開させる。
必殺! 言いたいことを言って転移!
である。
「せめて護衛を……! あの地には、人間の器を超えた強力な影……」
青年はなにかを言いかけていたが、既に彼女は飛んでいた。
◇
亜空間を進みながら聖女騎士カトレイヤは僅かに、頬に汗を滴らせた。
うまく、誤魔化せたか。
そんな安堵よりも浮かんでくるのは、緊張だ。次に向かう先にある危機を感じて、気を引き締めているのである。
次の目的地は――黒の聖母教と呼ばれる異教徒の集団。
彼女が神託で見た未来によれば、部下を連れて降臨していたら――誰かが殺されていた。
天に召し上げられた時点で神族は人とは魂の質が変わり、基礎能力を大幅に向上させる。
人とは種族が変わるのだ。
同じ筋肉量、知識や魔力であったとしても能力が変動する。同じ条件下にあっても人間と神族の間では、戦闘において、かなりの差がついてしまうのである。
そんな圧倒的に優位な部下の一人が、純粋な人間に殺されるのである。
人間にも強者はいるという事だろう。
彼女が亜空間を抜け――件の現場に降臨した、その瞬間。
本当に。
一瞬だった。
転移して、神殿の床に足をつける――、一秒にも満たないその間に、ドス黒い声が聖女の耳をぞくりと突き刺した。
「動くな――」
凶器ともいえる黒い閃光が、喉元に突き刺さりそうになっていた。
目線だけで振り向くと――そこにいたのは一人の人間。
顔を覆うように包帯を巻く、並々ならぬ魔力を孕んだ人間の男が……ギロリ。既にカトレイヤの背後をとっていたのである。
木漏れ日の目立つ神殿内部。
謎の男が突きつける手刀が――聖女の動きを戒めていた。




