悪夢の終わり ~救済と罰~その5
幻影の草原に肉球をつけ、私はギシリと空を見上げて瞳を輝かせる。
荒ぶる魔力が、草原の麦畑を燦々と照らし。
尾のように長い穂を揺らしていた。
憎悪に滾る私の瞳が見通すのは、こちらを覗く神の瞳。
その忌々しいほど神聖な光。
大いなる光、この世界の主神。
たかが主神如き。猫さえ救えぬ神が、魔王様の愛猫たる私の機嫌を損ねるなんて随分と烏滸がましい。
そう、ずっと思っていたのだ。
まあ。
実はホワイトハウルの精神修行で、その辺のわだかまりはちょっと解消しているんだけどね。
ともあれ。
改めて、私はいつもの猫声で告げた。
『ねえねえ! 聞こえなかったのかい? 愚鈍で忌まわしき大いなる光。私は君に用があるんだよ。それでも降りてくる気がないのなら、目障りだし消えてくれって言っているんだけど、どうかなー?』
返事はない。
けれど光は確かに今の状況を観察している。
それでも、微かな反応自体はあった。
猫魔獣としての獣毛がザワっと揺れる。
相手がイラっとしているのがちょっと伝わったのだ。
まあ相手にしてみれば、たかが五百歳程度の子猫が調子に乗ってるんじゃないって所なのだろうが。
たかが黒猫一匹に助けて貰わないと弱体化が解除できないほどに落ちぶれているなんて、プププー、神、残念でやんの。
光の気配が、少し変わる。
――はぁぁぁぁ!? 駄猫の分際で生意気じゃない、意地でも退いてやるもんですか!
って、空気が伝わってきたのだが……。
さすがに……今のは神の声ではないか。主神ならもうちょっと厳格な声だろうし。
しかし、光に動きはない。
居座ったまま、私がダイアナからどういう情報を引き出すのか――覗いているのだろう。
大いなる光にとっても勇者は未知数、主神クラスであっただろう勇者の情報は掴めていなかったのかな?
向こうも可能ならば情報が欲しいのだろう。
退く気配はない。
だーかーらー。
私。
情報を見せる気なんて、まあぁぁぁぁったくないんだけど。
どうして分からないかな?
さっきのはちょっとフランクな言い方過ぎたかな。
じゃあちょっとだけ真面目な獣人モードの声で――と。
『盟友との約束に従い君には協力しよう。友への心を人質に君が私を利用した事、その件に関しても今は目を瞑ろう。弱体化しちゃった原因は私にも多少はあるのだからね。けれど――今、こうして見ていられるのは不愉快だ。何もしていない君がダイアナくんの持つ情報を都合よく盗み見るのは、アンフェアだろ? 悪いけれど、しばらくその光を閉じていてくれないかな?』
やはり大きな反応はない。
猫ちゃんが一番ムカつくパターンなのだ。
気付いているのに、気付いていないフリ。
用があるから呼んでやったのに無視するなんて、ねえ?
けれど、やはり相手は友の上司。
少し、余裕をもって対応してやるのが大人の猫というやつか。
『どうだろう、私は今回の件を穏便に解決したいと思っているのだけど。素直に降りてきてくれないだろうか?』
……。
ほう、知らん顔か。
この私が。
大魔帝ケトスが。
世界とか。
友人関係とか、人間関係とか、魔族と神族との微妙なバランス関係とか。そういう面倒な事を考慮して穏便に話をしているのに。
無視。
たかがちょっと強くて世界から信仰されていただけの光如きが、なかなかどうして、良い度胸じゃないか。
私は心の中でだけ、キシャーキシャーと毛を逆立て爪も立て、暴れ回る。
バーカバーカ!、神のバァァァァカ!
おしりぺんぺん、ブタのけつぅ~!
こっちなんて世界から愛され始めてる猫様なんだぞ!
畏れ、うやまえ、たーてーまーつーれぇぇぇ!
まあ、こんな事を思っていても。表面上は涼やかに微笑を浮かべているんだけどね。
いいよ。
そっちがその気ならこっちにも考えがある。
さて、戯れも警告も終わった。
ザァァァァァ……。
憎悪の魔性としての力が漏れ始める。
『警告はした。従わなかったのは君の方だ――』
バチリバチリと魔力の渦が周囲を取り巻く。
そして。
猫目石の魔杖を握った私は、ザァァァっとそれなりに本気で杖を振るった。
黒雨が、幻想の草原を包み沈める。
魔杖から放たれる増大された闇の魔力、私の力そのものが周囲の空間を暗黒に染めているのだ。
浮かび上がってくる闇の中。
魔杖の先。
猫の瞳を彷彿とさせる宝珠が、ぎぃぃぃぃっとその瞳を輝かせる。
それはまるで、猫の目覚め。
闇に輝く紅き光。
魔王様が私に授けてくれた、神話級の武器。
猫目石の魔杖。
伝説の巨神鯨――ケートス鯨のように膨らんだ憎悪を滾らす魔猫。
憎悪の海を揺蕩う私を見つけてくれたあの方が名付けてくれた、この名、ケトスの名を冠した我が魔杖。
その真の力が、今、解放される。
『我こそがケトス。大魔帝ケトス! 偉大なりし御方、全ての魔を束ねる覇者、魔王様の魔爪なり!』
名乗り上げ自体が魔術詠唱となり――複雑な魔法陣が空に刻まれていく。
陣形を組むような形で広がる無数の十重の魔法陣。
魔法陣に惹かれた魔力が風となって舞い上がる。
闇に包まれた草原。
麦畑もまた揺れていた。
ざわざわと魔風に揺られた稲穂が、その粒を放出している。
バササササササ……ッ!
杖の魔力を追従するように、聖者ケトスの書が自動的に開きだした。
荒ぶる十重の魔法陣とワンコ印の聖書。
神としての力を増した聖者ケトスの奇跡が、闇属性の魔術と共鳴する。
私の目線の先にいる光が、偉そうに輝きだす。
――はん! やれるもんなら、やってみなさいよ! 主神に手を出せるわけないじゃない、どーせ、デブ猫のハッタリなんでしょう!?
と。
そんな音が、私のモフ耳を揺らしたが……さすがに、神、じゃないよね?
構わず。
私は魔杖の先の瞳に赤い魔力を流し込む。
『我は深淵の闇から憎悪せし者、光を覗くケモノ也――来たれ断絶の刃!』
ガジャジャジャ! ジュイィィィン――ッ!
モフ耳の先からモフ尻尾の先まで、黒い稲光の魔力を纏わせ。
ぼっふぁー! と、モッコモコに膨らんだ私は杖を翳したのだ。
放った魔術は、空間断絶。
光をも切り裂く闇の刃。
放つ相手は――こちらを高みから見学している大いなる光。
この世界の主神だ。
『さあ、どうする――君の答えを聞かせておくれ』
空間断絶魔術が、この空間と迷宮を切り離していく。
全てを見通す神の目といっても所詮は魔術。
祝福も奇跡も魔術もスキルも、その根本は同じ力の塊。
力ならば、より強き力で対抗できる。
単純な答えだ。
魔術的接触を切断し、この空間を私の領域に書き換えているのである。
――え、ちょ!? マジで!? 主神に歯向かうって言うの!?
と、魔力持つ音が再び私の耳を揺らしていた。
……。
気のせいじゃ、ないよね。
ギギギグギグイギギグギィィィン――!
相手も私の空間断絶魔術に対抗してきたのだろう、空間魔術と空間魔術がぶつかり合う。
どちらも神の領域の力だ。
その衝突は軽いものではない。
形容しがたき音が世界を振動させる。
ボン、ボボボオン、スギャズガズゴゴ!
きっと、世界の力ある者たちはけっこう大騒ぎしているだろうとは思う。
にゃはははは、だって主神と大魔帝の戦いだからね。
両者ともにただの小競り合い、本気を出していないがその余波はそれなりに広がっているだろう。
それでも。
今回は引くつもりはない。
『悪いね――無責任な君にこれからの事を最後まで見せるつもりはないんだ』
魔術の練度を更に高次元の領域に切り替え、杖をクイクイ。
空間を掌握しながら私は言う。
魔術戦は――やはり血が滾る。
魔杖と聖書の活躍に嫉妬したのか。
紅蓮のマントが自らの意志で動き出す。
開いたその亜空間から飛び出るのは、神速で放出される魔力の輝き。
普段、暖房やクーラーや亜空間収納、果ては猫ちゃんクッションにまで使っているが――これも魔王様が預けてくれた神話級の一品。
ただの冷暖房アイテムではないのだ。
私の魔力を制御し倍増させる闇の光が、魔力放つ業火となって天へと昇っていく。
ズドゥゥン、ズズズ、ドゥゥゥン!
魔炎のつぶてが、大いなる光の神の目を焼いていく。
殺さぬ程度に、滅ぼさぬ程度に、再び弱体化させない程度に。
けれど。
今の無礼を嗜めるように――私は魔術を盛大に放ち続ける。
遠くの方で、あた……っ、いてて、ちょ、目を狙うなんてなに考えてるのよ、この駄猫!
なんて声が聞こえたけど……これ、やっぱり大いなる光の声か……。
空間掌握を巡る戦いは圧倒的に私が有利だった。
今回の迷宮探索による成果――神の弱体化が回復するのは、まだ先の話。
回復しきったとしても、今の私の方が優勢だろうと踏んでいた。
自惚れではなく――全盛期の大いなる光とも、真っ向から戦えるほどの力を備えている自信があるのだ。
私は成長をしているのだ。
友や敵対した相手。そして、巡り巡る運命の中で出逢った憎い筈の人間達。
忌まわしくも輝かしき存在。
人間。
彼等との交流が、憎悪の魔性である私にそれだけではない光を与えてくれているのである。
私に勝てない事を、それなりに神は苛立っているのだろう。
相手から、ものすっごいイライラオーラが伝わってくる。
ぷぷぷー!
神、これで少しは反省しろ!
さて。
そろそろ。
止めないと、不味いかな。
私は私の衝動を抑えきれなくなる。
私は大魔帝としての魔性を闇の中から覗かせながら、告げた。
『今一度だけ告げる。我が友に免じて此度のみは見逃してやる。これ以上、我の毛を逆立てようというのなら止めぬが――そうでないというのなら、去ね。汝も承知しているのだろう、我は憎悪の魔性。時に破壊の衝動に身を委ねてしまう未来とて、あり得ぬ話ではないのであるのだからな』
その直後――。
ザザッ、ザァァッァァァァァアアアァァァァl!
一瞬だけ。
敢えて制御しなかった衝動的な魔力を見せつけた。
それは獣の警告。
猫魔獣としての戯れと、憎悪を司る魔性としての狂気に揺れる私の邪気。
最終警告だと、悟ったのだろう。
光が、考えこむように揺らぐ。
神もここで本気の私と戦うつもりはなかったのか。
ようやく。
全てを見通す目を閉じて、気配を遠ざけていく。
――くぅ……っ、見てなさいよ! ウチのワンコの方がかわいいし、モフモフだし、いい子だし! いつか、あんたなんかより強くなるんだからぁぁぁぁ!
と、阿呆な捨てゼリフを残して……。
遠ざかる光をジト目で見て、私は思った。
ホワイトハウル……あれが上司なのか……。
かなり好かれているようだが、なんだかなぁ……。
――と。
ぴゅ~っと。
幻影の草原に、あるはずのない風が吹く。
さて。
今回は、まあ私の勝ちなのだろう。
ちょっとだけ。
あの時の意趣返しができたと、そう思ってしまう私の心は少し狭いのかもしれないが。
まあ、猫なんだし仕方ないよね。
魔王様だってきっと許してくれると思うのだ。
『これで貸し借りはなし、かな。いや、そもそもあっちが先に私を利用したんだし、どうなんだろう。まあいいや、さて――今度こそ』
言って。
私はわりと真剣な顔で女神の末裔ダイアナの前に立つ。
これで、今回の散歩もあと少しで終わりを迎えるだろう。
後は、私は私の利益のために魔王様のために。
勇者の情報を引き出し持ち帰る。
ぎゅっと糸を引いて。
瞳も細めて――私は問いかけを再開した。




